「内緒だよ。」そうやって立てた人差し指を口元で遊ばせた苗字がいやに美しかった。
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俺の家からわりと近くにあるばあちゃん家。ばあちゃん家から少し歩くと繁華街に出る。がちがちの店から離れた、それでも少しいかがわしい店、所詮はガールズバーと呼ばれる類の店にアイツはいた。
部活のオフを利用してばあちゃん家に泊まりになった。そこまではまだいい。ばあちゃん家からコンビニはその道を通らなきゃいけなかったことに問題があった。面倒な奴らに絡まれない為にも赤い髪の毛はキャップを深く被って隠し、目線を下に向けて歩いた。それでもジロジロと見られるし、どこもかしこも香水の匂いでいっぱいだった。そこのお兄さん、寄ってかない?甘い声が四方から飛んでくる。まるで獲物を待つ蜘蛛みたいだ。蜘蛛の巣に引っ掛かったら逃げれない。ぶるりと体が震えた。
ばあちゃん達に頼まれたコンビニで買ってくるものリストの紙をもう一度目を通そうとスウェットのズボンポケットに手を突っ込む。あれ、無い。嫌な汗が流れた。まさか落とした…?あいにく自分の物しか買うものは覚えていない。折角ここまで来たのに。ごそごそと全てのポケット、財布の中も確認したが見当たらなかった。最悪だ。もう誰かに踏みつけられてゴミとなって処分されるんだ。諦めて帰ろうとして、くるりと方向転換。
「お兄さん!これ落としてたよ!」
「 ありがとうご……え?、苗字?」
「う、っわ、」
「おまえ、何で?」
「ちょっ!良いからこっち来て!」
声をかけられてやっと地面から目を離し前を向いた。そこには肌を全面的に露出した洋服に身を包んで化粧バッチリな苗字がいた。ミニスカが寒そうで、化粧をしてても少し幼さが残るが艶っぽい。そんな苗字にぐいぐいと手を引かれあっという間に路地裏まで来てしまった。まさか口封じの為にヤバい奴らを呼ばれてボコボコにされ――「ほんっとうに一生のお願いなんだけど、このこと誰にも言わないでくれる?」今にも泣き出しそうな顔で頼まれると頷くことしか出来なかった。傍から見たら俺たちは今からやらしいことするように見えるんじゃないか。顔が、近い。俺が頷いた途端一面に花畑が見えるぐらい苗字は良い笑顔をこぼした。
「なんでお前こんなことしてんの?」
「やっぱそれ聞くよねー。丸井、このことも誰にも言わないで欲しいんだけどさ。やっぱりお金が必要なんだよね。」
「分かってるよ、誰にも言わねえ。で何で?なんのために使うんだよ。」
「わたし、店を持ちたいの。喫茶店。小さくていいの。自分で一から作った喫茶店で働くのがずうっと昔からの夢なの。だからお金がいる。」
「そっか。」
だから皆に内緒だよ、と冒頭に戻る。
苗字とは二年間同じクラスだったけど義務的な会話しかしたことがなかった。卒業してアルバムを見る機会があったとしても、ああこんな奴いたっけなぐらいで終わるような、そんな間柄。物静かで別にこんな喋る奴だとは思わなかった。今現在苗字は俺にマシンガントークを繰り広げてる。俺が返事をするまえに新しい話題になり苗字は言葉を続ける。苗字もこの仕事のことを知ってる奴が欲しかったんだろう。客の愚痴や給料のこと、そして夢のこともたくさん聞いた。この日から苗字名前との奇妙な関係が始まった。
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学校では相変わらず会話らしい会話はしない。おはようとばいばいを言えた日はすごく珍しい。でも、夜、あの場所で会うと苗字は目を輝かせて俺と喋る。もうすぐで目標の金額までたどり着くらしい。頑張れ、と声をかけるが何だかおかしい気もする。
「お前なんか今日顔色悪すぎじゃねぇ?」
「そうかなあ。最近お客さんにお酒の勧められる量増えたんだ。」
「そんなん断れよ。」
「でもいっぱい飲んだらお給料も増えるし断れないよ。」
弱弱しく笑う苗字に何故か俺も苦しくなった。俺が跡部みたいに金持ちだったら、苗字にこんなことさせずに済んだのに。俺がぽんっと金を出せたら。自分の不甲斐なさに気分が悪くなった。
苗字が死んだ。あの苗字名前が死んだ。
多量飲酒がたたっての急性アルコール中毒で死んだ。あの店で死んだ。死んだ。死んだ死んだ死んだ。あんまり苗字が死んだことに実感がわかなかった。いつもの時間あの場所に行ったらいるんじゃないかって思った、でもいなかった。少しだけ泣いた。
苗字という存在は俺の中で大きくなっていたらしい。苗字の席はひっそりと寂しそうに置かれている。授業中視界に入るそこに何か足りない気もした。また泣いた。
お前学校で、テレビで、週刊誌で、何て言われてるか知ってるか?誰一人お前を援護する奴なんていないんだぜ。誰もお前の夢のこと知らないから、誰もお前の味方についてくれないんだぜ?でも俺はお前の味方。心の底からお前の夢のこと応援してた。なんてったって苗字の喫茶店の初めての客は俺だって決まってるからな。止めればよかった。あそこから連れ出せばよかった。苗字を助けることが出来るのは世界でたった一人、俺だけだったのに。後悔で、また泣いた。
20131216