不恰好な刺繍

 次の日の夜。
 急遽開かれた東マンの集会で、今回の一件が議題にあがった。
 エマ経由で、襲撃予告が総長と副総長に伝わり、各隊の隊長にまで伝わったため、予告通りの襲撃に誰一人重傷を負うことなくやり過ごすことができた。各隊がそれぞれ返り討ちに成功し、白星をあげた。

 しかし今回の場合、問題になるのは勝った負けたの話ではない。

「今回の事件に関わってるのは亜臥猛臥だとオレは思ってる。でも確証がねえ」

 佐野は神妙な面持ちで、みんなの前で言葉を紡ぐ。
 今回のやり方は、これまでの亜臥猛臥なやり方とは違った。精神的に追い詰めていくやり方を好む亜臥猛臥が、突如襲撃という手を取ったのはあまりにも趣向が変わりすぎている。
 けれど現状で、何の前触れもなく、東卍を襲ってくるとしたらそのチームしか考えられない。
 襲撃してきた男たちは、いずれも特攻服を着ておらず、意図的に自分たちの所属を隠していた。
 今回の襲撃に亜臥猛臥が関与していると言い切るには、あまりにも情報が不足していた。

 結果として、亜臥猛臥を今すぐに潰そうという意見と、様子を見ようという意見が真っ向から対立して。
 今回の一件も含めて、亜臥猛臥については『保留』という形で、今日の集会は終わった。

「三ツ谷」

 集会が終わりを告げるとともに、佐野が三ツ谷のことを呼び止める。その傍らには竜宮寺と場地、そして林田といった創設メンバーが揃っていた。

「今回の件は間違いなくオマエの手柄だ」

 佐野の声が夜風に沈む。
 それは間違いなく褒め言葉ではあったが、その中に含まれている感情には疑念が多く含まれていた。

「けど、どうしてオマエが襲撃の件を知ってた?」

 当然の疑問。
 おそらくこの場の誰しもが抱いている疑問であるからこそ、誰も佐野の質問を遮らない。
 当然の問いかけに、三ツ谷も驚くことはしない。

「聞いたんだよ」
「誰から?」

 続いた佐野からの問いに、三ツ谷はほんの少し喉を詰まらせる。
 三ツ谷が答えずにいると、竜宮寺が静かに声を重ねた。

「エマから聞いたけど。……お前、エマに伝言頼む寸前まで女探してたんだろ?」

 都合の悪い問いかけに、三ツ谷は答えを迷ってしまう。返事をしなければ、それが答えになってしまうことは分かっていたのに。

「もしかして、お前の知り合いの女が亜臥猛臥に捕まったんじゃねぇのか?」
「は? マジかよ! だったら今すぐぶっ潰しにいくしかねぇだろ!」
「なんで黙ってんだァ、三ツ谷!」

 龍宮寺の憶測に、場地と林田が声をそろえる。
 みんなが三ツ谷のことを心配してくれているのに、三ツ谷は何一つ本当のことを口にできない。

「……誰も捕まってねぇよ。今回の襲撃の件は又聞きしたんだ。知り合いの知り合いが不良で、そんな情報が流れてるらしいって噂が回ったんだってさ」

 無理のある言い訳を口にした自覚はある。
 けれどこうでもしてはぐらかさなければ、東卍と亜臥猛臥の抗争は避けられない。

 亜臥猛臥は、もう東卍を狙わないと言った。ここでこちらが動けば、間違いなく奈子が出てくる。
 もしも三ツ谷が奈子を救いたいと思うなら、あえてこの抗争を通じて亜臥猛臥から抜けさせるべきなんだろう。

 けれど……。


『亜門くんが、一番だよ』


 思い出したくないのに、何度も頭を流れる。
 奈子は望んで亜門のそばにいるのだと。
 その現実を、三ツ谷は嫌になるほど見せつけられたのだ。

 あの姿を見て、奈子が亜門の元から助け出されることを望んでいるとは、思えなかった。
 ならばいっそ、2人に触れないように亜臥猛臥と一切の関わりを断つのが正解なのだと。

「亜臥猛臥がヤったって確証はねえんだ。だから……下手に手は出さねえほうがいいと思う」

 そうしたら亜臥猛臥というチームが東卍に関わることは、もう二度とないから。



 ◇



 集会が終わって、みんなが境内からいなくなっても、三ツ谷はすぐには帰らなかった。
 階段に腰掛けて……ただひたすら星の降らない夜空を、ジッと見上げる。その心に宿した感情は、今でもたった一人に向けていた。



『三ツ谷くん、こんばんは』



 来るはずがないと分かっている。
 あの日奈子がこの場所にいたのは、ただの通りすがりの偶然でも、三ツ谷を待っていたからでもない。
 東卍の情報を得て、ここにいることが見つかっても不自然じゃないようにあえて取り繕ったのだと、今なら分かる。



『……早く、私のこと好きになってよ』



 その言葉の奥に隠していた本当の感情も、今なら分かる。
 さっさと奈子を好きになって、奈子にとって都合のいい男になることを、彼女はずっと望んでいたのだ。

「何が恋に理屈はいらない、だよ。……理屈だらけじゃねえか」

 きっと、奈子はこれを『恋』とも呼ばないのだろう。
 嘘と裏切りだけを残したこの関係は、どう足掻いても『真実』には変わらない。

 それでも悔しいくらいに。

 三ツ谷にとって、奈子への気持ちは間違いなく『恋』だった。

「……奈子」

 名前を呼んだところで、彼女に届きはしない。
 どんなに呼んでも、彼女はもう、無邪気な笑顔は向けてくれない。

 分かっているのに、三ツ谷は後ろで鳴り響いた砂利の音に、期待を込めた。

「タカちゃん」

 聞こえた声に、高鳴った胸の鼓動が一気に鎮まっていく。
 振り返れば、柴八戒が心配そうな顔で三ツ谷を見つめていた。

「どうした? 忘れ物か?」

 それらしい言葉をかけて、三ツ谷は柴に笑いかける。
 三ツ谷の笑顔を見て、柴は一層苦しげに顔を歪めた。彼がそんなにも表情を崩してしまう理由を、三ツ谷は分かっている。だから無理矢理に取り繕った笑顔を、三ツ谷も崩すことで答えた。

「……ありがとな。黙っててくれて」

 三ツ谷は、昨夜自分が亜臥猛臥のアジトにいたことを、誰にも告げなかった。誰も知らない事実を、隠すのは容易い。

 けれどたった一人、柴だけはその事実を目の当たりにしていた。
 襲撃されると分かっていながら、あえて一人になった三ツ谷を、柴はちゃんも見つけて、そして敵のアジトまで助けにきてくれた。

 それなのに柴は、そのことを告げない三ツ谷を責めることもせずに、みんなにそれを伝えることもしなかった。

「なんで……アジトにいたこと、みんなに伝えねぇの?」

 その疑問に、悪意はこもっていない。
 三ツ谷の気持ちを尊重するために、柴がその問いを投げかけていることも、痛いほどに理解できている。

「アイツらは……亜臥猛臥だろ、タカちゃん」

 三ツ谷を押さえつけていた男たちも、特攻服は着ていなかった。
 そもそも総長である亜門も、特攻服など身につけていなかった。おそらく亜臥猛臥には象徴たる衣装がない。
 だから、彼らは簡単に姿を眩ませることができる。

「……さぁな」
「あの子が……亜臥猛臥に捕まってるんじゃねぇのか?」

 柴が口にする『あの子』が、三ツ谷の心を揺らす。
 柴が三ツ谷を助けに来たとき、そこにはもう奈子はいなかった。
 そのうえで、柴が誰のことを指してそう告げているのか、三ツ谷は首を傾げる。

「最近いつも一緒に帰ってただろ。……女っ気のないタカちゃんが1ヶ月近く同じ女と一緒にいたら、弱味握ろうって思ってるヤツならすぐに狙うよ」

 覚えられてしまうほどに、三ツ谷と奈子は、この曖昧な時間をずっと一緒に過ごしていた。
 それが、『他の好きな男』と一緒にいたい奈子にとって、苦痛になっているとも知らずに。

「……捕まってねぇよ」
「じゃあなんで、タカちゃんがアイツらのアジトにいたんだよ」

 三ツ谷はたしかに東卍の幹部だ。
 けれどもしアジトに連れて行くのなら、今までの例でいけば佐野か、あるいは竜宮寺が妥当なはず。
 あえて三ツ谷が選ばれる理由を、消去していけばそれしか残らない。

「なあ……助けなくていいのかよ」

 助けを望んでくれるなら、今すぐにでも助けに行く。
 でもそれを、奈子は望まない。助けたいという気持ちは、三ツ谷の独りよがりでしかないのだと。
 奈子にとっては、三ツ谷のほうが邪魔者だったのだと。
 三ツ谷は痛いくらいに思い知ってる。
 それでもせめて、ちゃんと幸せにしてくれる相手を選べよ、と何度心に願っても、それすら届くことはない。

「悪ィな、八戒」

 柴が三ツ谷のことを心配してくれていることは、痛いほど分かっている。
 でも、三ツ谷の心が……現実に追い付かなかった。

「オレも、どうしたらいいのか分からねぇんだわ」

 感情を殺した三ツ谷は、奈子と同じように綺麗に笑っていた。


 ◇


 それから、あっという間に2週間という日々が過ぎ去った。
 ずっと先だと思っていたクリスマスの日は、もう片手で数えればたどり着くほどに近づいていた。

「お兄ちゃん、クリスマスはお家にいるのー?」

 マナの髪の毛を結びながら、三ツ谷は去年もぶつけられた問いかけに苦笑する。

「どうだろうな。ドラケンたちと集まるかも。……何かしたいことあんだったら、おまえら優先すっけど」

 三ツ谷が笑いかけると、「だめだよ、お兄ちゃん!」と別方向から注意を受ける。振り返ると、ルナが両腕を腰に当てて文句言いたげに鼻を鳴らしていた。

「どうした、ルナ」
「お兄ちゃんは奈子お姉ちゃんとデート行かなきゃだめ!」

 悪意のない妹たちの感情が、三ツ谷の心を無邪気に刺した。
 あれから奈子は一度も三ツ谷の家には来ていない。奈子に懐いてしまった妹たちに、不快な思いをさせないように、三ツ谷は奈子とのことを言わないままにしていた。

「行かねぇよ。オレらそういうのじゃねぇから」
「そう思ってるのはお兄ちゃんだけだもん!!」
「……そうでもねぇよ」

 心の底から溢れた声は冷たく響いてしまう。わずかに軋んだ部屋の空気を入れ替えるべく、三ツ谷は慌てて話題を変えていた。

「それより、クリスマスの夕飯は何かリクエストある?」

 ルナとマナが喜ぶ話題を口にする。クリスマスに2人の大好物の唐揚げを用意することを約束すれば、ルナもマナも万歳で喜んで、彼女の話はすっかり忘れてくれた。
 マナの髪を結び終えて、三ツ谷は洗濯物を取り入れて畳み始める。そうしたらルナとマナがそれを手伝って、畳み終えた自分たちの洋服を片付け始めた。

「っし、これはあっちの棚で……」

 残りの洗濯物を三ツ谷は片付ける。
 母親の服を片付けて、自分の服も綺麗に仕舞って。そうしてルナとマナのハンカチをハンカチケースに一枚ずつ片付けようとして。

「なんか最近、入りづらいんだよなぁ」

 ここ最近ずっとハンカチケースが窮屈で、洗濯したハンカチをしまうとパンパンになる。三ツ谷の知る限り、ルナとマナが新しいハンカチを購入した形跡はない。

「なんでだぁ? 一回全部畳み直してみっか」

 そう思って、ケースの中のハンカチを全部取り出そうとして、三ツ谷の手が止まる。ケースの一番奥でダンゴのようになっている布の塊に気がついた。

「これのせいじゃん。……ルナマナの仕業だなぁ。ったく」

 ため息を吐いて、三ツ谷はその布の塊に手を伸ばす。しわくちゃになった白いハンカチを手に取って広げ、三ツ谷は大きなため息を吐いた。

「汚れてるし。……このシミ落ちるか? つーか、なんだこの模様」

 肩を竦めながらハンカチを眺める。白のハンカチに歪に広がる薄茶色の滲みを見つめ、そのシミがたどり着く紫色の糸の残骸に眉を顰めた。
 ハンカチの端に施されている、今にも解れそうな糸に触れた、その時。

「あっ! ダメ!!」

 戻ってきたマナが三ツ谷の手からハンカチを奪って、後ろ手に隠した。

「それ、マナの? もしかして自分で縫ったのか?」
「ち、ちがう!」

 マナは首をぶんぶんと横に振って、依然ハンカチを三ツ谷から隠そうと両手を背中に回している。おそらくマナが刺繍の練習をしたハンカチなのだろう、とそんな予測を立てたのだがどうも違うらしい。

「じゃあルナのか」
「ちがう!!」

 なぜかマナが重ねて否定する。どうしてそんなに必死に隠したり否定したりするのか分からず、三ツ谷は困り顔をしてみせるが、マナは難しい顔をしたまま。あまり問い詰めたら泣き出してしまいそうな気がして、三ツ谷は優しく片手を差し伸べた。

「どっちのでもいいけどさ……汚れてんじゃん。早く洗わねぇと落ちなくなんぞ、それ。せっかく作ったんだろ?」

 糸くずが散らばったような、紫色の糸の塊は刺繍を施そうとした跡で間違いないはずだ。もしそれが売り物であるなら、あまりにもお粗末。ハンカチ自体の質はいい分、それが余計に際立っている。

「つーか、こんな生地のいいハンカチどうしたんだ? 刺繍の練習するなら言ってくれたら余りの布がいくらでもあんのに」
「だから、ちがうんだってば!!」

 マナはいまだに否定を繰り返す。三ツ谷が優しい言葉を重ねれば重ねるほど、なぜかマナの瞳に涙が溜まっていく。

「どうしたんだよ、マナ。別に怒ってねぇぞ?」
「どうかしたの? 2人とも……あっ!!」

 戻ってきたルナは、先ほどのマナと同様の反応をして。
 マナが背中に隠しているハンカチを奪って、今度は自分の背中に隠した。

「ルナまで、どうした?」
「……別に。お兄ちゃんには関係ないもん」
「だったら貸せよ。洗濯すっから」

 三ツ谷が手を伸ばすと、ルナはあからさまに身体を捩って拒絶する。先ほどのマナ同様、三ツ谷にそのハンカチを渡そうとしない。

「……隠さなくても、別に笑ったりしねぇのに」
「……っ! コレはルナたちが作ったんじゃないもん!!」

 三ツ谷の呟きに反応して、ルナが反論する。けれど反論してすぐに、ルナは自分の発言を悔やむように片手で口を覆った。

「じゃあ誰が作ったんだ? 売り物じゃねぇんだろ?」
「な、ナイショ! お兄ちゃんには絶対言わない!」
「なんでだよ」

 必死に隠すルナに三ツ谷が質問を繰り返す。終わりのない問答に耐えられなくなったのか、今度はマナが三ツ谷を止めるように声を荒げた。

「や、約束、したんだもん! お兄ちゃんにはナイショって!!」
「マナ!!」

 ルナが慌ててマナを止めようとするが、もう遅い。マナの口は止まることを知らずに。

「奈子お姉ちゃんと、約束したんだもん!!」

 その名前が流れて、三ツ谷の動きが止まる。
 マナが「ごめんなさい」とルナにしがみついて、ルナが大きなため息を吐いた。

「……どういうことだよ」

 三ツ谷の問いかけに、ルナは思案するように黒目を一周させる。けれどいい言い訳は浮かばなかったのだろう。ほんの少しだけ不服そうに表情を歪ませて、ルナは三ツ谷のことを見上げた。

「……奈子お姉ちゃんには、絶対言わないでね?」

 バレてしまったものは仕方ないと、ルナが申し訳なさそうな顔でそのハンカチについて語り始めた。

「……このあいだ、お兄ちゃんが奈子お姉ちゃんを連れてきてくれた日にね」

 三ツ谷が料理をしているあいだ、ルナとマナは奈子とお話をしていた。好きなものの話や、好きな人の話をして、とても楽しくてルナもマナもはしゃいでたのだとルナが告げる。
 たしかにあの時、何を話しているのかは分からなかったけれど3人の楽しそうな声がキッチンのほうにもずっと聞こえていた。

「そしたら、マナがお茶をこぼしちゃって」

 近くに雑巾もティッシュも見当たらず、ルナが慌ててそれらを取りに行こうとしたら……奈子がそのハンカチをポケットから取り出して机の上に溢れたお茶を拭き始めたのだと。

「『失敗作だから捨てる予定のものだし、いいのいいの』って」

 奈子はテーブルの上を拭き取ると、そのハンカチを躊躇なく部屋の隅に置いていたゴミ箱に捨てたのだと、ルナは教えてくれる。
 何度も謝るルナとマナに、奈子は『むしろ捨てるきっかけを作ってくれてありがとう』なんて言って笑って。

「そのときに赤色の花が縫ってある、ハンカチを見せてくれたの。本当はこんなのを縫ってプレゼントするつもりだったのに、ヘタクソすぎて見せられないからって」

 奈子が見せたハンカチはおそらく、三ツ谷があの日即席で作った赤いアネモネを刺繍したもの。

「上手になったら、このハンカチをくれた大好きな人にあげるんだって」

 その言葉は、あの日の三ツ谷には届いていない。
 今も、ルナが白状しなければ知ることもない内容だった。

「だから、それまでお兄ちゃんにはナイショにしててって」

 もしもそれが奈子の嘘ならば、三ツ谷に聞こえてなければ意味がない。

「……だけどなんとなく、捨てちゃダメな気がしたから。……でもお兄ちゃんにナイショって約束したから、隠してたの」

 洗濯したら三ツ谷にバレてしまうから。
 だからゴミ箱から拾ったソレを、ルナとマナはハンカチケースの奥に隠していた。

 ルナは背中に隠していたハンカチを胸の前に持ってきて、解れかけた紫色の糸をじっと見つめる。

「奈子お姉ちゃんが持ってたのは赤色だったのに……奈子お姉ちゃんが作ろうとしてたのは紫色のお花なの」

 どうして紫色の花なのかと。
 赤色やピンク色の方がかわいいのに、と。
 ルナとマナが問いかけたら、奈子は「私も赤色が一番好き」と笑っていたのだと。

「でもお兄ちゃんにあげるなら、紫色だって」

 三ツ谷の瞳が藤色を帯びているから。
 その銀色の髪に光が当たると、ほんのりと紫に染まるから。
 想像できる、凡庸な答えはたくさんある。でもルナは、たった一つの答えを知っていた。

「このお花が紫色に染まったら……意味があるんだって」

 色ごとに異なるその花の花言葉を、あの日、奈子はルナとマナに教えていた。

「紫色のアネモネの花言葉は……」



『あなたを信じて待つ』



 ルナの声が、奈子の声と重なって聞こえた。
 聞こえるはずのない、奈子の声では聞いたこともない言葉が、三ツ谷の頭の中で繰り返し響く。

「奈子お姉ちゃんは……お兄ちゃんが好きになってくれるの待ってるんだよ」

 違う。きっと、そうじゃない。
 奈子が、その花言葉で三ツ谷に伝えたかったのはそんなことじゃないのだと。
 三ツ谷にだけは、その花言葉の本当の意味が分かっていた。

「……ルナ、マナ」

 静かに紡いだ妹たちの名前は、愛情に溢れて響く。「ありがとう」と奏でるように、2人の名を呼んで。

「それ、兄ちゃんにちょうだい」

 三ツ谷はそう告げて、ルナの手から汚れた不恰好なハンカチを受け取る。

「これは兄ちゃんのだ」

 嬉しそうに、そのハンカチを握りしめた三ツ谷の笑顔が、ルナとマナを笑顔にする。

 全部、嘘だとしても……奈子がこの家で過ごした事実は本当だ。
 奈子がたとえ心を偽るためであっても、三ツ谷のために苦手な裁縫をしたのも、ルナたちと秘密を共有したことも、全部。

 たとえ嘘でも、その嘘を愛おしいと。
 三ツ谷はやっぱり思ってしまうから。

「ちょっと……出かけてくるから。留守番頼むな」

 きっと、帰りは遅くなる。
 あてのない探し物を見つけに、三ツ谷は家を出て行った。


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