朝焼けてジ・エンド 1
杵蜻と三名槍 : update - 2017.02.04
※杵蜻を含んだ三名槍ブロマンスです
※冒頭に杵蜻のぬるい描写があります
唇の熱があやうく冷めてしまうような、研ぎ澄まされた朝だった。
・
山に登るんだ、そう告げた御手杵の頬は赤く火照り、こめかみには汗が浮いていた。明日の夜に、最後の夜には出発する。潤んだ力ない視線を向けられた蜻蛉切は、そうか、とだけ返した。(体も起こせない状態で日の出を拝むのか、せり上がる言葉を飲み込むと、)目を細めて逞しい手を伸ばし、柔らかな手つきで御手杵の汗を拭いた。冷たくて気持ちがいいなあ、と御手杵は笑った。
断念するという気はないのか。蜻蛉切は訊ねた。空気を含んだように癖のついた茶色の髪を揺らしながら、御手杵はもぞもぞと体を起こした。とっさにその背を支えた蜻蛉切の肩口に頭を凭れさせ、掠れた声で小さく唸った。
「分からねえなあ、だけど」障子の向こう側を横目に見つめながら、御手杵は続けた。「行かないと駄目だと思った」
首筋にその額が触れるも、じっとりと汗がにじんでおり、温もりとは形容しがたい熱を持っていた。茶色の髪を梳きながら、蜻蛉切は夕焼けの目を伏せた。障子を透かして差し込む色はすでに宵闇のそれであり、しんとした静けさが広がっている。御手杵の不規則な息づかいがする。
行かないと駄目。その言葉の意味を、蜻蛉切は測れずにいた。しかし、御手杵は行くつもりでいる。熱にうなされたまま、登山をして日の出を見るという。蜻蛉切はまじないを知らない。代わりに、たとえまじないを使えたとしても、おそらく "魔" を取り除けるほどの力が自身にはないことだけを知っていた。
「行くんだな、お前は」
その頭がわずかに縦に動く。そうして蜻蛉切は、片手で御手杵の背中を支えたまま、もう片方の手をその頬に添えた。つう、と指先で輪郭をなぞり顎を持ち上げると、優しく口づける。
ん、とねだるような声を漏らして、御手杵は口をうっすらと開けた。視線がぶつかる。熱に潤んだ眼差しが、蜻蛉切の動揺を見逃さなかった。顎に添えていた指を後頭部に回し、ぬるりと舌を差し入れる。すると、蜻蛉切の舌は御手杵の舌にあっという間に絡め取られた。いつもより熱い舌が、蜻蛉切の口内を丁寧に這う。ぞくりとした感覚に蜻蛉切の鼻にかかる吐息が震える。それを合図にして、御手杵は自らが寝ていた布団の上に、その大きな体を押し倒した。味わうように丁寧に、そして何度か角度を変えて、舌を絡ませた。
高熱によって汗ばんだシャツの襟元が後方に強く引かれ、唇同士は糸を引きながら離れていく。荒い呼吸を肩で整えながら襟元を掴んでいた手を離すと、蜻蛉切は上半身を起こして御手杵を抱きしめ、あやすように背中を数回叩く。「それだけの元気があるなら大丈夫だろう」蜻蛉切は、ほんのりと色づいた頬を緩ませ、静かに笑う。
「 "魔" の扱いには慣れている。任せてくれ」
・
大晦日の朝、御手杵は嘘のような体の軽さに己の頬をつねった。夢の続きを見ているのだろうか、という考えは、頬の痛みによって瞬時にかき消された。昨晩まで肌にべったりと貼りついていたシャツは乾いており、襖と襖の間から漏れ出ている冷気にぶるりと体が震える。立ち上がって早々に着替えを済ませ、赤と白の靴下でぺたぺたと廊下を歩く。迷いもなく向かう先は、厨だった。
鰹だしの匂いに自然と顔をほころばせながら、厨の出入口に建つ柱を数回ノックした。振り向いた歌仙は、「おや、もう調子は良いのかい?」と少し驚いた様子だった。御手杵が閉口したまま頷くと、考えるように顎に指を置いて言葉を続ける。
「念のため、昼の食事も粥にしておこうか。まだ病み上がりだろう。出来たら部屋に運ぶから、君は戻ってくれていい」
眉を下げ、顔の前で拝むように合掌してみせると、歌仙は肩をすくめて笑った。肺に鰹だしの香りをたっぷりと含め、御手杵は踵を返した。
自室に戻る途中、真っ青な快晴の、まっすぐ頭上から降り注ぐ日差しを浴びながら、御手杵は蜻蛉切のことを考えた。任せろというのは、いったいどういう意味だったのだろうか。御手杵の部屋には、年の瀬だというのに、師走のごとく忙しなさは届いていなかった。厨には歌仙一人がいたが、年越し蕎麦のかけ汁以外にも、煮しめや黒豆の鍋がぐつぐつと煮えていた。大広間の大きなテーブルで、他の刀たちが食材の下ごしらえをしているのだろう。想像にそう結論づけて、自室の襖を開いた。
ぐしゃりと皺の無数についた布団の上にあぐらをかいて、しばらくぼんやりとしていた。静かだという感想を呟く気さえ失せるほど、御手杵の回りは静かだった。襖から漏れる微細なすきま風にうとうとしていると、その襖が突然開けられた。数秒遅れて反応し、そちらへ顔を向けると、そこには盆を片手に持った日本号が立っていた。片眉が上がっており、不服そうな面持ちをしている。
「お前、何する気だ」
開口一番に核心を指摘され、御手杵はうん、と相槌を打つと、顔を俯かせた。そして、誰に向けるともなくへらりと笑みを浮かべた。日本号はしだいに口をへの字に曲げ、後ろ手に襖を閉めて手頃な円卓に盆を置き、御手杵の前にあぐらをかいた。「位持ちに飯を運ばせたんだ、食わねぇとは言わせねぇぞ」と言うと、続いて大袈裟にため息を漏らした。御手杵の不自然な笑みは消えない。
「笑ってんじゃねえ」
「ちゃんと食うから、そんなに怒るなよ」
「蜻蛉切、寝込んでるぞ」
「……やっぱりな」体の後方についた腕に体重をかけると、投げ出すように両足を伸ばした。笑みはそのままに、なかば呆れた様子を見せる。「今朝から妙に体が軽いと思ったらこれだ」
「何する気なんだ」
日本号の竜胆色の目に、御手杵の表情が映る。他意のない、澄んだ眼差しを向けている。
「日の出だよ、日本号」
言葉を失ってしまった。日本号は、何を言うでもなく視線をそらした。
「槍の他には言ってない」御手杵は笑いかける。「除夜の鐘が聞こえたら出発するつもりだ」
日本号は、障子を透かして差す正午の力強い日光を眺めた。御手杵の部屋は薄暗いため、そのぼんやりとした光が妙に眩しく感じられた。
「今日の空は高い。明日の空も高いだろうな」
日本号が呟いたのを聞いて、御手杵は布団の上からのっそりと動き、粥が入った椀を手に取った。ところどころに梅肉が浮き、くゆる湯気が御手杵の食欲をそそった。陶器のれんげを使い口に含むと、ほのかな鰹だしの香りと、梅肉の酸味と旨味が広がる。茶碗を傾けて粥を掻きこんでいると、御手杵の頭を、優しい手が数回撫でた。あやされているようだ、と御手杵は目を細める。(人間で言うところの大きな赤子みたいだなあ、と胸の辺りが温かくなるのを感じながら、)それでも御手杵は食べるのを止めない。
「湧き水だ、御手杵。俺は湧き水が欲しい。土産話じゃあ肴にならねぇからな」
その頭から手を離すと、日本号は御手杵と目を合わせることもなく、部屋から立ち去っていった。ぴしゃん、と襖が閉まるのと同時に、御手杵は傾けていた茶碗を盆の上に戻した。米粒のひとつも残っていない。口の中の風味が鼻からするりと抜けていく。
「旨かったよ」御手杵は呟く。「ご馳走さま」
手と手をぱん、と合わせる。重なる指先も手のひらも、障子を透かす向こう側、午後の陽気のように温かかった。