始まりの嘘
「……っ、は、ぁ……ん、ぅ」
埃まみれの廃屋で、堪えるように鳴る声が、主の機嫌を微かに損ねた。
「声出せ……って、ホラ……ッ」
「きゃ……っ、あ…あ、んんっ、はあっ」
目の前で揺れる女の声を、無理矢理弾き出させるように、主は乱暴に腰を揺らす。
グチャリグチャリ、と混ざり合う音が不協和音を奏でた。
「総長!」
そんな異質な空間に、さらに似つかわしくない音が重なる。
総長と呼ばれるその主は、それでも腰を揺らすことをやめず、視線だけを声のする方へと投げた。
それを合図に、配下の男は用件を簡潔に伝える。
「東卍について調べてきたので報告します!」
その知らせを聞いた主は、黒目を一周ぐるりと回して、ところどころに火傷の痕を刻んだその顔を、コテンと傾けた。
「東卍……? 何だっけソレ……っ?」
赤と黒のまだらな髪を揺らし、主は答えを求めるように目の前の女へ質問を投げた。
「最近……っ、渋谷で、幅…利かせてるチーム……っ。……亜門(あもん)、くんが……ぁ昨日ソイツらに……調べてこいって……ぁっ、ああっ、ん」
「あー……いたなぁ、そんなチーム……っ。原宿と…、間近で……目障りだよなぁマジで」
そうは言いつつも愉しげに、主は腰を揺らし続ける。
女の身体に刻まれた、歪な『アネモネ』に触れながら、配下の人間たちに見せつけるようにその行為を続けた。
「んじゃあ…っ、…次そこ潰すかぁ……っ、オイ…聞けって…っハハッ……ハハハハハッ、イきすぎだバァーカ……はっ、ぁ……報告の、内容次第では……コイツ抱かせてやんぞー」
まるで物を扱うように女を使って、配下すべてを服従させる。
廃屋で響く卑猥な音は、狂った世界の象徴のようなものだった。
この世界のどこにも救いはない。
こんなふうに誰かを狂わすのも、誰かを思う愛憎で。
そして誰かを救うのも、また誰かを思う愛情だった。
◇
◇
◇
「いや……っ、やめてってば…っ」
「自分から誘っておいて嫌はないっしょー」
「いつもみたいにカワイイ声聞かせてよ♪」
「はい、ばんざーい」
衝撃的な偶然と、打算のない必然。
その感情を恋だと称することに必要なものはそう多くない。
「アンタら、真っ昼間にこんなとこで何やってんだ?」
渋谷第二中学の屋上。
冷たいタイルに背中を押し付けられた奈子の耳には、冷静な声が聞こえていた。
声の主を見やれば、弾けたスナップボタンを片手に、呆れた顔をコチラに向けている。
「……っ、2年の三ツ谷だ! くそ……っ、下にいるヤツ呼んで――ッ」
奈子を囲む男子の一人が命令を下す前に、三ツ谷がその顔面を地面に叩きつけた。
そうして次々に男子生徒を殴り倒して、三ツ谷は小さく息を吐く。
「無理矢理ヤるとか汚ぇんだよ、バカ」
男たちに軽蔑するような視線を投げて。
一度瞬きをした後、三ツ谷は改めて奈子に視線を向けた。
「大丈夫?」
コンクリートタイルに倒れたままの奈子を気遣うように、三ツ谷が手を差し伸べる。
その手に触れてみれば、ひんやりと冷たい奈子の身体を侵食するように、独特の温もりが流れ込んだ。
「……ありがと」
「怪我はー……見たところなさそうだけど。痛いところは?」
奈子が首を横に振ると、三ツ谷は「ならよかった」と目を細める。
そうして辺りを見渡して、また奈子に視線を戻した。
「……とりあえず移動すっか。立てる?」
奈子が頷いたのを確認して、三ツ谷は奈子の腕を強く引く。
少しダボついた長いカーディガンが、奈子の目の前でひらひらと揺れて。
小走りで屋上を出ると、三ツ谷はすぐにその手を離した。
「ごめん。あーいうことされた後に、似たような風体のオレから触られんのも嫌だったよな」
「ううん、大丈夫。……助けてくれて、本当にありがとう」
カタカタと震わせた手を、奈子は自分の胸の前で握りしめる。
もともと真白な手が一層色を無くすのを見て、三ツ谷は小さくため息を吐いた。
「これ聞かねぇほうがいいかもだけど。……あーいうことってよくあんの?」
「……え?」
三ツ谷の問いかけに奈子はすぐさま顔を上げた。
驚きで揺れた漆黒の瞳が、三ツ谷の藤色に影を差す。飲み込みそうなくらいに瞼を大きく見開けば、三ツ谷が少しだけ戸惑ったような顔をした。
「『いつもみたいに』って……なんか初めてのことじゃなさそうだったから」
三ツ谷がそう答えると、奈子は胸元で握りしめた手に力を込める。
手の甲に指が食い込んで、周囲の皮膚がまたその白色を濃くした。
「……いや、別に答えたくなきゃ答えなくていいし。オレの勘違いならそれでいいんだけど」
三ツ谷の声音は、変わらない。
哀れむような調子でもなければ、咎めるような空気もない。
わずかな心配をのせた声色がその場に響いた。
「うん……三ツ谷くんの言う通り」
答える奈子の声は、透明な色。
何の感情も彩らないその声色とは対照的に、握りしめた手を感情露わに震わせていた。
無理矢理脱がされかけたセーラー服は、スナップボタンが外れてフロント布が不安定に揺れている。そのせいで見え隠れする胸元を、奈子は恥じらうように隠していた。
「……やっぱり、無神経だったな。悪い」
「ううん、謝らないで。……三ツ谷くんが助けてくれたこと、本当に感謝してるから」
きつく握った手を解いて、奈子は三ツ谷の温かな手に、自らの冷たい手を重ねた。
「でも……あの…ね、助けてもらっておいて図々しいとは思うんだけど、あともう少しだけそばにいてもらえないかな?」
上目に三ツ谷を見上げて。
奈子は潤んだ瞳を数度瞬かせた。
「オレでいいなら、まぁ……」
そっけなく答えてすぐ、ふと思いついたように目を輝かせて、三ツ谷は奈子の手を引いた。
「ちょうどいい場所があっから……ちょっと来て」
◇◇◇
「家庭科室……」
たどり着いた場所に驚いて、奈子はその場所を示すプレートを口に出して読み上げる。
連れてこられた理由が読めず、奈子はただひたすら疑問だけを頭上に浮かべていた。
「昼休みは誰も来ねぇーから結構穴場。ハイ……どーぞ」
まるで自室に通すみたいに、三ツ谷は家庭科室の扉を開けて、奈子に中へ入るよう促した。
明かりがついていない室内を見渡せば、数台のミシンと作りかけの編み物や切りっぱなしの布キレが机の上に置き去りになっていた。
「誰だぁ、片付けてねぇーやつ……」
ため息を吐きながら、三ツ谷は長机の上を慣れたように片付け始める。
散らばった布を丁寧に集めながら、三ツ谷は「適当に座ってて」と空いている椅子を奈子に指し示した。
2人きりの空間。
薄暗い室内、誰も来ないという場所。
三ツ谷がどうしてこんなところに連れてきたのかを考えて、奈子は口元に手を当てた。
「あの、三ツ谷くん」
「あー、うん。ちょっと待って……っと、あったあった」
探し物を見つけたらしく、三ツ谷は満足げに口角を上げる。
木製椅子に腰掛けた奈子のもとへと歩み寄り、三ツ谷は奈子の視界に映り込むようにしゃがみこんだ。
三ツ谷の真剣な顔が奈子の視界いっぱいに映り込むけれど。
彼が見つめているのは、奈子のはだけてしまった胸元の一点のみで。
「……三ツ谷くん」
「このまま出来ねぇこともねぇけど……上、脱いでもらっていい?」
予想通りの流れに、奈子は目を細める。
わずかに揺れた空気に、三ツ谷は敏感に気づいて。
そしてほんの少しだけ焦ったように奈子から遠ざかろうとした。
「……あ、やっぱいーわ。さすがに嫌だよな。そのままジッとして――」
「いいよ」
「は? ……っ、おい、ちょっと待て」
三ツ谷の制止の声も聞かず、奈子は前開きのファスナーを開ける。
服を全部は脱がないまま、薄紫の下着に飾られた深い谷間を、三ツ谷の眼前に晒した。
「三ツ谷くんなら、これくらいはいいよ」
そう口にして、三ツ谷の頬に手を添える。
そうすれば大抵の人はその意図を汲んで目を閉じるのに。
三ツ谷は目を開けたまま、奈子のことをジッと見つめて。
「よくねぇだろ。……何考えてんの、アンタ」
近づいた奈子の顔に触れ、その唇を尖らせるように三ツ谷は奈子の両頬を押しつぶした。
「……っ!?」
「セーラー服のフロント、ボタン縫うだけだから。……脱ぐの抵抗ねーなら貸して」
ため息まじりに言って、三ツ谷はその場を立ち上がる。
同時に自分が着ているカーディガンを脱いで、それを奈子に差し出した。
「代わりに……これ着てて」
思考が追いつかず、奈子は言われるがままそのカーディガンを受け取った。
三ツ谷が背を向けたのが、着替えの合図なのだと悟って。
奈子はセーラー服を脱いで、代わりに下着の上から三ツ谷のカーディガンを羽織った。
「……はい」
奈子からセーラー服を受け取ると、三ツ谷はほんの一瞬目を瞬かせて。
でもすぐに、ボタンの外れた布地に視線を移す。
もともとボタンが付いていたであろう場所を確かめて、三ツ谷はそこに慣れたように針を刺した。
「……そういえば、三ツ谷くん手芸部だったね」
自分の知る、三ツ谷の情報を一つ思い出し、奈子がぽつりと口にする。
その呟くような声を聞き漏らさずに、三ツ谷は視線だけ奈子の瞳に流した。
「なんで知ってんの?」
「一時期噂になってたから。手芸部に不良が入ったって」
「ハハッ、なんか想像つくわ」
当時のその噂には、もちろん悪意が含まれていた。むしろその感情の方が多いくらい。
恐らく三ツ谷もそれに気づいていて、それでも三ツ谷はニッと屈託ない笑顔を向けた。
「まー、よく驚かれるな」
まったく気にしていない様子で、三ツ谷はするするとボタンを縫い留めていく。針と糸をリズミカルに操るその姿は、とても様になっていて。
「意外だけど……違和感はないよ」
わざわざ言う必要のない言葉を、奈子は口にしていた。
「お裁縫してる姿が、三ツ谷くんの優しい印象にすごく似合ってるから」
本心から出た言葉は、温かい音色で響く。
空気に溶けるように流れた声は、ちゃんと三ツ谷の耳に届いていた。
「……なんだそれ」
呆れるように、でもどこか照れたように。
三ツ谷は奈子に困ったような笑みを向けた。
「……アンタ、名前は?」
改めて三ツ谷にそう問われ、まだ自己紹介もしていないことに思い至り、奈子は「ごめん」と慌てて三ツ谷に向き直った。
「有村、奈子です」
「『有村さん』、か。……なんかどっかで聞いたことあるような……あ、それよりここも解れてるから縫っていい?」
スナップボタンを縫い終えて、三ツ谷は別の解れた部分を繕おうとしていた。
その厚意に甘えて、奈子は三ツ谷にそのまま上衣を預けた。
ゆるゆるのカーディガンで身を隠して、奈子は三ツ谷の手元を覗き込んだ。
「見ていい?」
「いいけど、別に見てもおもしろくねーよ?」
「ううん。そういうの新鮮」
冷たく凪いでいた空気が、徐々に温かくなる。
それはきっと隣に座る三ツ谷の体温のせいなのだと。
そこから流れてくる温もりのせいにして、奈子は三ツ谷の手元をじっと見つめた。
「……さっきの」
そう、静かに切り出したのは三ツ谷だった。視線は解れた制服の裾に向けたまま、三ツ谷は奈子に言葉を紡いだ。
「オレは別にそーいう気ねぇからいいけどさ。……安請け合いとかやめとけよ」
さっきの、というのは奈子が三ツ谷の目の前で服を脱ごうとした件。そこに付随する『三ツ谷ならいい』という発言と、その後の行動すべてを指すのだろう、と。
冷静に分析して、奈子は苦笑した。
「癖なんだよね。何かしてもらったらお礼しなきゃって」
「ひでぇ癖だな」
「うん。だからね、あーいうことがよくあるのも自業自得なの」
カーディガンの裾をキュッと握りしめて、呟いた奈子の声はやはり透明だった。
「……分かってんなら、直さねーとな」
対する三ツ谷の声音は依然優しいまま、あやすように響いて。
その温かい手が、奈子の頭に乗った。
「こんなことばっかで毎回落ち込んでたら、もったいねーじゃん」
暗闇とは無縁のように。
照らすような笑顔が、眩しく煌めいて。
その笑みを浴びて、少しだけ奈子の顔にも笑顔が浮かんだ。
「ふふっ」
「……笑うようなこと言ったか?」
「ううん。私歳上なんだけど、妹みたいに扱うなぁって」
堪えるように笑いながら、奈子がそう告げると。
三ツ谷は目を丸くして、その驚きを顔いっぱいに表した。
「え? アンタ、3年?」
「うん、3年」
繰り返して。
その事実にまた驚いている三ツ谷に、とうとう堪えきれずに奈子は大きな笑い声を漏らしてしまう。
カラコロと鈴の転がるような笑い声が、静かな空気に馴染むように響いた。
「1年生だと思った?」
「……同い歳か、下かと。その、なんつーか、悪ィっス」
「いいよ。今さらそんな。全然嫌じゃないから」
クスクスとこぼれ落ちる笑い声に不快な音はなく。
周囲に花を咲かせるような笑顔が、三ツ谷の目に止まった。
「……――『3年の有村さん』」
突然紡がれた、単語のような呼び方に、奈子は笑い声を止める。首を傾けて三ツ谷のほうを見やれば、三ツ谷は何かを思い出したように満足げに笑った。
「思い出した。……『3年の有村さん』」
「……? うん?」
「パーちんが前に言ってた。『3年の有村さんの顔がすげー』って。説明がバカすぎて全然意味分かんなかったけど、今分かったわ」
「何その『すげー』って」
3年に有村という苗字は奈子しかいない。
だからおそらくその『3年の有村さん』は奈子のことで間違いないのだけど。
「すげー綺麗ってこと。……少なくともオレはそう思ったよ」
目尻を下げて笑う三ツ谷に、今度目を奪われたのは奈子のほうだった。
正常な思考は、そのとき確実に作動するのを止めていて。
「っし……できた」
綺麗に繕い終えた制服を、三ツ谷が奈子に見せるようにして掲げる。
その制服を受け取るために動いたはずの奈子の手は、軌道を変えて三ツ谷の手に重なった。
「有村さん? 何――」
その声は、息を呑むように掻き消える。
重なった唇は、無理矢理に作った沈黙の中で、吐息だけを響かせた。
「……っ…ぅ」
縫い合わせることのできない銀色の糸が、2人の感情を何一つ結うこともなく。
キスを仕掛けたはずの奈子は、三ツ谷以上に驚いた顔をしていた。
けれどもすぐに、その一瞬の動揺さえも隠すように、綺麗すぎる笑顔を携えて。
「……ね、三ツ谷くん」
塗りつぶしたように真っ黒な瞳で、三ツ谷を見つめる。
三ツ谷が奈子を助けた偶然と、奈子が三ツ谷に心惹かれるという必然。
そこにたしかに『偶然と必然』が存在していることを確認して。
「私の彼氏になってくれませんか?」
奈子は、それを『恋』と呼んだ。
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