「どうしても、行かなきゃならないなのか?」
何度口にしたかも分からないそのセリフを俺はまた口にする。今日は朝からずっとこの調子だ。
何でも、下級の者には滅多に目もくれない帝が今晩俺を部屋に呼んで下さるそうだ。普通であればそれは喜ぶべき事なのだ。何と言っても帝に気に入られる絶好のチャンスなのだから。女にとっては帝様の子を身ごもるチャンスでもある。
だが俺はそれを素直に喜ぶ事ができなかった。宮上がりする時に抱いた後宮への嫌悪感は消えるどころかますます強くなっていた。ここでは帝に気に入られる事が全て、身分が全て、蹴落とし合いなど日常茶飯事。どろどろと何処よりも薄汚れた世界。
「はい、行って頂かなければ困ります」
この答えも聞き飽きる程聞いた。ここまでくると、もう諦めるしかないだろう。俺だって馬鹿じゃない、それぐらいは流石に分かっていた。
「そうだよな…」
「…申し訳有りません」
「あ、いや、宮坂が謝る事じゃないだろ」
慌てて宮坂に顔を上げさせ、気を取り直して部屋を出る。たった一晩お相手するだけだ。もし気に入られる事が出来れば親孝行にもなる。そう自分に言い聞かせるしかなかった。「じゃあ、行ってくるよ」
「お待ち下さい。帝様のお部屋まで御一緒致します」
「…悪いな」
「いえ」
自分が持っている衣の中で最も高級な物を選び香を焚いて髪を結った。髪には家を出るときに母から譲り受けた淡い青の簪が飾られていた。髪を結った姿は、何度見てもおなごのようで慣れない。長い廊下を歩きながらそんなことを考えていた。
ふと気がつけばもう目の前に帝の部屋が見え、宮坂が扉の前に手を突いて伏せていた。
「失礼致します。風丸様をお連れ致しました」
宮坂のよく通る声を合図に扉が一斉に開けられる。部屋の奥に立派な障子と御簾が置かれ、噂の帝とやらはどうやらその奥にいらっしゃるらしかった。
目の前に開かれた景色に、ああついにか…と深く深呼吸をした。
「よくお似合いです」
「はは、ありがとうな」
最後に宮坂から声を掛けられ、俺は帝の部屋に足を踏み入れた。
「…失礼致します、本日はお呼び頂きありがとうございます」
御簾を超え、帝の前に両手をついた。緊張と嫌悪で顔を上げられない。
ああ、なんだかもう人生おしまいだな、と薄く目を閉じた時、右の頬に温かさを感じた。
「…っ、触るな!」
あまりに突然の事で、気付いた時には帝を突き飛ばしてしまっていた。
ああ、やってしまった。ついにやってしまった。俺は今、この後宮で最も有り得ない事をしてしまったのだ。
「もっ、申し訳御座いません」
その場に座り直し、急いで頭を下げる。宮上がりして一月も経たずに処刑だなんて話にならない。
「顔を、上げてくれ…」
初めて聞いた帝の声は俺の想像よりずっと若くて優しかった。あまりに綺麗なその声に思わず顔を上げると、少しつり上がった切れ長の瞳と目が合う。
帝と呼ばれる彼は、俺とさほど変わらない年のようで、その顔は素直にかっこいいと思った。これが、帝?想像との余りのギャップに言葉も思考回路もなかなか起動しない。
「こんなに綺麗な人は初めて見た」
「え…」
「触られなくないのなら、何もしない…せめて隣に」
優しい声でそう言われ、ようやく我に返った。
「ご無礼を、許して下さるのですか?」
「ああ。周りの奴には予定通りお前を抱いたと言っておく」
「…はい」
微妙な距離を開け並べた布団からちらっと帝を盗み見る。男らしい顔つきだ。細身ではあるけれど体つきもしっかりしている。俺と変わらない、普通の男だ。
「今日はすまなかったな、突然呼びつけたりして」
「いえ、俺こそ失礼な事を致しました。帝様のお優しい御慈悲に感謝致します」
「いや…お前の態度は当たり前だ」
好きでもない奴と無理やり寝かされるなんて有り得ない話だろ、と彼は寂し気に目を細めた。この世の何もかもを諦めているような、そんな目だ。金も権力も有って不自由など少しもない筈なのに、何故こんな顔をするのだろうか。それは見ていると抱きしめてしまいたくなる程に切ない表情だった。
「帝が望んでされている事なのかとばかり思っておりました」
「多くの者は、そうだろうな」
俺の言葉に耳を傾け、自嘲気味な笑みを浮かべた帝は、ふと何かを思い出したように遠慮がちに俺に目をやった。
「風丸…お前に一つ頼みがあるんだが、いいか」
「はい、なんでしょうか。俺にできる事であればお力になります」
「その、敬語を使うのはやめてくれ」
せっかく年も近いしな、と付け足してから彼は俺に返事を促した。
「帝が宜しいのならば…かまいませんが…」
「ああ、頼む」
そう言って笑った彼は本当にかっこよくて、男の俺でも見惚れてしまいそうだった。低くて通りの良い声がよく似合っている。
「俺のことは、豪炎寺と呼んで欲しい」
「ごう、えんじ?」
「ああ、俺の生まれの名だ」
「そうか、じゃあ…改めて宜しくな、豪炎寺」
戸惑いながらもそう告げると、彼は満足そうに笑った。豪炎寺は笑っていた方がずっとかっこいい。
たった一晩枕を並べただけだけれど、俺は彼の笑顔に惹かれているような気がした。
「また来てくれ」
「ああ、ありがとう」
低く響く豪炎寺の声は、後宮に来てから久しく縁の無かった温かさを帯びていた。
泣いていたのは私だった。泣いているのは君だった。それが始まりだった。
▽豪炎寺+風丸