忘れられないこと 06

※あんず視点

【現在】

「あ、深海先輩!」

 会議室を出て、約10分後。
 私は事務所が深海先輩のために用意した三箇所の水浴び用噴水を巡り、やっと深海先輩を見つけた。

「あんずさん。ひさしぶりですねー」
「お久しぶりに会う場所が噴水っていうのが深海先輩らしいです」
「ふふふ、そういってわらってくれるのはあんずさんだけですよー。ふつうはみんなおこります」

 深海先輩はそう言って、私に手を差し伸べた。

「なんですか?」
「ひさしぶりに、あんずさんも『みずあび』しますか?」

 首を傾げた私に、深海先輩がそう尋ねた。
 その質問は過去に一度聞いたことがある。
 たしか高校二年生の冬だった。そんな季節に深海先輩と水浴びをして、通りかかった真緒くんに怒られて保健室に連れていかれた。
 あのとき、深海先輩が私を水浴びに誘った理由は……。

「また、あんずさんは『かれ』のことをかんがえて『くらいかお』してますね」

 そう。あのときも私は真緒くんのことで悩んでいた。でもあのときは、ただ真緒くんをこのまま好きでいていいのかっていう、幸せな悩み。

「深海先輩にはお見通しなんですね」

 私は深海先輩の噴水に足を踏み入れる。冷たい水が足に絡みついて、なぜか飲み込まれそうな感覚に陥る。
 でもその感覚から救い出すように、深海先輩は私の手を握ってくれた。あのときと同じように。

「『けんか』ですか?」
「……喧嘩、だったらよかったです」

 水面を見つめれば、不安げな私の顔がゆらゆらと揺れて映る。情けない姿を見て、さらに表情が強張る。
 すると、深海先輩が私の手を離してバシャっと私の顔に水をかけた。

「わぷっ!」
「だめですよ、あんずさん。くらいかおは。えがおがいちばんです」

 ぷか、ぷか、と体を揺らして、深海先輩は優しい笑顔を浮かべる。
 深海先輩の放つ空気は独特だ。けれど私はその空気にとても安心してしまう。深海先輩の前では、なぜかいつも白状してしまうのだ。

「……深海先輩」
「はい」
「私……忘れられちゃいました」

 声が、震える。
 口にしたら、余計に実感してしまうから苦しい。
 真緒くんは、私を忘れたんだと。

「お医者さんは……大事な記憶だからこそ欠けてしまったんだろうって言いました。……でもそんなの、慰めの言葉でしかないですよね」

 私にとって、真緒くんとの思い出は全部、かけがえのない大切なもの。真緒くんにとってもそうだと私は信じてた。今でも、どこかで信じてる。
 でも……。

「だって、大事なものを……忘れられるわけ、ないじゃないですか」

 どうしたら、忘れられるの。
 どうして、忘れてしまったの。
 真緒くんは悪くないのに、どうしても責めてしまう。
 それが嫌で、たまらない。

「あんずさん」

 震える私を、深海先輩は澄んだ瞳で見つめていた。その瞳は昔から変わらず、何を考えているのか、私に読ませてはくれない。
 分かりやすい真緒くんとは大違いって、ずっと思っていた。でも今は、真緒くんの気持ちすら、私には分からない。

「だいじなことでも、わすれてしまうときはありますよ」

 深海先輩は両手で水をすくう。指の隙間から、こぼれおちる雫を深海先輩は慈しむように見ていた。

「ひとのあたまは、こんなふうにきおくをとりこぼしてしまいます。どんなにおぼえていたいことも、けっきょくぜんぶおぼえるなんてむりですよ」

 ぽつり、ぽつりと雫が深海先輩の手から落ちていく。そうして深海先輩ぎ両手を広げると、その手から水がドバッとこぼれた。

「もしかしたら、こんなふうにぜんぶきえることもあるかもしれません」

 そうして深海先輩は自分の両手を私の前に突き出した。

「でも、ぼくのてにはまだ『しずく』がのこってます」

 もしも真緒くんの記憶がすくった水と同じなら。

「きっと『かれ』のあたまに、きおくのかけらはのこってますよ」

 そうであってほしいと願ってしまう。
 たとえば、階段から落ちそうになった私を、とっさに名前で呼んだあのとき。
 真緒くんの中に残ってる記憶のかけらが、そうさせたんじゃないかって。

「だって、あの『かれ』があなたをわすれることはぜったいにできないとおもいますから」

 深海先輩はそう言って、私を指差した。
 その意図を汲んで、後ろを振り返れば……。

「お、衣更。あんずと奏汰を発見したぞ!」
「え? あ……は!?」

 なぜか、守沢先輩と真緒くんがそこにいた。

「なんで……二人が」
「スバルたちがゆるキャラコーナーの話で盛り上がって脱線してたら……部長がお前と深海先輩探しに行くからついてこいって……つーか、なんでお前まで噴水入ってんだよ」
「えっと……これは……ああっ!」

 真緒くんが私の手を引いて噴水から私を連れ出す。

「深海先輩は慣れてるから大丈夫だろうけど、お前は風邪引くんじゃないの。プロデューサーなんだったらそこをしっかりしろよ」



『プロデューサーが風邪引いたらどうすんだよ!』



 過去の記憶が蘇る。
 それとともにふわりと、真緒くんの香りが私を包む。この感覚にも私は覚えがあった。
 あのときと同じ。真緒くんが来ていた上着を私に羽織らせていた。

「無防備にも程があるだろ。……そういうの、簡単に男に見せんな」

 本当は、過去を覚えているんじゃないかって、問い詰めたくなる。全部真緒くんの演技なんじゃないかって。
 だって……。

「……衣更くんは、お兄ちゃんみたいだね」

 少しだけ震える声でそう答えると真緒くんは少しだけ瞠目した。それって、君の記憶のかけらが震えた証拠でしょ?
 そういうの、ずるいよ。

「な、あんず!」

 視線を声のほうへ向けると、守沢先輩が彼らしく豪快にニッコリと笑っていた。

「衣更は衣更だな!」
「ぼくのいったとおりでしたねー、あんずさん」

 守沢先輩も、深海先輩と同じように分かっていたんだ。私と真緒くんに、何かが起きたことを。
 そうして、二人とも教えてくれた。
 彼の記憶のどこかに、私がまだ残っているってこと。

「……何の話だ?」

 真緒くんは全然分かってないみたいだけど。
 でも私には分かった。
 どんなに忘れようとも、全部忘れることはできないんだって。

「衣更くんには、まだ分からないかもね」

 わざと、いたずらに笑ってみた。すると真緒くんは少し不機嫌そうな顔をしたけれど。
 今の君には、教えられないや。
 全部忘れたと思ってる君には……まだ内緒。
 だから思い出して。そうしてくれたらちゃんと教えるから。

 忘れられないことは、たしかにちゃんと存在してるんだよって。
 

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