噂でしか聞いたことのない、大嫌いだった帝が、俺と同い年の男の子だと知った日から、もうひと月が経とうとしていた。
あれから毎日、豪炎寺は俺を部屋に呼ぶようになり、俺を抱いたと嘘をついては枕を並べる事もしばしばだった。
顔を合わせては、右大臣の話やその娘と結婚を迫られている話、歌合わせで誰が一番うまく歌を読んだか、次の賀茂祭で披露する演舞のことなど、他愛もない話に花を咲かせ、夜が更けるまで話し込む毎日だった。


「俺さ、初めは帝って大嫌いだったんだ」

ひと月前まで忙しなく鳴いていた蝉もその生涯を終え、随分と静かになった闇の中に、俺の声だけが響く。月は明るいけれど、帝の部屋は広く、俺たちの枕元までは照らしてくれなかった。

「…そうか」

どんな返事が返ってくるかなんて大凡見当はついていたが、こうして聴いてみると実に寂しげな声だった。
こんな話は彼を苦しめると知っていて切り出したのだから、俺は相当意地が悪いだろうか。

「ああ。権力にものを言わせてただ威張り散らしてるだけの、男女見境ないおじさんだと思ってたし」

そう言って豪炎寺の方に目をやると、彼はじっと天井の一点を見つめて、苦しそうに口元を歪めた。
それが帝という立場から逃れられない彼の、自虐と悲観に満ちた表情だということは分かっていた。けれど、俺はそんな彼の表情も好きだったから、申し訳ないとは思いつつそのまま話を続けた。

「でも、全然違ったよ」

隣から、髪が掠れる音がした。
俺が目を向けなくても、豪炎寺が驚いた目でこちら見ていることぐらい分かる。

驚きでも、喜びでも、切なさでも、なんだって構わない。彼が俺に目を向けてくれているという事実だけで、俺はとてつもなく幸せな人間なんだと思う。
後宮に来るまでは、ここにいるのは帝の目を引くことに貴重な人生を捧げる愚かな人間ばかりだと馬鹿にして哀れんでいた癖に、全く俺は都合が良い人間だ。数ヶ月前の俺が見たら、随分落ちぶれたもんだ、お前はその程度の人間だったのかと、笑われるだろうか。
ただ、それでもいいと、所詮俺も愚かな人間の一人だったのだと、認められるようになってしまった。それだけの話しだ。


「俺、豪炎寺は偉いと思うよ。帝にこんな言い方…お前の側近にでも聞かれたら、確実に首が飛ぶけどさ」

自嘲を交えて眉を下げると、豪炎寺は突然横たえていた体を起こし、俺の顔を上から覗き込んできた。

「そんな事はさせない、お前は…風丸は特別なんだ」

「あっはは」

あまりにも必死な豪炎寺を見ていると、昼間とのギャップに思わず笑ってしまう。あんなに澄まして背筋を伸ばしてみせたって、豪炎寺も結局は十四の男の子だ。帝という称号が持つ権威も、周りの大人から向けられる金欲や性欲にまみれた薄汚い視線も、彼には荷が重すぎるはずなんだ。
なんて哀れな人なんだろうと思う。だけど同時に、そんな彼が自分を何より大事にしてくれていることが、嬉しくて堪らない。

「な、んだ…」

「そんな必死になるなよ。大丈夫、豪炎寺がこうして俺を呼んでくれる限り、死んだりしない」

そう言うと、豪炎寺は心底安心したように口元を緩め、力なく笑った。
昼間は絶対に見せない、柔らかい表情。豪炎寺が帝としてではなく笑うその顔が、俺は好きだった。綺麗なつり目が少し下がった目元とか、力が抜けた口元とか、暖かい色をした瞳とか。堪らなく愛しいと思う。やっと豪炎寺に、彼の苦しみに触れられたような、そんな気がする。

「なぁ今の、もう一回」

「…は?」

「もう一回笑って」

そしてもう一度、その顔が見たいと思ってしまう。
俺にしか見せない表情をずっと見ていたい。俺しか知らない、俺だけの豪炎寺がもっと欲しい。


「何か、あったのか?」

今日の風丸はなんだか変だぞ、と不安気な声が耳を掠って、優しく手を握られる。
いつもはさして体温など変わらないのに、今日は心なしか、豪炎寺の方が体温が高いように感じる。
暖かい手につつまれた自分が、酷く小さくて価値のない存在のように思えてならなかった。

豪炎寺は俺にないものを沢山持っている。権力も名声も富も人望も。欲を向けられるに相応しい目を引くような顔立ちと権威に溺れない優しさまでも、彼には完璧に備わっているのだ。
父を無くし身分も低く、母と二人で生活していくのも厳しい。所詮お前は更衣なのだからと見下され、笑われるような俺とは、住む世界が違う存在なんだ。
豪炎寺が俺を認識していることさえ奇跡のようなことで、今彼とこうして枕を並べているなんて、それだけで俺の一生にも値する程の幸せだと、頭では分かっているのに。
豪炎寺を見ていると、気持ちも欲も止まらなくなってしまう。
俺だけの豪炎寺が欲しいと、理性の利かない想いが頭をもたげてきてしまうのだ。


「…聞きました。弘徽殿の女御との間に、お子が生まれたそうですね」


外の闇を深くしたような静寂の中で、気の早い蟋蟀の軽快な鳴き声が場違いに響く。
豪炎寺に握られた左手は、俺のか豪炎寺のか分からない汗でじっとりと濡れてしまっていた。

皮肉なまでに震えた声とぼやけた視界の中で、今にも消えてしまいそうな儚い自分の存在を、俺はただ嘲笑うことしかできなかった。








その痛みの名すら知らず、脆く温かな腕でわたくしを壊してくださるならば。

title by空想アリア様
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