ゆめのあと

♀蜻と男士たち短文集 : update - 2017.08.21


NO.130
彼女の顔色を見るに、彼女はさほど驚いていない様子だった。(その代わりに考えることに時間をかけるようになった気がする、あくまで気がする話だ。)取り込んだ洗濯物に囲まれた後ろ姿は、女という器の割には俺より逞しいものに思えた。通りすぎようとして、ふと、開け放たれた障子に手を置いて立ち止まる。そっと。呼吸を糸のように細く細く、静かに行う。白い着物の縫い目にまで注意を払いながら、足を抜き、差す。平生の彼女は慎ましやかだった、器は違えど彼に間違いなかった。(俺にもその隙を見せて欲しいもんだ、)息をふわりと肺に溜めこむ。
わっ!
以前より少しだけ狭まった黒い袴の両肩をぽんと叩く。声はない。振り向きもしない。彼女は全く驚かない。ぐらりと大きく揺れただけだった。
彼女の開かれた目が俺を見つめるのと、俺が彼女の倒れかかる体を支えたのは運よく同時だった。口の端をひくりとさせて、彼女はぎこちない微笑みで誤魔化した。
「あ、いや、その、なんだ……」
視線が徐々に俺から逸らされていくのを、ぱちくりと瞬いて見ていた。そして思わず頬が緩んだ。笑い混じりに、彼女を支えていた両手でその肩をぽんぽんと叩く。
(隙が増えたことを喜ぶことはできないが、俺は俺で、この今、この奇っ怪を楽しんでみようじゃないか)
「お前が手を止めていたのは、俺がちょっかいを出したからさ」
真っ白なバスタオルを拾い上げ、彼女の隣に座る。膝の上で畳み始めると、彼女はしばし俺の手元に視線を落としていた。そうして、口を開いた。ありがとう。
彼女の手がてきぱきと動き始め、居住まいを正したような、折り目のきれいな布たちの山が作られていく。俺も彼女に倣った。しばらくして、暮れ空を映した目をちらりと見、そうしてその指先を見る。(ああ、やはり、少しばかり残念だと思う、)柔らかそうであるのを、見慣れてしまいたくはなかった。



NO.59
気づけば後ろにいた。いや、きっと気づいていたのだろう、けれど、それはついこの間まで顔見知った彼とは違うものだった。だから、気づかなかった。
それでも彼は、彼女は大きかった。彼女を構成するものたちは何ひとつ変わっていないのだから、当たり前なのかもしれない。俺はゆっくりと振り返って、見上げた。夜の暗がりに沈んだはずの夕焼けが、ゆらゆらと燃えているように映った。
「どうしたの?」
二回瞬きをして、彼女は縁側の床板に膝をついた。裾に手をやって隣に座る彼女のしぐさは、蜻蛉切と同じでいて、やっぱり違った。逞しいことに変わりないけれど、俺が今この瞬間に〈蛍丸〉を振り下ろしたら、(思いのほか簡単に折れちゃったな、と)特別な感情なしに、あっという間に彼女を終わらせることもできそうだと思った。
どうにも眠れなくてな。
違う、と閉じた口のなかで反射的に呟く。彼女の目を見つめると、優しい笑顔をしていた。(そっか、)俺はそのときぼんやりと納得した。もしかしたら気づいていたのかもしれなかった。声にしなかったこの言葉は正解だ。彼女は蜻蛉切ではないけれど、けれど。
「それは俺のことだよ、蜻蛉切」
眠れないんだ、俺。笑ってみせると、ならば、と彼女は縁の下に足をおろした。少し話をしよう。俺はうん、と返事をして、両足をぷらりと揺らした。蛍も飛ばない、暗くて深々とした夜に、夕焼けの薄明かりが灯る。



NO.138
何時だよ。うっすらと目を開けて、幾度目かの文句を垂れる。鳥も虫も息を潜めて、そろそろ誰かが悪夢を見始める深い深い夜だ。遠くで空を斬る音が聞こえる。床板を鳴らす音が聞こえる。失われそうな感覚を必死に繋ぎ止めようとする音が、
(お前が一番分かってるんだろ)
「俺たちはお前が誰なのか分からない、お前ですらお前が分からない、これじゃあまるで、」
目をつぶる。悪夢のないよう願いながら、今日の夜もその音を聞いている。


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