朝焼けてジ・エンド

杵蜻と三名槍 : update - 2017.02.04


 腰をかけるのにちょうど都合がよさそうな岩のうえ、おまけに川辺で水気が多分にあるからだろうか、かかとに踏み痕の多く残る御手杵の革靴がつるりと滑った。うお、と呻きながらもすぐに体勢を立て直し、冷や汗を浮かべつつナップザックから携帯用水袋を取り出す。御手杵の眼下には小川が流れていた。一メートルの高さもない小さな滝が、重力のままに細い水柱を作っている。片方の肩に口の開いたナップザックをかけ、水袋のキャップを握る。周囲はいまだに宵闇に包まれているが、数時間夜道を歩き続けている御手杵の目は、暗さの中でも細部を見ることができた。キャップを開けるとその場にしゃがみ、水袋の口を滝に近づける。
 びちゃん!
 得体の知れぬ音がしたあと、手の甲や手のひらに奇妙な感触が走った。それが滝の雪解け水であることに気づいたのは数秒後であった。思いのほか勢いがあったな、と頭の隅で考えながら、二本目、三本目の水袋を満たしていく。全て入れ終えれば、手袋から覗く指先は水の冷たさと冷気とで赤くなっていた。その手袋もすっかり水に濡れてしまったので、立ち上がった御手杵は左右両方の手袋をずるりと外し、ナップザックに適当に丸めて詰めた。
 音の正体は何だったのか。御手杵には見当がつかない。しばらく小さな滝に視線を落としていたが、腰を丸めて身を屈ませると、器のかたちをつくった両手を滝の下に差し入れた。その冷たさは鋭利だった。一瞬眉を寄せるも、瞬きをした次にはすっきりとした表情を浮かべる。いっぱいに水を貯めると、そこにそっと口をつける。そうしてくい、と飲み干した。
 空になった両手をだらりと下げ、飲む際にしぜんと上げていた顔をそのままに、御手杵は空を眺めた。「言われた通りだ」動く口から、白んだ息が揺れて消えた。「高い空だなあ」
 ナップザックの口を閉め、御手杵は再び歩き出す。上へ、少しでも上へ。宵闇は水を注いだように段々と薄くなり始めていた。濃紺はしだいに群青へ、そして遠く向こうの山々の麓に東雲色が滲んでいる。比較的緩やかな勾配の山であるはずだが、御手杵の息はすでに切れており、重さの増したナップザックを背負い直してただ足を動かす。
 道中の記憶はどこかへ落としてしまったようだった。その山の頂上には、両腕で抱えられないほど幅のある、御手杵の膝ほどの高さの平たい岩があった。その横で立ち止まり、岩の上にナップザックを下ろした。わずかに曲げた体勢を起こすとき、御手杵の目に光が差す。
 山々の隙間のその下から、太陽が顔を出していた。東の最果てが燃えているんだ、と御手杵は思った。その証拠に、御手杵の耳にはジリリ、パキン! と焦げて割れる音が聞こえたのだ。
 瞼を閉じる。ゆらゆらと揺れる、曖昧な記憶をたどる。あれはよく晴れた正午であったか、それとも小雨の降る夜であったか。それとも、と目を開く。眼下に広がるこの景色の通りの、輝かしい夜明けであったか。どこか懐かしいとさえ感じる焼けたにおいが鼻孔をついて、御手杵の胸の辺りを優しく包んで締めつけた。己すら灰と化したのに、その瞬間まで足音で賑わっていた雑踏が刹那に消えたそのとき、御手杵はひどく孤独だった。今は? と反射的に自問する。今は、今は……皆がいる、と自答する。群青がさらに薄れ、まさしく空色に変わるその中に、とてもまばゆい光をふわりとまとった太陽が、燃えている東の最果てから昇っていく。
 確かにその姿を目に焼きつけて、御手杵は大きく息を吸い込んだ。そうしてふ、と短く吐き出した。唇の熱があやうく冷めてしまうような、研ぎ澄まされた朝だった。歌仙や燭台切が作る焼き鮭によく似た色が、夜の深い色をあっという間に侵食していった。小さな滝の水に濡れていた御手杵の指先は、脇を走り抜けていく風にさらされてよく冷えた。
御手杵の耳に、炎に包まれて熱に耐えられず割れるような音がもう一度、パキン! と聞こえた。帰るか、と太陽に向かって呟く。帰ろう。
 岩に下ろしていたナップザックを背負う。足の裏と膝に鉛がつけられたような重さがあったが、御手杵が踏み出す一歩はいつもより大きかった。焼ける音はもう聞こえない。下のほうをじりじりと焦がしていた太陽は、山々の隙間からすっかり顔を出しきって、日の丸を押し上げていた空の東雲色は青く澄んだ中に溶けて消えた。
 大岩の下り坂を、枯れ木の森を、霜の荒野を、御手杵は歩いた。歩き続けた。気づけば汗をかいていた。しかし、それは先日体内にこもっていた病魔の熱でもなければ、火照る体を冷ますための汗でもなかった。まるで焦土の煙のようであった。御手杵のこめかみや首筋に浮かぶ汗は、するりと御手杵を追い越していく風にさらわれてすぐになくなってしまった。本丸を出発する前のさらさらとした素肌のすっきりとした感覚をもって、御手杵は本丸の門をくぐる。
 おそらく山伏は裏の小高い山に、歌仙は厨に、三日月や鶯丸は縁側に、石切丸や太郎太刀は祈祷部屋に、燭台切や太鼓鐘は浴場に、同田貫は稽古場に、粟田口は大広間に、それぞれがそれぞれの習慣を得て、今朝も同じように目を覚まして思い思いの時間を過ごしているのだろう。御手杵には計り知れない。ただ、眠る者のためにひそひそと声を潜めているのを、物音をたてないように忍び足で移動するのを、本丸に帰って来た御手杵は感じていた。そうしておそらく、宵に御手杵が自室を抜け出し、本丸から姿を消していたことでさえ皆に知られていてもおかしくはなかった。裏庭を通って自室前に向かう。沓脱石で靴を脱ぎ捨て、わずかに開いた障子の隙間にその大きな体を滑り込ませた。後ろ手に閉めると、その場にナップザックとダッフルコートを重力のままに置く。剥いで皺だらけになった布団と、年越しそばを食べたままのどんぶりと、部屋の全体を見回した。
 部屋の中はあたたかかった。明かりを灯すのを忘れていたのに、心なしか明るく見えるような気すらした。誰の声もしないのがほんの少し物足りなくて、御手杵は自室を出る。向かう場所はただ一つ。喉元にせり上がった言葉を早く告げたかった。(お前は起きてるのか、なあ、)急く気持ちに素直に従うと、御手杵の足音だけが廊下をみしみしと軋ませた。
 部屋の前にたどり着けば、うっすらと襖を開けて中に侵入してから相手の様子を窺う。寝息が聞こえないことを奇妙に思っていると、その瞼が持ち上げられ、夕焼け色が御手杵の姿を認めた。ゆっくりと近付いた御手杵は、掛け布団の中からその手を取り、茶色の視線を夕焼け色に絡ませて微笑んだ。
 おかえり、御手杵。
 ただいま、蜻蛉切。
「腹が膨れるようなもんじゃねえけど、お前にとっておきの土産話があるんだ」御手杵は言う。「日の出は東の最果ての、燃える海から生まれるんだ」


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