ヘタクソな嘘
奈子の日常は何一つ変わらない。
ただ一つ変わったことがあるとすれば、それはただ……三ツ谷が隣にいないという、たったそれだけ。
「奈子ちゃんはぁー、オレのどこ好きになっちゃったの?」
唇にピアスをつけた金髪の男が、奈子のことを壁に追いやって逃げられないように手をついた。
亜門が三ツ谷の次に選んだターゲットは、原点回帰して自分たちの縄張りにいる目障りなチームの総長だった。目立ったチームが存在しない原宿には、亜臥猛臥を含めて小さなチームがいくつか散在している。そのうちの1つに目をつけて、亜門は奈子の次の相手に選んだ。
「ひとめぼれ、なの」
夜の路地裏に2人きり。おそらく邪魔は入らない。
こういう場所では、何が起きても見て見ぬフリが常だと、奈子は知っている。
「怖いチームの総長って聞いてたのに……すごくかっこよくて」
男が喜びそうな顔を思い描いて、貼り付ける。少し照れ臭そうに上目で見上げれば、容易く男の鼻の下が伸びた。
「それで……その、好きに……なっちゃって」
そんなことで好きになるわけがない。
バカでも分かることを、奈子はその表情で分からなくする。その気持ちが真実なのだと伝えるように、男の腕にわざとらしく遠慮がちに触れて、すがるような仕草をしてみせた。
「……っ、オレの彼女になっちゃったら、こーいうこと毎日しちゃうけどいいんだ?」
男の手が奈子のセーラー服のスカーフを解く。
その上から雑に胸を触られて、甘えた声を出せば男はすぐに奈子の手のひらで転がった。
「エッロ……奈子ちゃんマジでかわいいのにちょーエロいじゃん……やべぇ……ハマっちゃいそう」
首筋を舐めて、男が奈子のセーラー服の中に手を突っ込んでくる。
一連の動作に何の感情も生まれはしないのに、奈子の身体は都合良くその手つきに反応した。
「…ぁ…んんっ…」
「あぁー……すげぇ……エロい声」
今まで通り、男が本気になるまで抱かれ続けるだけ。身体を重ねれば、心は後からついてくる。そのための小細工として愛の言葉を毎日付け加えるだけのこと。
そうして男が奈子に本気になったタイミングで、亜門に捕まったフリをすればいい。この男の前で亜門に抱かれ、チームを壊すか、この男を亜臥猛臥に吸収すれば奈子の役目は終わる。そうしてまた亜門が別のチームに目をつければ、そこからがまた奈子の出番。
ずっとずっと、その繰り返し。
「は……ぁ……」
首筋に触れる生暖かい感触も、肌に触れる冷たい指の感覚も、全部気持ち悪いのに、奈子の身体はそれを快楽と覚えていた。
ただひたすら、終わるのを待つだけの行為。
けれども今は……。
『奈子』
目を閉じて、その人との交わりの記憶を思い返して過ごす。
苦しい現実も、もう戻らない何よりも幸せだった時間を思えば、なんてことはない。
あの日々がもう戻らないことに比べれば、何も痛くはない。
「……ん…っぁ」
鳴る声は、決して男に向けたものではない。けれどそれを知るはずもない男は、その声にただただ機嫌を良くして。
「あぁー……なぁ…もう我慢できねぇから挿れるわ」
奈子のことを気遣うこともしない。
男の自分本位な行為を、それでも奈子は「嬉しい」と笑って受け入れる。
男がベルトに手をかけて、ソレを取り出すのを奈子はジッと見つめていた。
スカートのポケットの中には、ちゃんと避妊具が入ってる。
冗談めかして『護身用』なんて言ったそれは、持っていたところで今まで使われたことがなかったもの。
『抱いてっつったって……ゴムとか持ってねぇよ』
奈子から強請ったのに、何よりも先にその心配をしたのは彼が初めてで。
そんな彼のことを、奈子はもっともっと好きになってしまった。
でもそんな気持ちももう、伝えることはできない。
偽りの幸せを、奈子は自ら手放したのだ。
「……好きだよ」
手を伸ばして、男の頬に触れる。
何の感情も抱かぬまま男をその気にさせるためだけの愛の言葉を口にして男の唇に自分の唇を寄せた。
「……っ!」
けれど、その唇が絡み合うことはない。
男に伸ばしたはずの腕を引かれて、奈子は身体のバランスを崩す。
そのまま横に倒れ込むようにして、何度も思い描いた香りに包まれた。
「……やっと、見つけたと思ったら……何やってんだ、バカ」
息切れして途切れる言葉。
ずっと頭の中だけで流れ続けてる声が、ちゃんと耳から聞こえてくる。
それが、本物なのか。
知るのが怖くて、奈子はその胸に顔を埋めたまま上げることができない。
「……ちょっと来い」
ほんの少しの苛立ちを含んだ声が、降ってくる。
顔を上げることのできない奈子を、わずかに胸から離して、その人が奈子の腕を引く。
何度も思い返した、温かい手が、奈子の手を握っている。
「……オイ、ふざけてんじゃねぇぞ」
けれど、寸前まで奈子の目の前にいた男がそれを許さない。
「てめぇ誰だよ。良いところで邪魔しやがって! その女はオレの――」
「オレのだ、ボケ」
殴りかかってくる男から庇うように、奈子を自らの背に回して。
その人は、男の拳を綺麗に受け止めて、返すように男の顔を殴り飛ばした。
「……人の女に、手出すんじゃねーよ」
静かな声が息を整えながら、捨て台詞を吐く。
そうして再び奈子の手を引いて、この路地裏を足早に通り過ぎていく。
足が絡まって転びそうになる度、気遣うようにペースが落ちる。けれども彼の足は止まらない。何かから逃げるように、彼はひたすら奈子のことを振り返らないまま進んでいく。
別に転けたってかまわない。
気遣わなくたっていい。
だからどうか永遠に止まらずに、このままどこまでも逃げてほしいと。
拙い願いが奈子の頭を埋め尽くす。
でも……。
「……待って、三ツ谷くん」
その甘い理想を止めるのも、奈子自身だった。
無理やり立ち止まって、奈子は三ツ谷の手を引く。
先ほどまでいた路地裏とは少し違った趣の、廃屋が立ち並ぶ静かな場所で、奈子は三ツ谷の足を止めた。
「私……もう君の女じゃないよ」
2週間ぶりに会って、奈子が最初に告げる言葉に夢はない。
言いたいことは数えきれないほどたくさんあるけれど、そのどれもが、伝えたいことではなく自分に都合のいい『言い訳』なのだと言い聞かせて。
告げなきゃいけない言葉だけを、奈子は選び抜く。
振り返った三ツ谷の瞳と視線が交差すれば。
見つめられただけで、息の仕方も忘れてしまう。
「オレは……別れた覚えねーよ」
三ツ谷はこんなにも欲しい言葉をくれるのに、奈子はその言葉に何一つ本音を返せない。
「……そもそも、全部嘘なんだって」
全部、嘘。
その中に、本音が織り混ざっていたとしても、そんなことを三ツ谷は知らなくていいのだと、自分の感情を殺す。
無表情で冷たく言えば、さすがの三ツ谷でも奈子が最低な人間だと分かってくれるはずだと。
そうであることを願うのに、三ツ谷の瞳は優しいまま。
「じゃあ……その全部言ってみ? 何が、嘘?」
言い訳を許すみたいに、問いかけてくる。
三ツ谷のことを一番最低な方法で傷つけたのに。
そんな自分を絶対に許さないでほしいのに。
許してほしい、と。
心の奥底で泣き叫ぶ声は、不相応な願いを口にする。
それが、嫌で。苦しくて。
何度殺しても死んでくれない感情を、奈子はもう一度自分で刺し殺す。
「全部、だよ」
声が震えないように、息を堪えたら、掠れた声が空気を揺らした。
「全部、亜門くんの……言う通りなの」
そこにどんな事情があったとしても、過ぎた事実はすべて、亜門の言葉のままだった。
自分を守るための言葉で罪を濁しても、奈子が誰かの心を傷つけた事実は変わらない。
何を告げたところで、結局奈子は、三ツ谷を傷つけることしかできないのだ。
「三ツ谷くんに助けてもらったのも偶然なんかじゃないの。三ツ谷くんが昼休みに屋上にいるの知ってたから。だから、知ってる男子を誘って屋上に行って……襲われたフリをしたの」
わざわざ改めて言わなくても、全部亜門が伝えた通り。
だから三ツ谷は奈子の罪をもう全部知っている。
それでも奈子は、あえて自分の口で、自分が吐き続けた嘘を一から全部三ツ谷にぶつけていた。
「あの人たちとシたことがあるって三ツ谷くんにバレそうになったのは痛い誤算だったけど、でもおかげでかわいそうな私を演じることができたって……三ツ谷くんが私を心配してる目の前で、私は結果オーライなんて喜んでたの。震えてたのも嘘。わざと震えてるフリしただけなの」
全部、本当。
あの時の奈子は、どうやって三ツ谷を堕とすか、それだけしか考えていなかった。
「君が、全然誘いに乗ってくれないから焦ったよ。さっさとヤッてくれたらよかったのに、ご丁寧に制服なんか繕って」
最初から、三ツ谷は全然奈子の思い通りにならなかった。
全部が誤算だった。
「キスしたらその気になるかなって思ったのにフラれるし、本当にめんどくさかった」
三ツ谷と初めて交わしたキスが、本当は衝動的なものだったなんて。
汚れきった奈子のことを「綺麗だ」と言ってくれたことが嬉しくて。
咄嗟にとった行動を、取り繕うための支離滅裂な告白だったなんて。
ちゃんとしたシナリオが用意してあったのに、奈子の感情ごと全部、三ツ谷のせいで何一つ描いた通りにならなかったなんて。
三ツ谷は、知らなくていい。
「東マンの集会も亜門君に言われて、三ツ谷くんの跡つけて偵察してたの。一緒にいたかったから待ってたなんて嘘だよ。総長に会いたいって言ったのも、会わせてもらったら乗り換えるつもりだったの」
事実と真実がどんどん噛み合わなくなっていく。
嘘の中に紛れた本当を、今さら三ツ谷に伝えることなどできない。全部嘘にして感情ごと掻き消すことしか、今の奈子には許されない。
「あのとき家に帰りたくないって言ったのも、全部、三ツ谷くんを堕とすための嘘だよ」
息継ぎをしたら、きっと何も言えなくなる。
たぶんまともな声を出せるのは、これが最後。
だから奈子は、畳み掛けるように、救いようのない事実を三ツ谷の前に並べた。
「三ツ谷くんへの気持ちは……全部、嘘なの」
今この瞬間が一番の嘘だって、うるさく喚いてる自分を心の中で何回も刺し殺す。
何度も何度も殺して、心の隅に追いやって。
なのに、出しゃばりな本音に手を伸ばすように、三ツ谷が手を差し伸べてくれる。
「じゃあなんで……亜臥猛臥がオレらを襲うこと、オレに教えたんだ?」
もう何も聞かないでほしい。
一度途切れてしまった声は、もうまともな音を鳴らすことができないから。
「だから、それは……っ」
亜門に抱かれながら答えたことがすべてだと。
亜門のそばにいたいから。
三ツ谷のそばにいたくないから。
三ツ谷から離れるために、自分が亜臥猛臥の人間だと伝えるために。
並べたてた奈子の答えを聞いても、三ツ谷は首を横に振って聞き入れてはくれない。
「もし槇道のところに戻りたくて、オレに嫌われたかったなら……あのときオレの告白を断ればよかったじゃん」
他に好きな人がいると告げれば、三ツ谷はきっと奈子の気持ちを尊重する。今までの奈子の嘘を受け入れて離れてくれる。三ツ谷はそういう男だと、奈子が一番分かっていた。
「逆にオレの告白を受け入れたなら……襲撃のことなんか言わずに、そのまま何も知らないフリして東卍を潰してオレの前から消えればよかっただろ」
いつも通り、今まで通りに。
何も言わずに東卍を潰して、その上で三ツ谷の心も壊せばよかった。
亜門が望んでいたのは、きっとそういう結末だった。
「オレたちに有利な情報を、わざわざ流さなくても。オレを傷つけることも、東卍を潰すことも、奈子は簡単にできただろ」
それでも、奈子が三ツ谷を傷つけた事実は変わらないのに。
目の前であんな酷い裏切り方をしたのに。
「奈子の嘘には無理がありすぎんだよ」
どうしてまた、その胸の中に閉じ込めてくれるんだろうって。
三ツ谷の腕に抱き締められることがこんなにも嬉しくて。
求めてはいけない熱を、奈子はまた探してしまう。
「オレが告白した時に流した涙も嘘か?」
「……嘘、だよ」
「じゃあ……オレが作った飯が一番美味しかったって、あれも嘘?」
声が、震える。
嘘だよ、って答えなきゃいけないのに。
声を出そうとしたら、涙が先に溢れてしまう。
本音は絶対に伝えてはいけないのに、三ツ谷の胸に奈子の涙が滲んで答えることができない。
そんな奈子を、三ツ谷はいつもみたいに呆れまじりの声で笑って。
偽りだらけの奈子をあやすように、背中を優しく摩ってくれた。
「……奈子はさ。今まで利用した男たちに毎日『好きだ』って言ってたんだろ」
さっきもそう。出会って間もない男に、簡単に『好きだ』と言って、まるで言い聞かせるみたいに毎日毎日その言葉を繰り返した。
「でもさ……実はオレには全然言ってくれてねぇの、気づいてる?」
分かっていた。
意図的に、三ツ谷にだけは最初からその言葉を伝えなかった。
言ってしまえば、本当になってしまう気がしたから。
「『付き合って』とか『好きになって』っていう割に、奈子はオレに『好きだ』って言ったの……実は一回だけなんだよ」
別れの言葉を綴るように告げた、電話越しの気持ち。
あれが、奈子が三ツ谷に告げた最初で最後の『好き』だった。
「やっと言ってくれたのに、それも嘘?」
優しすぎる声が、奈子に答えを求める。
どんなに嘘を並べても、隠すことのできない本当の答えを。
三ツ谷は分かってて、尋ねてくる。
胸に埋めた奈子の身体を少しだけ離して、三ツ谷が奈子の顔を覗き込んだ。
「……やめて」
目を合わせたくなくて、顔を背けようとすれば、三ツ谷が逃げられないように奈子の両頬を抑えた。
「なあ、奈子」
心のどこかでずっと、気づいてほしいと願ってた。
信じて待ってる、なんて。
そんな花言葉を、何も知らない三ツ谷に渡そうとするくらい。
本当は、ずっと願ってる。
「好きな男にも言えないことがあるか?」
二度目。
三ツ谷が奈子にまた、チャンスをくれている。
この地獄から助けてほしい、と願う機会をくれている。
でも三ツ谷のことを思えば思うほど、地獄の底に見捨ててほしいと思ってしまう。
奈子の過去に埋め尽くされた真実が、誰も救わないのなら。
この惨状から、誰も奈子を救い出せないと分かっているなら。
三ツ谷だけは、巻き込みたくないと。
相反する気持ちだけが渦を巻いて、消えていく。
「亜門くんは……私が傷つけば、それでいいの」
唯一伝えられる言葉を、奈子は選び抜く。
亜門がチームを潰して回っているのは、目障りだからという理由がすべてではない。優位に立っている人間を突き落としたいという感情も少しはあるのだろう。
でも、それらすべての根底に……奈子を傷つけるという、その気持ちが巣食っている。
容易に、躊躇なく、奈子を傷つけることができる人間を選んだ時に、それが世間を騒がせる『不良』という存在だったというだけの話だ。
「別に、東卍や三ツ谷くんを本気でどうにかしたいわけじゃないの」
本当に『不良』を潰したいなら、わざわざ奈子を使わなくとも、亜門は喧嘩の腕だけで他のチームを潰すことができる。その実力がある。
それでも頑なに奈子を使うのは、その目的が奈子を傷つけることにあるからだ。
「だから……」
助けてほしいと、もしも縋るなら……それはきっと奈子が初めて心を開く人なのだと、ずっとそう思ってる。
でもその一方で、それほど信頼する好きな人を守るために、どうするべきかも、奈子は知っていた。
「私に、近づかないで」
奈子のそばにいることが、三ツ谷を傷つける結果になるなら。
「私を……放っておいて」
奈子が選ぶ答えは、たった一つだった。
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