▼ 7.今宵眺める
不思議と不安定さを感じない空中散歩がしばらく続き、地獄の枯れ果てた地面がひたすらに続くと思われる中、唐突に心地よい風に頬を撫でられた。
今までは鼻奥に残る独特な血の匂いと、煙の香りが染み付いていた風が、いきなり新鮮な空気に変わった。
7.今宵眺める
春先の野山に出たように、先とは打って変わって新緑の香りがあたりを包んでいる。大分白澤さんの背中にも慣れ、少し身をよじって眼科に目を凝らせば、ちらほら茶色の屋根が見えた。
だんだんと白澤さんが降下し始め、見覚えのある建物が目に入り、その周りにいる小さな白い点も見えてきた。うさぎさんたちだ。
「はい、到着」
さく、と草木を踏みしめる音と共に白澤さんが降り立ち、私が降りやすいよう腹ばいになってくれた。しばらく地面に足をつけていなかったので、久々に踏みしめる大地の感触がなつかしい。
私が背中から降りると共に、獣姿の白澤さんの姿が紫色の煙に包まれ、たちまち見慣れた人型へと変化した。いつ見ても狐につままれたようなこのフォルムチェンジ。いや狐どころじゃないけどね、彼。立派な神獣だけどね。
「もうすぐ日も暮れるだろうなぁ」
ぼんやりと呟きつつ、がらがらと極楽満月の戸を開ける。途端に鼻をつく独特の薬の刺激臭。うん、やっぱこの匂いには慣れない。
勧められた椅子に座れば、白澤さんが当たり前のようにカップを用意して中国茶を淹れにかかるあたりこの人ほんと慣れてるなぁ、いや接客業だし当たり前か。
足元にやってきたウサギがいたので、しゃがんで抱きかかえれば大人しくされるがままに鼻をふすふすしている。
その時ふと白澤さんの呟いた一言が気になった。そうだ、地獄じゃ空の色も変わらないから時間感覚が無いけど、桃源郷の空は現世と同じ。夕暮れ時であれば太陽が沈み空は綺麗なオレンジ色に変わる。
「桃源郷はちゃんと空があるんですね」
自分でいっておきながらなんとも珍妙な一言だと思ったけど、白澤さんは意味をしっかり捉えてくれたらしい。良い匂いのする湯気が立った中国茶を差し出してきながら、いつもの笑みのまま返してくれた。
「そうだよ、地獄とは違って本物の空だからねぇ」
「へぇ、やっぱりそうなんですか」
ということは夜になれば真っ暗にもなるし星も見えるんだなぁ。この天国がどこに位置するのかはイマイチよくわからないし、きっと説明されてもわからないと思うから追求はしないでおく。
しかし時間感覚がなくなる地獄に比べて、天国はこうして太陽が照ってくれるのはありがたい。人間やっぱり太陽光を浴びないとダメらしいし。
正直に言えば、過ごしやすさで言えば地獄と天国を比べるまでもなく後者の圧勝だ。まぁ比べること自体おかしな話だけど。
ふと、今日はいつまでここにいれば良いのだろうかと思った。できればお香さんに心配かけたくないし、早々に戻って改めて買い物に付き合ってくれたお礼とかも言いたい。
鬼灯さんも、きっと私が桃源郷に一人でいると知ったら怒る…うん、怒るね。いやでも仕方ないことだし!別に自ら進んで行ったわけじゃないし!
今更のように冷や汗をかいていれば、青い顔をした私に気がついたらしい白澤さんが自分のカップ片手に怪訝そうな顔をしていた。
慌てて大丈夫だと言って、なんとか話題を探す。
「鬼灯さんやお香さんも大変ですよね、忙しそうで」
「僕も比較的忙しい身だよ?」
「えっ」
「なんで驚くの」
比較的暇そうなイメージしてました、と正直に言えば案の定眉を八の字にして困り顔を作る。酷いなーなんていう声音は真面目さを欠片も感じない。
「白澤さんっていつもそんな感じですよね」
「えー、そんな感じって?」
「なんか掴みどころが無い、みたいな」
「掴みどころがたくさんあっても困るでしょ、何処を掴もうか迷っちゃう」
少しの間白澤さんと一緒にいてわかったことがある。彼は話し上手だ、それは百も承知している。なにより話題の切り替え方だ上手だ。
今の私との会話みたいに、うまいこと切り返しが思いつかない返事を返して話題を変える。このまま白澤さんについて突っ込んだ真剣な会話をしたくないのか、そこまではわからないけどやんわりと話題を変えてきた。
そういえば、私は白澤さんが真面目な顔になるところを数度見ている。現世で鬼灯さんと白澤さんが帰る云々の話をしていた時は、時々真剣味を帯びた瞳の色を灯していた気がする。
あんな顔、滅多にしないんだろうな。きっと。
この前極楽満月に初めて足を踏み入れた時のことを思い出す。
自室の寝台の上で丸まった背中は、触れて欲しい、しかし近づくなと警告を発しているひどく二律背反的な雰囲気を醸し出していた気がした。
ちらりと白澤さんを盗み見れば、私の視線にいち早く気がついた白澤さんがふっと顔を上げる。そして人懐っこい笑みを浮かべたまま首をかしげるのだ。
「なぁに?」
「…いや、私なんかじゃ白澤さんの考えてることは到底理解できないなーと」
「そんなことないよ、結構単純だよ僕」
考えてることも人並み、というので当てずっぽうを言ってみることにする。
「…『由夜ちゃんは貧乳でいいな』とか思ってます?」
「…なんでわかったの」
「どうせ絶壁ですよ!!!」
わぁっと顔を覆えば、白澤さんがけらけらと笑う。そのまま手にしていた中国茶を飲み、カップをテーブルに置いた時には別人かと思うほど真面目な顔をして私を見据えている白澤さんの視線に気がついた。
なんだなんだと慌てて見つめ返せば、ひどく真剣な声音で白澤さんが続けた。
「…由夜ちゃん、胸おっきくしたいの?」
「そりゃそうですよ」
というかそれセクハラ、と心の中で思ったが口には出さないでおく。この人はこれが通常運転だ、そうだ。いちいち突っ込んでられるか。
「小さい胸は小さいままでいいと思うんだけどなぁ」
「女の子の気持ちが欠片もわかってません!!無いよりある方が絶対いいでしょう何事も!!」
「でも由夜ちゃんは世間から見て太って見えるよりも痩せていたいって思うでしょ?」
僕はどっちもいけるけど、としっかり付け加えるあたりほんと徹底してるこの人。
「贅肉は別です別!!」
「大丈夫大丈夫、僕由夜ちゃんがどんな姿になっても愛せるから」
「じゃあ私が髪型モヒカンにしてきても愛せますか!?」
「もちろん」
「マジで」
駄目だこの人もう色々と…と半ば呆然とする私を見て何を思ったのか、白澤さんがニヤリと口角を上げた。
嫌な予感がしたものの、行動に移す前に白澤さんが席を立ち靴を鳴らして私の方へ歩み寄ってきた。
思わず仰け反り返ろうとするのも叶わず、肩にぽんと手が置かれる。
「だから安心して?」
ね、と付け足した瞳の色は若干巫山戯た色が消えている気がする。
いやいや、ここで雰囲気に飲まれちゃあかん。
乾いた笑いを浮かべながら誤魔化そうとしてみたが、ニッコリとした笑みで答えられてしまった。ダメだこれ逃げられない。
「由夜ちゃん、あんなヤツのところじゃなくてこっちに住みなよ」
そういって私の頭を撫でてくる。硬い、男の人の手だ。薬を扱う事も多いと思うのだが、それにしては綺麗な手。はらはらを髪を梳く手付きは心地よく、逸らしていた目を思わず戻し、自分をのぞきこんでいる白澤さんを見つめ返してしまう。
私が見上げる形となり、普段は前髪に隠された額の参の目がちらりと見えた。
あかん。これあかんやつや。以前じりじりと言い寄られたときのことを思い出し無理やり笑顔を作った唇の端が引きつる。
「由夜ちゃーん、ほっぺひきつってる」
「誰のせいですか誰の!!」
大声あげてもせいぜい部屋の中にいるウサギさんたちがびっくりするだけ。白澤さんは笑顔のまま動じない。
助けて鬼灯さん、いやいっそのこと桃太郎さんでもいい。誰でもいいからこの白澤さんどうにかして。
そんなこと思っていれば、天の助け。白澤さんのポケットからピリリリリという場に似つかぬ電子音が響いた。露骨にむっとして私から目を離しポケットを凝視する白澤さん。
慌てて、電話にでるよう手を動かして示せば、ため息をついてポケットから端末を取り出し通話ボタンを押す。
「ハイ、極楽満月…、お香ちゃん!お仕事大丈夫ー?」
この切り替わりである。げんなりと会話を聞いていれば、どうやらさっきの亡者が逃げ出した一件と関係しているらしい。口説く口ぶりではなく、うんうんと頷いて返す白澤さんの顔は相変わらず笑顔だ。
最後にちゃっかり「またお店に来てねー」と付け加えるのは習慣なのかな。
「お香さん、どうしたんですか?」
「ん?ああ、さっきの亡者ねまだ捕まらないんだって。で、まだ時間もかかりそうだし今日は由夜ちゃん閻魔殿には帰らないで念のためウチに泊まっておいてーって」
「悲報!!」
「なんで!?」
思わず頭をかかえる。いや、だって。この人の家に泊まるとか!ねぇ!?
「そんなに地獄がいいの?天国嫌い?」
そう言って私に視線を合わせるよう屈み込み、うさぎを抱き上げ、首をかしげてみせる白澤さん。
「いや嫌いじゃないですけど、だって此処にいたら白澤さんに…」
「………僕に?」
いや、わかるでしょうと言えば可笑しいようにくすくす笑われた。そして眉を八の字にしてうさぎを私に押し付ける。動物独特の温かみを渡されて、慌ててしっかりと抱きしめる。
口元をもそもそとやっているうさぎさんは私に一瞥もくれず、あらぬ方向を向いていた。
「でも地獄にいても危ないことは一緒だよ、だって由夜ちゃんあいつの自室に寝泊まりしてるんでしょ」
「鬼灯さんは私を襲ったりしませんよ」
うん、襲われる対象に入ってないよ。むしろ私がストライクゾーンにはいる白澤さんに驚きだよ私は。もっといい人たくさんいるだろうになぁ、お香さんとかお香さんとか。あ、でもお香さんはたくさん男の人と知り合いいそうだし、白澤さんでも一筋縄じゃあいかないだろうな。
白澤さんは困ったように肩をすくめ、椅子の上に気だるげに腰を下ろす。そして天井を煽り、独り言のような言葉が返ってくる。
「アイツも堅物だけど男は男だよ、わからないでしょ」
「わからない以前に私をそんな対象に見てませんて、鬼灯さんは」
「いや、見てるよ」
間違いなく、と言い切った白澤さんの声音がやたらと真剣味を帯びていて、思わず彼の方を振り返ってしまった。
見れば、口元に僅かに笑みを残したままこちらを見つめ返している。
どこか確信しているような声に反論できずにいると、カランカランとドアに取り付けた鐘がなり桃太郎さんが入ってきた。
もやっとしていた考えが、鳴り響いた鐘の音に攫われて一瞬頭の奥にへと消える。
「やあおかえり桃タロー君。配達お疲れ様ー」
「本当っスよ、亡者が逃げ出したなんだで閻魔殿てんやわんやだったんで人ごみがすごくて。大変だったんですから」
「お疲れ様ですー」
「あ、どもっス」
ぺこと頭を下げて領収書を差し出す桃太郎さんを見つめつつ、ふと閻魔殿に彼が行ってきたことを思い出し聞いてみた。
「桃太郎さん、鬼灯さん忙しそうでしたか?」
「あー、なんか大変そうでしたよ。今日も徹夜だってぼやいてました」
「目ェ釣り上げてでしょ。怖い怖い」
そういってからかう白澤さんを横目に「徹夜なんてアンタとは無縁な言葉ですよね」と言う桃太郎さん素敵。流れ弾だけどね白澤さん。
そして白澤さんが桃太郎さんに私を今日一日泊める旨を告げれば、桃太郎さんは必死の形相で、
「正気ですか由夜さん!?やめておいたほうがいいですよこんな女たらしの所!!」
「えっ待って桃タローくん暴言が聞こえたんだけど僕君の上司なんだけど」
「私も早く帰りたいんだけど白澤さんが地獄危険だからっていって帰してくれなくて」
「こんな飢えた獣が居るところ泊まるよりかは遥かに地獄のほうが安全っスよ」
「桃タローくん減給」
結局口喧嘩になる極楽満月の上司と部下だが、お香さんからの電話の件もあり結局私は此処に泊まることになった。うん、帰ったら怒られるだろうなぁ。
***
(あとがき)更新遅れ申し訳ありません…!