※大学生とリーマン



今日も定時では上がれなかったのだろう。当然のようにドアを開けて部屋へと踏み入ると、部屋の向こうでハンガーを手にした男がほんの少し眉を顰めた。
別段珍しい光景ではない。坂田がこの1DKの合鍵を手にしてから大分久しくなる。

「いきなり来んなっつってんだろ。連絡の一つもしろよ」
「あー忘れてたわ。はいポストの中身」

土方は指輪をしていない。上着を掛けてタイを解いた土方の手が坂田の差し出した紙の束をもぎ取る。
その拍子に、ポストインされたチラシ類の隙間から一枚のハガキが零れ落ちた。ピンクに縁取られた題字が目を引く。
ワタシタチケッコンシマシタ。
土方がさっとそれを拾い上げた。

「誰?」
「高校の同級生」

土方はそれらの束を机の上にバサリと置いて腰を下ろした。
向かいにあるスチールの本棚には薄い新書や学生時代の名残の専門書が整然と並んでいる。以前引っ越しの際にそれを取っておく理由を訊ねた時、土方は、お前が使うかも知れないからと馬鹿にしたように哂っていた。入学時は同期だったのに片方はまだ在学中だなんて、一体どういうことだ。

入る時に抜けて来たキッチンへと戻って常に保温し放しのポットを持ち上げる。十分に重い。マグカップを二つ出して我が物顔でインスタントコーヒーの瓶を開ける。勝手は知ったるものだ。
七分目までコーヒーを注いだカップを両手に取って返すと、土方は例のハガキをぼんやりと眺めていた。

「そういやあいつも結婚したんだってな、何だっけ、ほらアレ」
「聞いた。あれだろ、二年の時ゼミ一緒だった」
「そうそう、結構増えて来たよなァ既婚者。あんまイメージ湧かねーけど」

テーブルにカップが触れることんという音が部屋に響く。土方は相変わらずハガキに目を落としたままだった。何となくその視線の先を見遣る。ワタシタチケッコンシマシタ。
ピンクの縁取りと純白の衣装。脊髄からゆるゆると焦燥が浸みてくる。

「なあ、お前もしかして、結婚したかったりするの」
「何言ってんだ」

土方は視線を動かさずに小さく笑った。その唇はできるもんならやってみろとでも言いたげな色を含んでいる。じわりと一気に溢れた焦燥が臓器を圧迫する。

「引け目?」
「そりゃ全くないわけじゃねェが」

どくり。ついに焦燥は四肢まで広がって僅かに体温を下げた。

「悪い」
「何で謝られなきゃならねー」
「するか、結婚」

土方が漸く目を上げた。
カップの取っ手を指先で弾く。内容物の液面が細かく波立った。中身は両方とも確かに同じものである筈なのだが、その色は全く違っている。当初はミルクの入れすぎだといちいち眉を顰められたものだが、今となってはそれも日常の一部に埋没していく。何だってそうだ。

「マジで、さ。五年目だぜ」
「ふざけてんのか、お前」
「そりゃ籍は入れらんねーけど。マジもんの結婚がしたけりゃ女選ぶか偽装結婚だ」

土方は真性のゲイだ。女は特に嫌いというわけではないようだが少なくとも結婚相手に選ぶようなことはしないしできないだろう。体面を保つとしたら真性ビアンの女の子でも探して友情結婚するしかない。

土方は此方を見たまま動かなかった。カップから立ち上る湯気が少しずつ薄れていく。

「何をどうするってんだよ」
「だからまずお前の親父んとこ行ってよ、息子さんをくださァい、みたいな?」
「馬鹿か、できねェよ」
「あ、お前、親にカムしてねーの」
「いや。いねーから」

反射的に、何が、と返しそうになった唇を噤む。
何年一緒にいたって、知らない領域はいくらだってある。

「んだ、俺と同じか」

机に置かれたステンレス製の灰皿が真上からの電光を鈍く跳ね返していた。その隣には無造作にライターも転がっている。
土方は煙草を吸いたそうな顔をしていたが、箱を取り出す気配はなかった。

「じゃあもうアレだ。駆け落ちするか」
「誰にも反対されてねーのに何が駆け落ちだ」
「誰にも認められてねーんだから同じ事だろ」

世界は平等に出来ちゃいない。
机上のハガキからは幸せそうな笑顔が二つ並んで坂田を見上げている。そう笑ってくれるなよ、こっちだって必死なんだ。人並のしあわせが当たり前に手に入るお前らとはワケが違うんだよ。

別に今が不幸なわけではないが、とは思う。しかし変化がない。ただ漫然とこのまま時を経過させていていいものか、どうにも言い知れぬ焦燥が心臓に内側から爪を立てることがしばしばあった。ゆるり、ゆるりと。時だけは確実に流れていく。そもそも平穏や安定を求めていたというわけではないにしても、なかなかどうして引っ掛かりを覚えないわけにはいかないらしい。

駆け落ち。
それは婚姻届も戸籍も肯定も祝福も得られない自分たちにとってとてもいい考えに思えた。
意味と承認を与えられなかった俺たちは、机上のコーヒーも本棚の新書もそのままに、この場から忽然と消滅する。そしていつか全く別の何処かで新たな息をする。そこで改めて生まれるのだ。悪い考えじゃない。

しかし土方はコーヒーを啜って呆れたように眉を上げた。

「ようやく仕事決まって卒業見込みも出たのに何言ってんだよ六回生」
「仕事場そこそこ離れてっから会えなくなんだろ。やっぱりその前に駆け落ちした方が」
「俺は仕事捨てるくれーならてめーを捨てる」

坂田は思わず土方の指に視線を向けた。
土方は指輪をしていない。以前はペアリングをしていた時期もあった。まえの話だ。自分たちの関係性と相手の性格を鑑みて、どうせ付けることはないのだろうと半ば諦めを持って渡したものであったが、意外にも相手はそれを結構な期間身につけていた。当たり前のように薬指で光っているそれを見る度何とも言えぬ気持ちになったものだ。
外したきっかけは確か土方が就職活動を始めたことだったように記憶している。バイトをしていた時は特にそうは思わなかったのだが、土方はごく精度の高いワーカーホリックに成長した。それこそ仕事のためなら恋愛沙汰はすっぱりと切り捨てるだろう。

ちなみにその指輪の片割れはといえば、未だに気分で付けたり外したりを繰り返している。今日はしてきていた。

「なあ、マジな話、俺と結婚するってことそのものは、アリだと思ってんの」
「だから、」
「理屈はいいんだよ。俺と一生付き合ってもいいと思ってんのかってハナシ」

左手の薬指に注がれた視線に気づいて、土方が小さく身じろいだ。指を引っ込めるか否か逡巡したのだろう。指先がぴくりと痙攣する。しかし結局、土方はそのまま手を動かさなかった。引込みのつく域はもう踏み越えている。

「お前が今は仕事に集中したいってんならそれで良いけど、ただ今の俺にはお前以外いないし、もう別れるってのもあんま考えらんねーし、とか」
「指輪な、失くしたんだ」

土方が唐突に言った。悪い、引越しの時に何処か行っちまって、見当たらないんだよ。言い出しにくくて黙ってた、あーそんな顔すんな、これでもマジで悪いと思ってるって。
一度唖然として顔に移した視線を再び指先へと落とす。不意にその手が煙草の箱を掴み出してライターを引き寄せた。

「それで、な。まあ……、買ったんだよ」
「何を」
「だから新しい奴だよ。会社じゃ付けられねーだろうが一応な」

咥えた煙草に火を点けてから、土方が身体を捻って背後の本棚に手を伸ばした。並んだ新書と仕切り板の隙間にさり気なく置かれていた白い箱を引き出して机に置く。蓋がどけられると、黒いレザーのケースが二つ並んでいるのが顕になった。促されるままにそれを一つ摘み上げて開く。瞬間、反射的にバチンと閉じてしまった。

「お前これ、いくらしたよ」
「何つーこと訊くんだてめーは」
「いや、ちょっと本気で教えて」

嫌な顔をしている土方に今世紀最大の真顔を打ち返す。暫時無言の攻防が続いたが、やがて土方はゆっくりと煙を吐き出すと諦めたように目を逸らして口を開いた。

「二つで給料二ヶ月分。男物だと限界だ」
「……マジかよ」
「誤魔化しきれなくて店員にゲイだってカムしたよ。もうあそこには近づけねェな」

恐る恐るもう一度ケースを開ける。相当純度が高いであろうプラチナが網膜を射った。ごくシンプルなリングの内側には驚いたことに文字まで入っている。名前やイニシャルではなかった。Since2006。
一度此方を捉えた視線が再び忙しなく逸れる。

「駆け落ちなんざするまでもねェ。三月でマンションの契約も切れる」

灰皿に軽く灰を落とした土方が呟くように言った。

「するか、結婚?」

胃を締め上げられるような衝撃と体温の急上昇。ごつんと鈍い音を立てて坂田が机に突っ伏す。コーヒーが零れる寸前まで大きく揺らいだ。
打った額が痺れる。どうやらこれは現実だ。

「……中間点らへんで、探すか。出来るだけお前の乗り換えがないようにするから」
「大体当たりは付けてある」

事も無げに返された台詞にずるずると顔を上げる。坂田の目の前に、ばさりとファイルが広げられた。丁寧にマークやらメモを施されたその仕事ぶりは、流石の土方だ。再び額を机に打ち付ける。
やらかした。もっと早く言い出せば良かった。のんびり留年なんかしてる場合じゃなかった。
顔を伏せているために篭もった声でぼそぼそと訊ねる。

「お前、いつから俺と結婚してもいいと思ってたの」
「書いたろ」

Since2006。指輪に刻印された文字をまざまざと思い返す。リングケースを握りしめたままの坂田の右手に思わず力が入った。

「……初めっからじゃん」
「そうかもな」

煙草を片手に携えたまま、土方が換気扇のスイッチを入れるべく立ち上がる。見なくても分かるまでに慣れきった土方の習慣と煙草の匂いが感覚器官を侵す。
どうにかゆっくりと顔を上げて、坂田は冷めたコーヒーを一気に飲み干した。

世界は平等に出来ちゃいない。
資料の下から覗いているハガキでは幸せそうな笑顔が二つ並んで坂田を見上げている。坂田はぐっと唇を噛み締めて笑いを殺そうとした。無理だった。人並のしあわせが当たり前に手に入るお前らとはワケが違うんだよ。何せこっちは人並以上なんだ。

断言できる。今この瞬間、世界で一番しあわせなのは、紛れもない俺だ!

「声に出てんだよ」

不機嫌そうな声と共に軽く背中を蹴られる。
持ち前の反射神経を全力で駆使して、坂田はその足を掴み上げた。バランスを崩した土方が間髪入れず倒れ込んでくる。面食らったような目の前の顔が怒りに占められる前に、坂田は自分の左手に填っていた指輪を引き抜いて土方に突きつけた。

「これ、もう一回やるから。今はこれで我慢して」

指輪のサイズは同じだ。当然ジュエリーショップの店員も誤魔化しきれるわけがない。俺も来年辺りは店員にカムしなければならないんだろう。そしてドン引きされるんだろう。嫌だなあ。でも土方はそれを乗り越えて買ってきたのだ。

そんなにいくつも要るかよ、と呆れたように呟きながら、土方はそれを受け取って当たり前のように填めてみせた。膨れ上がった懐かしさに心臓の奥が圧迫される。この光景を見る度に感じていた何とも言えない気持ちが蘇る。
そうだ。一言で言うなら、きっとこれは、幸福感だった。

どうしようもなく溢れたそれに衝き動かされるように、坂田は目前の身体を引き寄せた。
家賃は折半として、果たして生活費や家事の負担率などは一体どうするのかなどと頭の片隅で考えることも忘れずに。

マネジメントリングス




結婚企画「Happy wedding」様に提出。
(111122)









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