SIGH IS BURNING

鯰と一 : update - 2016.09.16


 昨日のことは、実はあまり覚えていない。ただ、雨が降っていたように記憶している。
 その雨が今日にも尾を引いて、重く引き伸ばされた雨雲が暮れ時の空を暗く覆っていた。そろそろ降り止んでも良さそうなものを、とシャッターで固く閉ざされた惣菜店の軒下で、ビニール傘の黒い柄を握りしめながら小さく息を吐いた。帰らなきゃ、と続いて呟く。そもそも何をしに二十一世紀に来たのか、鯰尾は鼠色の空を見上げながら思考する。人の足音はまばらだ。決してどしゃ降りではなく、そして降り止みそうにもない小雨の中に、身を投じる気にはなれなかった。
 手を挙げる。タクシーが停まる。
 乗り込んでから、目を伏せた。どこに行こうか。(街へ行きましょう、)前方から声がして顔を上げると、ばたん、とドアが閉まった。その運転手は犬の頭をしていた。制帽に細く赤い縄が垂れていて、鯰尾は感覚的に犬の根付けだと思う。タクシーがゆっくりと発車した。途端に、雨音が遠くなる。
 雨は降り止まない。
 ぽつりぽつりと街灯がともり始める。視界がほのかに明るくなる。(虹がかかっています、)左手の方向のすぐそばに、虹の足がぼんやりと立っていた。しかし、次々ともる橙色の明かりで、あっという間にかき消されてしまった。

 ――明かりの灯るのが怖いかい。

 昨日のことを思い出した。ドアの透明な硝子に映る己の顔さえ明かりに消えていくのを見つめながら、その声を思い出した。昨日の声ではないかもしれなかった。だが、鯰尾にとって重要なのは、その声が過去のものであって、厳粛さを保ちつつも聡明な声であるということだった。
 大きな交差点でタクシーが停まる。ひとりでにドアが開く。
 握っていたはずのビニール傘が、鯰尾の手の中からするりと抜けて外へ飛び出す。膝に雨粒の染みが広がるのに目を落とし、顔を上げると、ビニール傘はどこにもおらず、雨は降り続いていた。(ありがとうございました、)タクシーを降りる。ばたん、という音を聞いて、去っていくタクシーを見送った。
 いちにい。鯰尾は呟く。俺は一兄を探していたんだったっけ。
 その響きに懐かしさを覚え、声を思い出しながら歩道を渡る。水溜まりに朧げな明かりが揺れている。燃えているのだ、と直感する。炎はいわば母なる大地、その身がこぼれようとも、再び打たれ形を得る。炎は確かな存在だった。鯰尾の周りを囲い始める橙色の光は、輪郭のない不確かな存在でいて、遥か昔の懐かしく恐ろしい面影を宿している。記憶の曖昧なせいで、鯰尾が恐れをなすように自由自在に変形した、実物の炎よりひどく恐ろしいその面影が。
 今すぐこの場から逃げ出してしまいたかった。目的さえも投げ出して、ひたすら暗闇の澄み渡るところへ、燃える光のない場所へ向かって走り出してしまいたかった。いちにい。ぽつりと隣で明かりが灯る。それを避けながら、鯰尾は叫んだ。足元の水溜まりがぴしゃりと跳ね、橙色が散る。

 一兄!

 別の歩道を渡っている。長く続く白い帯の上を、駆け足で渡っている。頭上から炎が降り注ぎ、昨日の出来事さえあまり覚えていない鯰尾の記憶までもがじりじりと焦がされていく。息が上がる。熱い息を吐く。やがて雨粒にも橙色が反射して、鯰尾は立ち止まらざるを得なくなってしまった。雨脚が遠くに聞こえる。囲まれた。鯰尾の顔が悲痛に歪む。こめかみに汗を滲ませた鯰尾は、内側から込み上げる熱に、決して体外に放出されることのない熱に恐怖した。声を掠れさせ、肺一杯に吸い込んだ熱い息を、吐き出す。

 一兄!

 途端に、暗闇が鯰尾の視界を覆った。体がすっと冷えた。すぐ傍で懐かしい息づかいがする。そうして思い出した。見たくないものは目を覆ってしまえば良いのだと、夏空より不自然に青くきれいな髪の下の、黄金の光を宿す聡明な二つの目が、そう鯰尾に教えたのだ。
 しー、と吐息がかかる。大きな雨粒が、鯰尾の脳天を叩いた。


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