──螢を見たいと思った
それは誰と交わした約束だったのだろう。分からない、だけどとても大切で懐かしい人。
記憶の中の少年の面影は曖昧で霧がかかったようにその表情が見えない。だけどあの頃、確かに交わしたのだ。手の温もりだけが伝えた御簾越しで切ない顔をして笑う少年を確かに覚えているのだ。
名前も存在も憶えていないけれど。
ふと眠りの海から意識が浮上する、覚醒して周りを見渡して夢だったのだと知る。同じ夢をもう幾度と見た、どうして同じ夢を何度も見るのか。そしてとても淡く懐かしい気がするのだ。頭の中で探し求めている声がする。
◆
今日は祈祷の為にと陰陽師が来る、昔から自分は見鬼の才という異形の物を視る力があり霊力がある為に妖などから狙われやすい。そして十二の年の瀬に異邦の妖によって埋めつけられた呪詛がその身を蝕む、それを潔斎する為に月に一度陰陽師がこの今上の帝の後宮へと足を運ぶ。
いつもは晴明様、また安倍邸でお世話になった吉昌様や成親様、昌親様が代わりに来られることが多い。陰陽師の中でも信用にたるものだと主上がよく口にしている。
けれども今日はめずらしく晴明様の末孫の昌浩様という方が来るらしい。会ったことはないけれど、よく家人の者から話はよく聞いていた。
どんな人だろうと気になった、歳も近いと言う。けれども彼の話をすると私を見て決まって安倍邸の人はすこし切なそうに微笑むのだ。それが何故だかわからなかった。
周りの女房からは藤壺の女御様よりも主上の寵愛を一心に受ける私を羨ましいと言っていた。けれども私はそんなものは特に欲しくなかった気がする、ただ脩子様の側にいられるのならずっとそこにいたいと思っていた。どうしてだろう。
そう、行きたいところがあったのだ。どうしても行きたいところ。だけどそれは叶わないから願ったのだ。幼き日に決めた約束。
螢を誰かと見にいく約束、
そして、誰よりも行きたいと望んだ
自分の中で決めた約束だった。それはどちらも果たされていない。
夢の中では螢が舞う貴船で優しく微笑む顔、雑鬼達がころころと楽しそうに転がっていて、白い物の怪が穏やかな表情で見守っているのを夢に見る。
「…ばかね、夢なのに」
呆れたように言葉を吐くと、女房が陰陽師が来たと知らせる。元々女房仕えだった自分に最高峰の女房をつける主上は余程、私を大切にしていることが窺える。
「…お通しして、」
御簾越しに対面する、思ったよりも若く精悍で誠実そうな青年だった。
「…お初目にかかります、藤の姫」
その声に何故だか酷く懐かしい気がした。一瞬はっと瞠目してその声をもっと聞いていたくなるようなそんな声だった。
藤の姫とは私の名で、藤壺の女御様と区別できるようにと主上が決めたものだ。主上には本当の名を教えられる訳がなく、また教えたいとも思わない。その名を呼んでほしいのは一人だけ。求めているのは一人だけ、それが誰なのかは分からないが。
「…貴方が晴明様の末のお孫様?」
「…はい」
彼からはこちらの様子はよく見えないだろうが、御簾の中からはすこしだけ面影が見える。その瞳が、表情が切なくやるせなさそうで不思議に思う。微笑んでいるのにまるで泣き出しそうなそんな表情だと思った、それはきっと杞憂だと言い聞かせたが。
だって自分はこの人に会ったことがない、今初めて対面したのだ。それなのにどうしてこんなにも胸がざわつき酷く愁うのだろう。心が波でさざめくようなそんな気分だった。
「…立派な陰陽師なのだと聞いています」
「いえ、そのような勿体ないお言葉を賜りまして光栄な所存でございます」
改まった形式がなんだか堅い、けれどもやっぱりひどく懐かしくて落ち着くそんな不思議な気持ちだった。成親様や昌親様とは違う。
祈祷が始まると胸にあった軽いわだかまりのようなものが取れて楽になる。それに優しく微笑む彼をまだ帰したくないと思った、どうにか引き留めたくて話の折をつけないように努めた。
「ねぇ、陰陽師なら今までどんな事をしてきたの」
聞きたいとせがると虚を衝かれたように彼は驚いてやっぱり切なそうに微笑った。彼の話は目を見張るものばかりで、出雲や伊勢、貴船や播磨、黄泉や夢殿といったまるで通常ではありえない場所に赴いたという。
黄泉に辿り着いたあの時は死ぬかと思ったと屈託なく微笑い、いやまあ実際死にかけてたんだけどと続ける彼に思わず笑みが零れる。
頭の中で笑うなよ、と少年の声が聞こえる。そう彼ならきっとこう言ったはず。それは誰なのだろう。
「…笑わないでください」
冗談まじりにすこし情けなさそうな表情をしてその人は微笑った。
「…ごめんなさい、つい」
目を細めて彼を見つめる、彼はなにやら唸っていて言うんじゃなかったと後悔しているようにも見える。その姿が愛おしいと思った。
「…昌浩様はお幾つなのですか?」
「今年で二十一の歳となります」
「…そう、なんてお呼びしたらいいのかしら?」
晴明様は会った時からそう呼んでいる、成親様や昌親様も。安倍邸でお世話になった時に顔を合わせた時に自然とそう呼んでいた。そういえば自分は少しの間、安倍邸にお世話になっていた、そこで雑鬼達とも仲良くなった。どうしてそこにこの青年はいなかったのか、そういえば播磨で修行したと今言っていた。きっとその為だろうと思ったが、その事をどうして憶えていないのか疑問に思った。
「…昌浩とお呼びください」
懐かしむような目でこちらを見据える、その瞳が愁いているのに綺麗だと思った。透き通っていて覚悟を決めたような瞳。
「…そう、じゃ昌浩ね。」
私のことは、と言おうとして止めた。彼は藤の姫と呼んだ。その名は今や知らぬ者などいない。なぜならあの今上の帝が寵愛する姫だと言われているからだ。
けれども藤の姫と他人行儀に呼ばれたくなかった、けれども真名を露見することは出来ない。それこそ本当の父上の失脚に繋がるからだ。けれど。
安倍邸の者は陰陽師、秘密を抱えて生きる者。晴明様も成親様も昌親様も私の真名を知っていてもそれを人前で言わない。けれども目の前の彼には真実を告げたかった、その名で呼んで欲しかった。
「…、」
「…申し訳ありません、お声が」
わざと聞こえないくらいの声で言った、すると彼は御簾に近づき身を寄せる。周りには女房や衛士も誰もいない。本当に小さな声で彼にだけ聞こえる声で告げた。
「…彰子よ、そう呼んで」
その言葉に彼はひどく狼狽していた、それはきっとその名を知っているから。けれども彼はそれを知っていても晴明様からも聞かされていてもおかしくない。そう彼が驚いたのは今よりも幼い頃、同じ声で同じ言葉を聞いたからだ。それは彼しか今は憶えていない。
「…ではその御名前は私の胸だけに留めておきます」
そう言って結局呼んでくれないまま彼は踵を返した。また来てくれるか問うとそれは分からないと応えた。けれども星の導きがまた互いを引き寄せるかもしれないとも云った。
もしも私が帝の寵愛など受けないただの女房であったなら、あのまま安倍の屋敷にいたのなら彼と出会い共にあれたのかと馳せる。出逢いが違えば彼を愛せたのにと逸る焦燥に胸を痛めないわけにはいかなかった。
ああ、会ったばかりの何も知らない彼の声も瞳もその背中も全てが愛おしくて今にでも追いかけたいほどだ。こんなにも胸を焦がすのはどうしてなのか彼女には分からないでいた。
了