黒い列がそろそろと進んでいた。白百合は日差しを反射していっそう白くなり、遠くの逃げ水が揺れていた。「あついなあ」御手杵は呟いた。透明な汗がこめかみから顎を伝ってぽたりと落ちた。
空は青く、深かった。ちぎれ雲が気まぐれに漂う以外は、ただ青色が深く染み込んでいた。黒い列がまたそろりと進むのを眺めていた御手杵は、暑さに堪えられず木陰に避難しようと踵を返した。と、太腿の辺りになにかが衝突した。拍子に尻餅をつくそれは、男の子のようであった。浅黒い肌は健康的な艶やかさを保ち、一分刈りの小さな頭は汗でじっとりと濡れているようだった。御手杵は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに身を屈ませて彼に手を差し出した。
「大丈夫か、坊主」
黒い手袋から長い指先を覗かせて男の子の立ち上がるのを補助しようと、いわゆる親切心を働かせたつもりだった。しかし、男の子は御手杵をじっと見つめたかと思うと、空を仰ぎながら大声で泣き出した。ぎょっとして咄嗟に男の子を抱き抱え、その小さな背中をぽんぽんと叩きながら大樹の下へ逃げ込んだ。蝉でさえまだ土の中で口をつぐんでいるのに、その男の子の声はひどく大きかった。そしてひどくかなしい声だった。
黒い列は、静かに動き続けている。
▽「お母さんがいない」
御手杵は、彼の嗚咽混じりの言葉を復唱した。溢れる涙をごしごしと拭う男の子の顔は俯いて、さらに大樹の木陰でまっくらなものだから、隣に座っていても様子は窺い知れなかった。男の子はというと、土から這い出た太い幹の上に縮こまって座り、止まらない涙を拭い続けていた。
「で、なぜか家にも帰れなくなったんだな」
鼻水をすすり、う、と再び嗚咽がひどくなりそうなのを御手杵はあわてふためきながらあやした。「一緒に探してやるから! もう泣くなって」と隣から正面へと移動して男の子の顔を覗き込むと、潤んだ大きな目が御手杵を見つめた。ほんと? 掠れた幼い声に頷いて、黒髪の頭をわしゃわしゃと撫で回した。とたんに顔を明るくした男の子は勢いよく幹から立ち上がり、御手杵の手袋の手を取った。そして御手杵を引っ張るようにして木陰からひなたへ飛び出した。じり、と焼ける音がした。
▽ ずいぶんとたくさんの道を歩いた。男の子は、扉が閉まったままの駄菓子屋の前を通るとふ菓子がおいしいのだと力説し、公園の中を通ると砂遊びが得意なのだと鼻息を荒くした。二人の前を悠然と三毛猫が通ったときは、その後ろ姿を追いかけてありとあらゆる民家の隙間を苦心しながら進んだ。男の子は慣れた様子だったが、竹藪を抜けた経験すらない御手杵は、「待てよぉ」と弱々しい声を漏らしながら、その小さな背中を追うのが精一杯だった。日陰ばかりの薄暗い道だが、汗をかくのは御手杵ばかりだった。
男の子は涼しげな顔を振り向かせて笑った。三毛猫を見失うと彼は立ち止まって辺りをしきりに見回し、つんと口を尖らせたが、すぐに歩き出した。手の甲で汗を拭い、御手杵も後に続いた。
細道を抜けて再び炎天下に身をさらすと、とたんに男の子の足取りが重くなった。足元に落ちる影が、黒く淀んだ水溜まりを作っている。思わず足を止めて御手杵はああ、と目を細めた。地面や壁が乱反射させた日光に、ただ立ちくらみを起こしただけではない。ぼんやりと白んだ風景の中を男の子の黒い影がゆらゆらと浮いて、確信を得たうえで熱い息をついたのだった。
▽ 御手杵は男の子が触れたときから薄々気づいていた。先ほどまで無邪気な手に引かれていた御手杵の手には、じんわりと熱が残っている。男の子が御手杵同様に歩くのを止め、数歩分の距離を隔てたままぼそりと呟く。
ぼくは知らないまちに来てしまった、と。
お母さんを見失って目を赤く腫らしていた木陰の彼の面影がたちまち戻ってきて、白いTシャツに縁取られた細い肩が震えている。と、男の子は走り出した。
「ちょ、おい!」
彼は全力で走っていた。御手杵でさえなかなか追いつけないほどの速度だった。しかし、御手杵は冷静だった。彼がいったいどこへ向かうのか、おおよその見当がついていた。肌を撫でる風は乾燥していて、息を切らしながらも、心のどこかでにじむ汗を乾かしてはくれまいかと期待していた。
▼ 新緑とコンクリートに混じり、黒い列は輪郭を失いつつあった。革靴の音はひっそりとしていて、時おりその手の中の数珠玉が不思議な色を放っていた。
男の子は、御手杵と出会った最初の場所に戻っていた。御手杵は、彼が言った "知らないまち" の意味をようやく理解した。男の子の後ろ姿を視界の中心に捕らえ、走ることを止めた御手杵は大きく息を吸った。
「お前がいて! ……お前たちがいて、この土地は生きてる」
ぴた、と彼は立ち止まる。ぐわんと声が響き、御手杵自身がその声量に驚いたが、構わないと思った。熱の残る手を握りしめる。
男の子は振り返らない。
その足元にぽた、と丸い染みができた。御手杵は、その染みが増えるたびに辛そうに顔を歪ませた。男の子の皮膚が、心なしかさらに黒く焼けたような気がした。
とても静かな正午だった。偲ぶような足音やひそひそ声が、まるで聞こえなかった。遠くでサイレンが鳴った。
――お母さんのところに帰らなきゃ。
――ありがとう。
そう呟いて、彼は再び走り出した。小さな背中が逃げ水よりさらに向こうに消えていくのを、御手杵はただ見守っていた。
汗が滴る。黒い列はしだいに散り散りになり、ゆっくりと雑踏が多くなっていく。頬を伝う滴を拭うこともせず、御手杵はこれから雨が降るぞ、と思う。どしゃ降りの雨だ、火傷も煤も全て洗い流してしまうほどの大雨だと。そうしてその後にどうか、空気の澄んだ朝を迎えることができるようにと、御手杵は空を仰いだ。ちぎれ雲が漂う以外は、ただ青色が深く染み渡っていた。
1945.5.25