灰色の世界
タバコの匂いがこびりついた古びた団地の一室――5畳一間の狭い家が、ある日部屋をいくつも持った2階建ての豪邸に変わった時、奈子は自分のことを御伽噺の『お姫様』だと思った。
いつも仕事で夜にいなくなる母親がずっと家にいて。
今まで着ることのできなかった綺麗な服をたくさん買い与えられて。
そんな魔法をくれた槇道孝太郎という男を、幼い奈子は本気で『魔法使い』だと思っていた。
そしてその『魔法使い』がいつも奈子の家に連れてくる亜門という男の子のことを奈子の『王子様』だと信じて疑わなかった。
毎週末、魔法使いさんが王子様を連れてくるのが楽しみだった。
王子様と2人きりで公園で遊ぶのが大好きだった。
何もかもがキラキラ輝いて見えて。
自分が世界で一番の幸せ者だと、心の底からそう思っていた。
今でも時折奈子は思う。
あれは本当に現実だったのだろうか、と。
もしかしたら幸せだった時間は全部幻で、奈子が自分に都合よく思い描いた妄想だったのかもしれないと。
だからこそ思う。
昨日三ツ谷に会えたことも。彼に優しくしてもらえたことも。
きっと奈子が強く思い描いた幻想でしかないのだと。
そうじゃなきゃ……今がこんなに、苦しいはずがないと。
「はぁ……っ…ごめ、ん……ごめん、なさい……奈子さん……っ」
奈子の名前を呼ぶ声が、泣いている。
今自分を抱いている男が、どういう経緯で亜臥猛臥に入ったのか、奈子は思い出せない。自分が堕として亜臥猛臥に引き込んだ男なのかも、亜門が半殺しにして無理やり引き込んだ男なのかも分からない。
自分を抱いた男の顔も、自分が「好きだよ」と嘯いた男の顔も、奈子はちゃんと覚えていない。数ヶ月経てば記憶は霞んでしまう。
でもきっと、泣きながら謝ってるってことは、奈子が引き入れた男なのだろう、と。
「……っぁ…ん」
巻き込んでごめんね、と。
謝る代わりに奈子は男に喘ぎ声を返す。
そうして男が堪えきれずに精を吐き出せば、次の番。
誰も幸せにしない行為をひたすら続けて。
「……もう、いい。……奈子、こっちに…来い」
感情のない声が、奈子を呼べば、すべて終わり。
救いようのない輪姦を始めた主催者が、奈子を見つめる。
他の男の精液で汚れた彼女の身体を見て、この惨状の主である亜門は涙を流し始めるのだ。
「なんで……こんなに…汚れてんだよ……オマエ」
なぜかと聞かれれば、それは君のせいだと、答えるしかない。
けれどその答えが亜門を壊すことを分かっているから、奈子は亜門の好きな綺麗な笑顔を携える。
「誰が…こんな……酷いこと……」
そうしてまた一筋、涙が溢れたら。
感情も全部流れきったように、亜門の表情がガラリと変わる。
「オマエが……綺麗すぎるから、悪いんだ」
すべての責任を奈子に擦りつけて、亜門は奈子を冷たい地面に押し倒す。
「オマエみたいな女がいるから……っ、みんな変になるんだろうが!!」
どうしようもない怒りをぶつけて、亜門は奈子の汚れた身体をさらに穢していく。奈子の身体にはもう一つも『綺麗』なんて残っていないのに。
それでも亜門はずっと、奈子の『綺麗』を愛して、そしてこの上なく憎んで、穢した。
どうしてこんなことになってしまったのだろう、と。
何度思い返しても、やっぱり奈子は亜門を責めることができない。
あの日々をどんなにやり直しても、きっと奈子と亜門が辿る結末は今に繋がる。
「亜門……くん」
『亜門くん!』
悲しく響く奈子の声は、どうあがいても、過去の軽やかな声とは重ならない。
今の奈子なら、簡単に気づく違和感も、5年前の奈子は気づかない。
自分の幸せが無条件に与えられたものだと信じてやまない無垢な少女は、その根底にある罪に気づくことがなかった。
『うわあ、かわいいお花』
懐かしい記憶。
幸せだった日々の記憶。
『奈子』
亜門とは親同士の繋がりで知り合って、互いに通う小学校は別だった。だから基本的に会えるのは、亜門の父親が休日に亜門を連れてくるときだけ。そのときに2人で公園に遊びに行くのが決まりだった。
だけどその日は、偶然学校帰りに亜門と出会ったのだ。
花屋から出てきた亜門を呼び止めて、亜門のそばに駆け寄った。
亜門が手にする色とりどりの花束を見て、無邪気にはしゃぐ奈子に、亜門はいつも通りの優しい笑顔をくれた。
『アネモネって言うんだ。母さんの好きな花』
『あねもね?』
『うん。一般的な花言葉は《見放された》とか《はかない恋》とか、あんまりいい意味はないんだけど』
『えぇ……こんなにかわいいのに』
明るい表情が一変して暗いものに変わると、亜門は優しく奈子に笑いかけてくれた。
『でも、ちゃんと色をつけたら好きな子にプレゼントできる花になるんだって』
『……え?』
『白いアネモネは《希望・真実》、ピンクのアネモネは《待ち望む》、それから紫色のアネモネは《あなたを信じて待つ》だったかな』
花屋さんから聞いた花言葉を頭に思い浮かべて、亜門は奈子に教えてくれた。
『じゃあ、赤色は?』
奈子の問いかけに、亜門はほんのりと薄く頬を染める。
『赤色のアネモネの花言葉は――――』
花言葉を教えて、亜門は花束から赤いアネモネを1本だけ引き抜いて奈子に手渡した。
お互いに気恥ずかしくて、目を逸らして。
亜門からもらったその言葉に、あのときの奈子が果たして同じ気持ちを返せていたのかは、今となっては分からないけれど。
でも奈子は、あのときたしかに心を躍らせていた。今が幸せだと、心の底からそう思っていた。
『じゃあな、奈子。気をつけて帰れよ』
だから、何度も思う。
あのとき、亜門がランドセルから落としたキーホルダーを、どうして拾ってしまったのだろう、と。
そしてどうして、それを届けに行ってしまったのだろう、と。
次に会うときに渡せば、少しは何かが変わってたかもしれない。
地獄の日々の始まりを、少しは遅らせることができたかもしれない。
『あれ……亜門くんいない?』
亜門の家のインターホンを何度鳴らしても、誰も出てくれなかった。間違いなく亜門は家に帰ったはず。寄り道をした可能性もあるが、玄関先に落ちている花びらは亜門が見せた花束のものだろうと察しがついた。また出かけるにしても、あまりにも早すぎる。
『どうしたのかな。亜門くーん』
そのまま、家に帰ればよかった。非常識なことなどしなければよかった。
けれど何度考えても、小学生の奈子は、あの時亜門の家の扉を開けただろう。悪いことをするつもりは、なかったのだから。
ただ、亜門の落とし物を届けたかっただけなのだから。
『亜門、くん……?』
目の前で亜門の母親が、亜門の顔に煙の立つタバコを押し付けている姿を見ることになるなんて、思ってもいなかったのだから。
亜門は声もあげずに、泣き喚くこともせずに。
母親にされるがまま、その所業のすべてを受け入れていた。
亜門がよく顔に貼っていた絆創膏の意味を、奈子はその時初めて理解した。絆創膏を貼っている箇所が日々増えていたけれど、亜門はずっと『転んだ』とか『遊んでいたら怪我した』としか教えてくれなかった。
絆創膏が剥がれたところに残る痕が、ただの怪我ではないことに、大人ならすぐに気づけたはずなのに。
大人たちがみんな、見て見ぬフリをした理由がすべて、槇道家が『裕福な恵まれた家庭』だったせいだと知ったのは、もっとずっと後のこと。
『奈子! なんで……っ』
『……奈子? ああ……おまえが……あの女の……娘?』
亜門の母親は奈子の存在に気がつくと、さらにその表情を歪ませた。亜門から離れて、タバコを持ったまま奈子のほうへと近づいて。
亜門のくれた赤いアネモネが床に落ちて踏み潰された。
亜門の母親は奈子を床に押し倒して、奈子の顔にそのタバコを押し付けようとした。けれどその行動を止めてくれたのは、やっぱり奈子の王子様だった。
『奈子にそれしたら、オレ母さんのこと嫌いになるよ!』
奈子のことを庇って、亜門は母親の手を叩いた。
その反動でタバコが飛んで母親の足に落ちて、その白い肌がわずかに赤くなる。
たった、それだけ。恐らく火傷にすらならない。
けれども亜門のその行動は壊れた母親にとって引き金でしかなくて。
『亜門まで……母さんを嫌いになるの?』
そんなの、亜門が咄嗟に口にした絶対にありえない例え話で。
亜門がずっと、黙ってこの酷い仕打ちに耐えていたのも、母親への愛情ゆえだと。考えずとも分かったはずなのに。
『亜門まで、亜門まで母さんを見捨てるのね……っ、母さんを醜くして!! アンタもあの女みたいにキレイな母親がいいんでしょ!?』
亜門の母親を壊した、根底にいるのが奈子の母親だったこと。
奈子の母親が、亜門の父親とずっと不倫をしていたこと。
あの日一気に与えられた情報は、亜門だけではなく奈子の心も少なからず壊していた。
『誰も……母さんを、見てくれないなら……もう生きている意味ないじゃない』
瞳孔の開いた瞳が、今でも脳裏に焼き付いている。
その日、亜門の母親は奈子と亜門の目の前で腹を一突きし、自殺した。
その事件すら、大きく報道されることなく済ませられるほど、亜門の父親の力は強かった。
けれどそんなことよりも……人を一人殺しておいて尚、奈子の母親と亜門の父親が、その関係を終わらせなかったことが、さらに奈子たちの世界を黒く染めた。
日中に会いづらくなった代わりに、2人は夜に会うようになって。
そうして昼に暇を弄んだ母親は、亜門の父親ではない男に会いに行って。それがまた亜門の父親の心を煽って、歪な関係は終わることを知らずに加速した。
母親の死を悼むこともない父親に、亜門が何を思ったのか。
それは奈子にすら、ちゃんと理解してあげることはできない。
その顔に残る火傷の痕を見て、亜門が何を思うのかも。
愛した母親に恨言を吐かれて別離した現実を、どう受け止めているのかも。
奈子は、分かってあげられないまま。
約半年の間、奈子は亜門と会わなかった。
奈子から会いに行くこともできず、亜門もまた奈子に会いにくることはなかった。
そうして半年という虚無の日々を終えて、亜門が再び奈子の前に現れた。あの日もいつも通り、母親は別の男に会いに行っていた。
『ひ……久しぶり、だね』
亜門を部屋に招いて、奈子はヘタクソな挨拶を口にする。
本当は聞きたいことも言いたいこともたくさんあった。
第一声は『ごめんね』にすると、ずっと決めていたのに、それすら守ることができずに。
それでも亜門は優しく笑いかけてくれるだろう、と。
奈子の目の前にいるのは、もう昔の亜門ではないのだと、奈子は知らなかった。
『昨日、クラスの女子とセックスした』
突拍子もない亜門の発言には、恐ろしいほどに感情がこもっていなかった。
自分の母親と亜門の父親の関係を知ったときに、嫌でも知ることとなったその行為の名称を、他でもない亜門が口にした。
『……何、言ってるの?』
信じたく、なかった。
聞き間違いだろう、と奈子は自分に言い聞かせた。
けれどそんな生温い考えを壊すように、現実を突きつけるみたいに、亜門は奈子をベッドに押し倒した。
奈子に覆い被さる亜門の顔に、戸惑いも悲しみも映し出されてはいなくて、まるで感情のない人形がそこにいるようだった。
『すげえ気持ちよくてさ。父さんが奈子のお母さんとずーっとセックスしてた理由分かったよ』
声は笑っているのに、寒気すら感じるほどに冷たい。
『分かったけどさ……じゃあセックスする相手は俺の母さんでよかったじゃん』
そうやって、亜門はこの半年間ずっと、父親の裏切りの理由を考えていたのだと。
『奈子のお母さんがめちゃくちゃ美人だからかとも思ったけどさ…別に顔なんて見なくてもセックスできたよ。気持ちよかった』
奈子の知らない半年間、ずっと亜門は悩んで苦しんで、そして壊れたのだと。
『亜門、くん』
『でもさ、だから……もしかしたら奈子のお母さんは俺のお母さんよりお父さんのこと気持ちよくできたのかなって』
掴まれた手首が痛いのに、声すら出てこない。
『1人じゃ比較できないからさ』
これから何をされるのか、分かっているのに。
奈子は逃げることすらできなくて。
『教えてよ、奈子』
初めての記憶は、痛すぎて何一つ思い出せない。
啜り泣く自分の声と、狂ったように笑う亜門の声だけが頭にこびりついている。
『そっか……そうだったんだ』
奈子を無理矢理抱いた後も、亜門は笑っていた。
壊れたように、ずっと。
『母さんより奈子の母さんのが気持ちよかったんだ。だから……だから父さんは捨てちゃったんだ』
亜門の中に残っていた微かな感情を、最後の最後に壊したのが、奈子だった。
それから毎日、亜門は奈子を抱いた。
もう壊れようもない粉々の感情を、さらに壊そうともがいて。
『奈子、オレが一番だよな? オレだけだよな?』
奈子のことを亜門という檻の中に閉じ込めて、亜門は奈子を支配した。
まるで、道連れにするように、奈子のことも壊すように。
それでいて、縋るように。
『比較もしてねぇくせに一番とか言うなよ!!』
奈子の心が少しでも亜門から離れたと感じれば、亜門は容赦なく、奈子を自分の目の前で他の男に抱かせた。奈子を他の男の手で傷つけた後に誰よりも優しく抱いて、亜門を一番だと刷り込ませた。
自分の存在証明のためだけに。
奈子に自分の存在を植え付けるためだけに。
それが、亜門にとって最大の奈子への愛情表現であり、母親への最大の償いだったのかもしれない。
あるいは、仮初の幸せな日々を壊すことが、亜門なりの復讐だったのかもしれない、と。
いろんなことを考えて、奈子はその現状を受け入れた。
そうしてその一連の流れが、一時的な亜門の心の安寧に変わって。
それからが、本当の地獄の始まり。
優位に立ってる男たちに奈子を抱かせて、そうしてその目の前で亜門が抱いて、奈子に亜門が一番と告げさせる。
その繰り返し。
他の男に抱かれて傷つく奈子も、男を騙している事実に傷つく奈子も、すべてが亜門を悦ばせた。奈子に騙されて傷つく男たちの悲痛な顔は、亜門にとって補助的な快楽に過ぎない。
亜門が望むのは、ただひたすら奈子が汚れて、傷ついて、壊れること。そしてその望みを叶えることだけが、亜門を壊してしまったことへの償いだと信じて、奈子は亜門に逆らわなかった。
そうしたらいつか、亜門も気づいてくれると信じて。
『身体がすべてじゃないよ』
そう、いつか絶対に伝えようと。
伝えるための結果を求めて。
でも、否定するどころか、それはますます確信になっていった。
『みーんな……オマエの身体の虜じゃん』
自分の言葉一つで、転がってしまう男たちがみんな嫌いだった。キスもセックスも、奈子が迫れば誰も拒まなかった。
亜門の考えを、誰も否定することができない。
ああ、世の中はそうなんだって。
そういうふうにできてるんだって。
男たちに愛を囁く一方で彼らのことを嫌いになって、彼らを嫌いになればなるほど罪悪感も失せて簡単に裏切ることができた。
同時に,心の底から亜門を一番にすることができたから。
もうこれでいいんだと。
たとえ奈子の世界が色づくことはなくとも。
乱れのない灰色の世界で充分だと。
求める世界なんて、ないのだと、諦めていたのに。
『そーいうのに慣れんなって、言ってんだろ!』
奈子の誘いに全く乗らないくせに。
自分で自分を疎かにする奈子のことを本気で怒って。
言われても当然の悪口から奈子を庇って。
『好きだよ』、なんて。
言えるわけなかった。
言ったら本当になることなんて、最初から分かっていたから。
裏切ること前提で始めた関係に、未来を見ちゃいけないのに。
『また食いに来いよ』
約束をくれることが嬉しいなんて、奈子は知りたくなかった。
最後まで、三ツ谷にだけは言うつもりのなかった愛の言葉を。
別れの言葉に乗じて口にしたのは……誰にもあげたことのない奈子の唯一の『本当』を三ツ谷にあげたかったからだ。
この気持ちを信じてもらえるとは思わない。
真実の愛だなんて、そんな言葉を吐くつもりもない。
ただ、それでも。
この恋がたとえ運命にならなくとも。
奈子が三ツ谷に抱いた気持ちは本物だった。
「亜門くん、……ごめんね」
冷たい廃屋の中、透明な奈子の声が響く。
亜門にあげ続けた仮初の『一番』は、もう存在しない。『永遠に変わることのない一番』を、奈子はあの夜、三ツ谷にあげてしまったから。
誰にどんなにぐちゃぐちゃに抱かれても、あの幸せな夜を霞ませることはできない。
目を閉じれば、愛しい人の顔が浮かぶ。
誰に抱かれても、その人を思えば……心を保っていられるから。
「ごめん、じゃ…ねぇーだろ」
亜門の顔が怒りで歪んでいる。
言葉を撤回させるように激しい腰の動きが、奈子の思考を鈍らせるけれど。
もう、覆せない。
「オレが一番だろ? 一番って言えよ、ほら!」
「……っ…ぁ…は」
「言えって!!! ほら…っ、早く……言えよっ!! 奈子!!」
身体が軋む音がする。
うまく息ができなくて、頭が真っ白になっていく。
それでも奈子は、気休めの言葉を吐こうとはしない。
ただ静かに、自らの首を締める手を、奈子は抵抗することなく受け入れた。
「わ、たしの……一番は――」
何度突き放しても、こうして助けてくれる。
「……三ツ谷ッ」
亜門の動揺した声とともに、首にかかっていた力が抜けていく。
「……三ツ谷、くん」
東卍の特攻服を着た三ツ谷が、汚れた奈子の身体を抱き起こす。
途端、廃屋の周囲から鳴り響くバイクのエンジン音。
続々と廃屋の中に、三ツ谷と同じ黒の戦装束を着た人たちが入ってくる。
「……テメェ、三ツ谷……こっちは東卍に手ださねぇって言っただろうが」
「それはそっちの勝手だろ。オレたちはオレたちの勝手で動く」
奈子のことを抱きしめる腕が、微かに震えている。
その震えを抑えるみたいに、ギュッと奈子のことを抱きしめて。
それがまるで、もう離さないって言ってくれてるみたいで。
望んではいけない幻想を抱いてしまうから、奈子は三ツ谷の腕の中でもがいた。
「三ツ谷くん……だめ、だよ。……こんなの、意味ない、から。だから……」
だから……『私から、離れて』と。
言いたい言葉が、喉奥に詰まって、音にならない。
こんなときに限って、心の奥底で殺した自分が顔を出して、嘘の奈子を黙らせた。
「意味なかったかどうかは、後で決めろ」
壊れてしまった後では、取り返しがつかない。
それを奈子は誰よりも知っているから。
もしも三ツ谷に、三ツ谷の大切な家族に、何かあったら……そう考えるだけで苦しい。
だからこの腕を、今すぐ振り払わなければいけないのに。
「もう……1人でカッコつけんなよ、奈子」
カッコつけれたら、よかった。
こんなにボロボロな汚い身体を、三ツ谷に二度と見せたくはなかったのに。
この身体ごと全部、奈子の穢れを包み隠すように。
三ツ谷が自分の特攻服を脱いで、奈子に羽織らせた。
東卍の弐番隊隊長を刻んだ、唯一無二の上衣を。
「オレの女を返してもらう」
「…っ、奈子!! 何してんだ…さっさとこっちに来い!! オマエは、三ツ谷を裏切ったんだろうが!!」
目の前で亜門が叫んでる。
何度も何度も、奈子は三ツ谷を裏切って、傷つけて。
もう二度と、この胸に、縋るわけにはいかないのに。
「決めろ、奈子。……オレに無理やり助けられるか、望んで助けられるか」
三ツ谷の香りが、奈子の心を溶かしていく。
奈子の身体中に張り巡らされた荊の縄を全部解いて。
「……たす、けて」
ずっと求めていた、助けの手を……奈子は掴んだ。
「助けて、三ツ谷くん」
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