さようなら、また明日、ありがとう。
 何ひとつ言えなかった。何も伝えられなかった。ただ自分の想いだけをぶつけるだけぶつけて、トワコさんを追い詰めただけだった。彼女のことをコドモコドモと思っていたけれど、紛れもなく俺こそが、自分の好きな人さえ思いやれないコドモだったのだ。


そうして今日がうまれる

「……電話、くれるなんて」
「クミが警察に言うって、メール、うるさいから」
「なんでもいい。……来てくれて嬉しい」

 正確に言うと、見知らぬ海岸に呼び出されたのはこちらだった。それでも俺に会いに出て来てくれたことが嬉しかった。トワコさんはいくらか、またか弱くなったように見える。

「今ね、ネイルサロンでバイトしてるの。飲食店だと出来ないじゃん。だから楽しいんだ」

 確かにトワコさんの細い指はきらきら輝いていて、早速彼女はまた新しい「キラキラ」を見つけたのだと思うと、息が少し窮屈になる。

「似合ってます」
「そうでしょ?」

 海風に揺らされる髪は伸びていて、あの綺麗なうなじはどうしても見えない。細い肩だけがちらちらと覗いて、この人は拒食症なのかと疑いたくなる。

「ちゃんと食べてますか」
「食べてるよ」
「ちゃんと寝てますか」
「寝てるよ」

 苦笑して、お母さんみたいと言った彼女の笑顔が懐かしい。セピア色にくすんでしまってもおかしくないぐらいに。

「ユウトさんと会いました」

 一段と強い風がなびく。
 その中で顔をこちらに向けたトワコさんは何を思っているのかわからない無感情な表情だった。

「へえ」

 そう一言呟いたかと思うと、バッとこちらに体ごとすべてを向けた。

「じゃあ聞いたの? 高校の時の話全部。私さあ、言ったでしょ。サックスが吹きたかったのって。小学生の時から憧れてたのに、中学に入ってソッコーであんたは向いてないって選考から落とされてラッパ吹きになって。サックスが吹けなかったことで手に入れられたのはアイツとの縁だけと思ってたのに、後輩にまんまと盗られたと思ったらその女、サックス吹いてんだよね。ムカつく以外なんでもなかった。ムカついてムカついて仕方なかった」

 まくしたてるように言った言葉は刺々しく聞こえるがどこか弱い。違和感は拭えない。

「だからサックス落としてやったの、私から全部盗んでく女が許せなくて。で、馬鹿らしくなってサヨナラしたの、あの高校には、吹奏楽には」

 ここでフッと笑って、ちらりと俺の方をトワコさんは見た。馬鹿にしたような、悪意の見える笑顔。

「私の過去を知って、満足した?」

 ああ、そうか。俺は納得した。今までの仕草は全部、俺を傷付けるための。

「過去だけじゃ物足りない」

 トワコさんと同じように体ごとすべてをトワコさんに向けた。

「今のこともその先のことも知りたい。トワコさんの積み重ねてく全てを、俺が隣にいて忘れないでいたい」
「何それ、何言って……」
「もう、過去を置き去りになんかさせない。そんなことさせないし、俺は過去にはならないでいつだってトワコさんの今でありたい」

 ニッと思わずこぼれる笑みを隠さないでみる。

「ずっとキラキラな存在でいたい」

 一度言われたことを、俺は忘れていない。新しいからキラキラしてる、よく見える、とトワコさんが嬉しそうに言った。
 その素晴らしい日々を、ただの過去になんかさせない。


「馬鹿ね」
「知ってたでしょう」
「物好きね」
「俺もそう思う」

 トワコさんは溜め息をついて苦そうな表情でこちらを見上げた。惚れている身としては、心がくすぐられるような顔だ。

「今さら遅いの」

 そう言って一度目線を外してからまた、こちらを見上げる。

「私傷付いたんだから。あのとき」
「ごめん」
「……でもケンジくんがああ思うのも仕方ないと思うし、ちゃんと断言出来なかった私も悪いの」

 私ね、と言葉を続けるトワコさん。

「逃げるのが得意だった。今までうまく時間や誰かに助けられて逃げてきたの。振り返りたくなくて、過去を置き去りにする、なんて言ってただけ」

 そして、まっすぐな目で、かかげた自分のキラキラした指先を眺めだした。

「でもこれは、やっと自分で見つけたものだって思って。だから大切にしたいし、すがりたい」
「ネイルする人になりたいってこと?」
「そう。突拍子ないのはわかってるけど夢中なんだ」

 広げた彼女の指の間から、微笑んだ口元が見える。

「だから、今はコレひとすじに生きる。そっちには帰れないし、たまにも会えない」

 俺の下心をわかってか、手のひらをずらして、ニコッと笑った顔をこちらに見せるトワコさん。

「ケンジくんはさ、こんな女でもいいの?」

 俺の大好きな、いたずらな無邪気な笑顔だ。
 つられて笑ってしまう。

「だから、何度も何度も何度も言ってるでしょう。絶対好きにならせてみせるって」

 今日ばかりは、トワコさんの瞳には俺がしっかりと映っていた。二つ年上だけれど、同じ時間を同じ場所で過ごしてる。

「ほんと変な男」

 トワコさんが照れ臭そうに横を向いて、自分の髪をかき上げながら言った。

「トワコさんにぴったりだ」

 とんでもなく綺麗なうなじが覗いて、俺は満足した。



end

タイトル by 家出様


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