早坂さんは、いいから、と俺の背中を乱暴に押して、カウンターの外へ出るように視線で命令した。俺は間抜けにハデなエプロンを着たまま、あまり会いたくなかった人物に軽く会釈をする。
目の前にいる男は、大きな黒いものを肩に背負って同じように頭を下げてきた。あの人よりだいぶ年上に見えるのは、彼女のせいなのかこの男のせいなのか。
「はじめまして」
とても俺には出せない、甘いバリトンの声色だった。
あのキラキラがほしい
タイムカードはきっと早坂さんが切っているのだろう。働かないのに稼ぐだなんてあの人が許すはずがない。そんなことを思いながらオレンジジュースをズズッと吸い込む。今しがたミキサーで作られたばかりのそれは甘過ぎず少し苦味があって美味だ。
「なんか、ご馳走してもらってスイマセン」
「いいよ、俺が突然押しかけたんだから」
ユウトさんは、嫌味のない爽やかな印象。百点満点の男に見えるのは先入観のせいだろうか。勝てる気がしない。今すぐに逃げたい。
俺はもう、何もないのだから。
「やっぱり、話って、」
「うん。トワコのことなんだけど」
耳がずきん、と疼く。
みんな腫れ物のように扱っていたから、久しぶりに聞く名前だ。
トワコさん。
もうずっと、名前を口にしていない。
「トワコが……居なくなったって聞いた。クミが今、必死で探してて、俺にも連絡が来て」
どくどく、と心臓が波打って血液が巡る。いつの間にか下を向いて握り締めた自分の拳を見ていた。
夏が終わりを告げたばかりで、暑いのか寒いのかわからない気温の中、汗が滲む。
あの夜を最後、トワコさんは消えた。
俺に「大嫌い」と言った彼女は、次の日バイトを無断欠勤した。心配した早坂さんが何度電話をかけても出ず、それから彼女は誰の前にも現れなくなった。彼女は家にも帰っていないようで、郵便物が放置されている。
音信不通、行方不明。
そんな状態に、クミさんは警察に届けを出すと声をあげ始めていた。
あんた、トワコになに言ったの。
「俺、何の力にもなれないですよ」
トワコさんの真意なんてわからない。わかるわけがない、あんな、とんでもない人。ただの、俺の、言葉なんかでこんなことになるなんて想像もつかないだろう。
「今のトワコを支えているのは君なんだと思ってて」
カプチーノを静かにテーブルに置いて、ユウトさんはまた落ち着くような甘い声で話し出した。
「この間のコンクールで、本当に久しぶりにトワコに会ったんだ。ずっと誰も連絡がとれていないって言ってて、大学に行っても避けられて話も出来ない状態だって聞いてたから、心配だったんだけど……俺は何も出来なかった」
知っているよね? そんな視線を送られて、こくんと頷いた。トワコさんは、ユウトさんの彼女のサックスを窓から故意に落下させた。激情のあまり。
そしてトワコさんは今までのすべてを過去にして、置き去りにして、真新しい人生を始めたのだ。誰も彼女を知らない、彼女曰く「キラキラした」世界で。
「だからこの間はホッとしたんだ、本当に」
ユウトさんは、彼の持つ声の通り優しい人なんだと思った。卒業したっきり、しかも最悪な別れをした同級生をずっと気にかけていただなんて。
「トワコは、あの日いい顔してた。自分の過去も受け入れられるようになったんだって思った。大人になったとまでは言わないけど、表情にトゲがなくなって落ち着いたなあ、って」
ユウトさんは嬉しそうに話す。切なさを抱いたようでもあったけれど。
そんなユウトさんの話に、俺は簡単に頷けないでいた。
トワコさんが大人らしくなっていた? そんなことはない。あの日のあと、俺に子どものようにすがりついて自らの不安を隠そうとしなかったトワコさんを俺は見ている。
俺だけは、見ている。
「────っ」
息が止まった。
止まったように思った。
何かが繋がった気がした。
本当におこがましいかもしれない。
でも、そうだとしたら。
「何がトワコを変えたのかなって思ってたら、……トワコは、やっと好きな人が出来たって嬉しそうに言ってきたんだよ」
オレンジジュースの苦味が舌の上に残る。じわじわと広がって、なかなか消えない。
嘘だ。本当だ。まさか。
信じられないけれど、信じたくないだけかもしれない。責任から逃げたいだけだ。
ユウトさんは言った。
「二歳年下の、優しくてヘタレな、でも頼れるオトコだって」
震えながら、唇が動く。
「そんなの、俺じゃないか」
俺しかいない。
最初はうなじに一目惚れして、それからトワコさんがずっと好きで、イタズラにふりまわされて、そんなところをもっと好きになって──。
頭の中にいくつも浮かぶトワコさんの表情。怒ったり、塞ぎ込んでいたり、数えきれないたくさんの顔。その中でも、やっぱり笑ってる顔がイチバン良い。屈託ない、まるで子どものような。
「……ユウトさん、ありがとうございます。俺、全然わかってなかった。馬鹿だった。クソガキだった」
しまい込んでいた想いが溢れるようだ。諦めちゃダメだ。置き去りにするだけの過去にしちゃダメだ。
そんな風に逃げている、トワコさんのようになりたくないって思っていただろう。
「トワコさんを探します。なんとしても見つけ出します。俺にしか出来ない」
二人でちゃんと過去を見つめて大人になろう。キラキラした新しい日々は、過去を捨てなくたって作り上げられる。積み重ねたすべてを大切にして、トワコさんと一緒にいたい。
よかった、ユウトさんは微笑んだ。どうしてここまでしてくれるのか、嫉妬を覚えてしまいそうだったけれどこれも、トワコさんが過ごした時間の賜物なんだと思うことにした。
title by さなぎ様
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