長くて微妙に暗い。網膜色素変性症のはなし。



空はどんよりとくすんで灰色がかっていた。まるで絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜたみたいな気持ち悪い色だった。
ただでさえ気が滅入っているというのにこんな天気では更に気が落ちる。練習を休んだチームメイトのことで頭が一杯な俺にはなんとも不親切な天気だ。

「あいつの家って、こんなに遠かったのか」

考えてみれば、マルコの家を訪ねるのは初めてだった。普段はオルフェウス専用の寮で生活しているのだから当たり前といえば当たり前なのだが。

マルコが練習を休むなんて今まで一緒にやってきて指折る程しかなかった。それがある日病院に行ったきり、実家に帰るだなんて言い出してもうすぐ一ヶ月だ。チームのみんなは「風邪か何かの療養中なんじゃないか」なんて言っていたけど、俺はそんな曖昧な言葉じゃ納得できないくらい心配だった。

だって相手が相手だ、あのマルコだぞ。スタメン落ちした時でさえ「もっと練習だ!」とかなんとか言って張り切ってるようなあいつが、風邪ぐらいで練習を休む筈がない。

考えれば考える程心配で、せっかくの休日を一日返上してマルコの実家まで見舞いに行くことにした訳だ。


マルコの家の最寄り駅で降りた時には、今にも降り出しそうな程空が暗くなっていた。足は自然と速度を増す。早く会いたいのか?あいつかいないだけで、なんでこんなに不安になる?いくつも浮かんでくる疑問は答えが出る間もなく消えて、早く早くと俺の心を急かすばかりだった。


「ここ、か」

プレートで名前を確認して、地図をポケットにしまった。ぐしゃっと耳障りな音がしたけど、気にしている余裕はない。インターホンを押そうと伸ばした指は微かに震えていた。

意気込んで押したインターホンの音は何度も耳の中で反響して、機械的な返事の代わりに二階の窓がガラッと開けられた。

「…どちらさまですか」

その声は明らかに我らがチームメイトのものだったが、ほんとにマルコだろうかと疑ってしまうほどに酷く弱々しかった。

「あ、えっと…」

マルコの声を聞くことを心待ちにしていたはずなのに、自分の喉を通ったのは呆れる程に情けない声だった。

「っ、ジャン…?」

それでも、マルコはその声の主が俺だと気付いたらしい。ねぇジャンだよね?と何度も聞いてきた。窓の枠からは久しぶりにみる赤毛がちらちらと顔を覗かせている。

「ああ。久しぶりだな、マルコ」

「とりあえず、入ってよ」

鍵は開いてるからと言われ、小ぶりな階段を登ってドアを開いた。家の中は薄ぼんやりと暗くて、電気は愚か、窓のカーテンまで全て閉められているようだった。両親は外出中のようで玄関先にはマルコが練習で愛用していたサッカーシューズだけが置かれている。
おじゃまします、なんて誰もいない廊下に向かって小さく呟いて、すぐ左手にある階段を登った。

階段も二階も相変わらず電気はついていない。ここまでくると恐怖すら感じる。薄暗い二階にもいくつか部屋はあったがどれもこじんまりしていて、マルコの部屋であろう一室だけがいやに目立っていた。

「マルコ、入るぞ?」

「…うん」

歯切れの悪い返事を聞きながらゆっくりドアノブをひねる。少し開いたドアの隙間から中を覗くと、そこは他のどの部屋よりも一段と暗かった。さっきまで開いていたカーテンや窓もすっかり閉じられている。

「マルコ…」

「久しぶりだね、ジャン」

「お前…」

「ジャンは心配性だからいつか来ちゃうと思ってたんだ」

「なんで…」

「あぁでも、思ったよりも早かったなあ」

そう言いながらマルコは苦しそうに笑った。正確には苦しそうな気がした、と言うのだろうか。俺に見えたのはマルコの口元だけで、彼の目は白い布のようなもので覆われていた。部屋は真っ暗、更には部屋中に服やら小物やら本やらが散乱している。そんな中で一人ベッドに腰掛けているマルコは、明らかに俺が今まで見てきたような彼ではなかった。

「……っ」

何か声を掛けるべきなんだろう。何かあったのかとか、心配したんだからなとか。言いたい事も沢山あった筈なんだ。なのに何て言ったら良いのか分からなくて、うまく言葉が出なかった。

戸惑いを隠せない吐息はマルコにも聞こえてしまったらしい。

「…俺の頭がおかしくなったと思ってる?」

「…そうじゃない」

「良いよ別に。ほんとにおかしくなっちゃったのかもね」

ケラケラと笑うマルコの声を聞いていると胸がぎゅっと締め付けられるようだった。目の前の暗闇に頭がおかしくなりそうで、無理やり喉の奥から声を絞り出す。

「それ…どうしたんだ」

「え?ああ…これか」

マルコの綺麗な細い指が、目元の布にそっと触れる。

「わざと見えなくしてるだけだよ」

「どうして…」

「…いつか、見えなくなるから」

強く言い放ったマルコは悲しげに顔を逸らした。マルコの言葉だけが頭の中をぐるぐるして理解できない。
見えなくなる?あいつの目が?いやそれより、マルコは俺の反応を待っているのだろうか。それとも聞きたくないのだろうか。
マルコの言葉を理解できない頭の隅でそんな事をぼんやりと考えた。

「俺の目、おかしいんだ。どんどんどんどん視野が狭くなって、いつかなーんにも見えなくなっちゃうんだってさ」

「……」

「いつまで見えるのかも分かんないし、治療法も無いんだ」

「マルコ…」

「いつか何にも見えなくなって、サッカーできなくなるんだよ」

「マルコ…!!」


それ以上何も聞きたくなくて、マルコを力一杯抱きしめた。一言一言発する度にわなわなと震えるマルコの唇を見るのが堪らなく辛かった。

とにかく強く、マルコが何も喋れない程強く抱きしめた。苦しいよ、と服を引っ張られても絶対に離さない。


「ねぇジャン…俺からサッカーがなくなったら、何が残るんだろう」

マルコは何を言っても離して貰えないと諦めたようで、掠れる声で力なく呟いた。

「怖いんだ…いつか当たり前の景色が、見えなくなるのが」

「…ああ」

目元に巻かれた布は、マルコの涙ですっかり濡れてしまっている。いつか見えなくなっても大丈夫なようにわざと見えなくしていたのか。だから電気も消して。暗闇の中でたった一人でずっと泣いていたのだろうか。そう思うと、無機質な白が憎くて堪らなかった。


「いつかさ…いつか、ジャンのことも見えなくなっちゃうのかな」

マルコは嗚咽で声を詰まらせながら俺にしがみついてきた。それだけは嫌なんだ、と懇願する声に、何も答えてやれない自分が情けない。


「…取っても、いいか?」

「っ…だめ…!」

「マルコ…」

「もう、見ないって決めたんだ」


どうして?そんなに泣いてどうしようもなく怖いくせに、これ以上暗闇の中なんて耐えられる筈がないだろ。

それに、もう俺が限界なんだ。

「頼む…もう一度、マルコの目が見たい」

俺の言葉にマルコの肩がビクッと跳ねる。涙を堪えるように俯いて、震える唇を強くかんだ。

「ズルいよ…ジャンのばか…」

「悪い」

謝罪の言葉を口にしながらも、俺はゆっくりとマルコの髪に手を伸ばした。後ろの髪をかきあげて布の結び目に爪を立てる。ふわっと布が手元に落ちて、マルコの長い睫毛が上を向いた。

緑色のクリクリした目が遠慮がちに俺を捉える。綺麗な双眸が不安気に揺れるのを俺はただじっと見つめていた。


「見えてるのか?」

「うん…ぼんやり、だけど」

「そうか」


ぼんやりとしか見えていないマルコには俺はどんな風に見えているのだろう。きっと今は、涙でぐしゃくじゃでひどい顔なはずだ。それなら見えていなくても構わない。

「あはは…ジャンの顔ひどいね」

「…うるさい」


「でも大好きだ」

そう言って今度はマルコから抱きしめてきた。練習に暫く出ていなかったせいかほんの少し細くなった気がする。


「やっぱり…ジャンの顔見たいよ…そばにいたい」

「馬鹿…俺ならいつでもそばにいるだろ」

「俺が、見えなくなっても?」

「当たり前だ」


マルコの涙が俺の肩に落ちた。ぴったりくっついている体をほんの少しだけ離して、指で涙を拭ってやる。
驚いてぎゅっと目をつぶったマルコの瞼にそっとキスをした。


「俺がお前の目の代わりになるから」


呆れるほどくさいセリフだと自分でも思った。それでもマルコは嬉しそうに頬を赤くしている。ああやっと笑った、なんて久しぶりにみたマルコの笑顔にいつしか俺も笑っていた。










願えば願うほど苦しいのです
title by空想アリア様


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