夢2 | ナノ


▼ 9.恋の心を

は、と息を付けば見慣れない天井だった。
真っ先に感じたのは全身がぐっしょりと汗で濡れていることで、ただただ気持ち悪い。
そして汗だけではなく、目の周りは涙でべたべたになっていた。
体がだるい。動かしたくない。
ひたすらに重い身体をなんとか起こせば、ふとフラッシュバックする小さな手、柔らかい笑顔。まだ、私の腕の中には彼の温もりが残っているような気がした。
それを逃がしたくなくて、私は腕を抱いて大声で泣いた。夢の中でもわんわん泣いた記憶のある喉はからからに乾いていた。それでも声が出る限り、泣いた。


9.恋の心を


極楽満月の朝はそれなりに早い。白澤が飲んだくれて接客もままならない時はともかく、平常時であれば九時には店が開く。
そよそよと草木を揺らす春風が心地よい中、従業員の兎たちは薬草畑を跳ね回りしきりに口を動かして雑草を食んでいた。
桃太郎は仙桃の手入れ、芝刈りへ出かけた。さて、自分も頼まれていた薬の調合にとりかかるか、いや、それよりも先にやるべきことがある。
――自室で眠るお客へそれは美味しい薬膳粥を振舞おう。この機会を逃すわけには行かない。
なにせ、今日の昼にはまたあの一本角が彼女を迎えに来る。甲斐甲斐しいことに。それまでになんとか心を此方へ引き寄せておかないと――頭の中でそんな事を考えながら、白澤は鍋を火にかける。
薄い味付けに、何かとはしれない香草をぱらぱらと指先で擦っては粥に混ぜていく。ふと良い香りが漂って来たあたりで、匂いを嗅ぎつけたのか、バンダナを巻いた一羽の従業員がひょこひょことやってきた。物言いたげな視線をこちらへ送っている。

「…もうすぐできるよ」

彼女を起こしてこようか、と悪戯っ子のように微笑んでは従業員を片手に抱き、その柔らかさを堪能しながら自室で眠る彼女を起こしに行こうとした、その時だ。

悲鳴のような声が響いた。それは天国ではまず耳にしないそれで、場違いのようにも思えた。音量が低まったと思えば息を吸うような間があり、再び苦痛の混じる、聞いていられない尖ったそれが、鼓膜を劈く。突然の騒音に店内にいるウサギはもちろん屋外で草を食んでいた彼らまでも耳を立てて二本足で立ち上がっていた。

この声の主は詮索するまでもない、さっきまで自室で眠りこけているとおもっていた、大切なあの子だ。
白澤は咄嗟に屈み、腕の中のうさぎを床へ下ろしてやれば自室のドアを蹴破りたい気持ちを抑え、ごんごんと木製のそれを叩く。

「由夜ちゃん!?どうしたの!?」

いつになく切羽詰まった堅い声が出た。しかし、聞こえないといわんばかりに白澤の声は扉一枚を隔てた向こうで上げられた泣き声によってかき消された。
きっちりと内から鍵をかけられた扉のノブを握りがちゃがちゃとやっては、開かないことを確かめる。

珍しく、舌打ちをした。

扉から数歩下がれば右肩を前に出し、無理矢理に扉へ突進する。ばきん、と鈍い音と共に木製それの錠が緩み、じんとする肩に構わずもう一度そこへ身体を叩きつけた。
衝撃を感じると共に勢いに負けて前進、蹴破られた扉が派手な音をたてて自室の向こう側へ倒れるのを踏みつけ、漸く手狭な部屋を見渡す。彼女はあっさり見つかった。

寝台の上でぺたんと座り込んでいて、こちらを怯えた瞳で見つめているひと目で顔色が悪いこと、泣き腫らした目元が見て取れた。きっといきなりやってきた自分に驚いているのだろう。

「由夜ちゃん、どうしたの」

大丈夫?と張り詰めた声を意識して、できる限り穏便な声を出そうと言い聞かせながら近寄る。直ぐそばまで寄れば、彼女の方からこちらへ飛びついてきた。


「は、はくたくさん、」

「うん、よしよし。大丈夫?怖い夢でもみた?」

ぎゅうと白衣を握る手が震えている。努めて穏やかな声で返しては、震える手をしかと握り返してやった。すると何に驚いたのか、まるで怯えるようにその細い体が跳ね上がった。

「あの、あのねっ…夢で、昨日、えっと、あれ…」

「うん、どうしたの。僕は此処にいるから、ほら、ゆっくりでいいよ」


手を引き震える体を抱きしめる。たちまち、早い呼吸と忙しない心音を直に感じた。は、は、と短い呼吸に目を細め、母が幼子にそうするよう、背中をぽん、ぽんと優しく叩いてはゆっくりと撫でていく。
暫くそれをやっていれば、段々と息継ぎが安定していった。彼女が落ち着いたのを見計らって、少し体を離し涙に濡れた顔を覗き込む。未だに不安定な色を灯す瞳は、それでも真摯に二対の金色を見返した。
揺るがない視線を受け止めては安心したように、彼女はぽつぽつと話し始めた。


「昨日、怖い、っていうか、嫌な夢を見て…」

「うん。」

「大切な、友達がね…死んじゃった」

「うん。」

「私の所為…私の所為で」

「…、…。」


どうしよう、と続ける語尾は震えていた。よし、よしと背を撫でてやりながら、かき消えてしまった言葉を頭の中で反芻する。

「その子は、由夜ちゃんの所為だって、言っていたのかな?」

言葉を丁寧に区切って、優しい声音で、ゆっくりと。彼女は俯いた顔をゆっくり上げれば、戸惑ったように目をそらす。
本当に、正直者だ。この子は。

暫く間を空けた後、ゆるゆると首を振って返事が帰ってきた。

「言って、ない」

「じゃあ、由夜ちゃんの所為じゃないよ」

「でも、私があの時代わりに捕まっておけば、丁君も死ななかったし、…」

「丁?」

それって召使いってことじゃないの、と言いかけたがそれよりも先に聞き捨てならない一言が耳へ飛び込んできた。

「代わりにって、どういうこと?」

「あ、」

しまった、というように身を固める彼女に心のどこかが冷える。
なんでこうも、この子は自分を犠牲にしようとするのか。自分の身を大切にできないのだろう。理解ができない。呆れを通して腹が立つ。
彼女がいなくなるだけで、一体どれだけの者が悲しむのか分かっていないのだ。

「…ごめんなさい」

自然と険しい顔をしていたようで、さらに縮こまっては囁くように零した謝罪を聞けばはっと我に返った。慌てて相手を慰めるように笑顔を貼り付けては、

「いや、こっちこそごめん!大丈夫だよ。でも、簡単に死のうとか思っちゃダメだからね」

前にも言ったけど、と付け足しては不安げな瞳を向けてくる彼女を見つめ返す。こうすれば、隠し事をしていない限り彼女は絶対に目を離さない。

「…もし、その丁って子の身代わりになって由夜ちゃんがいなくなってたら、僕はその子を許さない。間違いなくアイツもその子を許さないだろうね。」

「え…、」

「絶対。閻魔大王も、お香ちゃんも、唐瓜くん、茄子くんも、みんな」


彼女は白澤の言葉を聞くなり目を伏せて、何かを考える素振りをしている。そして不意に顔を上げれば、まだ動揺の残る声音で、

「ッ…そうだ、鬼灯さん、鬼灯さんは大丈夫…!?」

「え?」

思わず顔をしかめてしまったかもしれない。
しかしそう言いだしたら彼女はあの鬼のことでいっぱいになってしまったらしく、「どうしよう」「もしかしたら鬼灯さんまで」「ああもう、なんで重なるの…!」としきりに呟いていた。

吉兆の印、中国妖怪の長と言われた白澤の心を一瞬で支配したのは嫉妬。
今彼女を抱きしめているのは自分だ。見渡しても自分が以外周りに人は見当たらない。しかし、彼女が今見ているのはあの鬼神だ。顔も見たくなくて、名前を聞くだけでも嫌気がさす、気が遠くなるほど前から腐れ縁の、あの。


「白澤さん、今から地獄に、帰れますか!?」

「…いや、駄目だよ。まだ逃げ出した亡者も捕まったって報告ないし…ほら、昼にはアイツが迎えに来るから。ね?」

「でも、…っ、」

鬼灯さん、と呟かれた声は今にも消えてしまいそうで。伏せられた顔は髪が邪魔で見ることはできない。
ふと思ってしまった。この姿はまるで、恋する少女のようじゃないか。

「…………。」

咄嗟に馬鹿な事を、と先に思い浮かべた考えを打ち消す。奥歯をぎりと噛み締めれば血の味がにじんだ。

肩を落としてなにかとつぶやく彼女の肩を掴めば、びくりとしてこちらを向く。驚愕の色を灯した瞳は丸く、こちらを見つめ返していた。

「由夜ちゃん、人は必ず死んじゃうんだ」

「っ、は、はい」

唐突なそれに、彼女が動揺したように目を見開く。それでも構わずに、白澤は強い語調で続けた。

「だから天国と地獄がある。…わかるよね?」

「…はい、わかります…。」

「由夜ちゃんは人が死んじゃう度に自分が死ねば良かった、って、思っちゃうのかな」

それはすごく悲しい、と思うがままに付け足していっては口を噤む。
うまく伝わっていないかもしれない。
とにかく彼女は、すぐに消えてしまいそうな儚さ、脆さがある。
つまり、放っておけないのだ。

余裕がない。必死になっている自身を心の内で笑った。
本当に好きな子にほど、落ち着けない。うまい言葉の一つや二つ、いつもならば息をするように出てくるというのに、彼女相手ではそれは勿論、手を握るのでさえ勇気がいる。まるで青春を謳歌する初心な少年のように。
もどかしい、どうにかしたい。

「えっと、それは…」

彼女も答えを探すように思案している。たっぷり間を空けたあと、申し訳なさそうに頷いた。

「ごめんなさい、思ってしまいます。」

「…………。」

「だって、私、一人になるのは嫌で…おいていかれるの、怖くて」

ごめんなさい、と続けた声音は低い。

「…僕も、置いていかれるのは嫌だな。生まれたときはずっと一人だったし、もうああいうのは嫌だ」

ぽつ、思わず零した言葉に彼女が驚いたように顔を上げる。
そして、縋るように白澤の手を握っては顔を覗き込んできた。切羽詰まった、必死な顔だ。


「…白澤さんは、ずっと、私を、おいていかないで、一緒にいてくれますか。」


唐突に突きつけられた、ずっと、という言葉に頭が鈍器で殴られたような衝撃を受ける。鈍いそれはじわりと頭に染み込んで、噛み砕くのにひどく時間を要した。

ずっと、というのは、きっと永遠、という意味だ。
彼女がいなくなるまで、死んだ後、橘由夜という人間の意識を失って、転生するまで。

居られる、だろうか。わからない。

きっとほかの女の子だったら二つ返事で答えていた。

ではなぜ、彼女には躊躇うのか。

「………ッ、!」

決まっている、本当に好きだからに決まっている。
根拠がないことを言いたくない。適当に口先から出るままに答えてしまって、後で彼女を失望させたくない。

「………。」

彼女の顔が、たちまち悲しみのそれへと変わっていく。
ああ、悲しませてしまった。
咄嗟に返事ができなかった。

心の中で自分を罵倒する。それを紛らわすように、目の前の彼女を抱きしめた。







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更新遅れ、度々申し訳ありません





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