Missing Past@

 白崎莉亜は、自分の人生に――――何も期待していなかった。

「生灰谷兄弟めちゃくちゃかっこいぃー
「声かけちゃおっ」

 生まれてすぐに母親が死んで、肉親の父親も海外に単身赴任でほぼ音信不通。
 お金に不自由がなかったことだけが、莉亜の人生における自慢だったと言っても過言ではなかった。

「ちょっと……何あの子、灰谷兄弟の妹?」
「あー違うよ。あの子は――」

 自分の人生に、多くは期待しない。
 人並みの幸せな生活を送ること、それだけが莉亜のたった一つの願いで。

「灰谷兄弟のお気に入り」

 その、何の役にも立たない肩書きが、莉亜の願いを絶対に叶えてくれなかった。

 ◇

 隣の家に住む2人の兄弟は、昔から人気者だった。
 容姿にも恵まれて、喧嘩も強くて。
 何かをさせたら、必ず人並み以上の成果を出してしまう。
 同年代の子たちはみんな、男女問わず彼等に憧れていて。

 中学時代、彼等が少年院から出てきた時も、まるで英雄が帰ってきたかのような扱いで。

『カリスマ兄弟』なんて呼ばれる、そんな2人のことが、莉亜は――――嫌いだった。

「莉亜」

 名前を呼ばれて振り返れば、同じ高校のブレザーを羽織った灰谷竜胆の姿が目に映る。独特な明るい髪色に丸い眼鏡をかけた、その独特なスタイルは彼にしか似合わないだろう。
 ネクタイはせずに、第3ボタンまではずして寛げた首元からは鎖骨が丸見えだった。

「……どうしたんですか、灰谷先輩」
「うわ……出たよ、他人行儀。そのヘタクソな敬語やめろって」

 莉亜の隣に当然のように並んで、竜胆は校舎を後にする。
 下校途中の生徒たちの視線を痛いくらいに感じながら、それでも莉亜は表情一つ変えずに校門を跨いだ。

「……先輩には敬語使うのが普通」
「じゃあせめて名前で呼べよ。それじゃ兄ちゃん呼んでんのかオレ呼んでんのか分かんねぇ」
「文脈で分かるでしょ」
「めんどくさい」

 そっけなく言いながら、竜胆は莉亜の鞄を奪って道路側を歩き出す。
 これは確実に一緒に帰る流れだと分かって、莉亜が踵を返そうとすれば竜胆が先手を打ってその腕を掴んだ。

「オマエの家あっちだよ、莉亜」
「……先に帰って」
「なんで」
「……学校ではあんまり親しくしてこないでって言ってるじゃん」
「もうガッコー出てんじゃん」

 敷地は出ている。けれど、校門を出てすぐの場所には当然生徒たちがたくさんいるわけで、こんなやり取りも全部誰かに見られているのだ。
 
「さっさと帰って莉亜の晩飯食いたいんだけど」
「……自分の分しか作る気ない」
「じゃあ2人分増やして。兄ちゃんも食うだろうし」
「勝手に決め――」

 言いかけた言葉が、喉の奥に消える。
 竜胆に捕まれた腕が勢いよく引かれて、校門に続くブロック塀に背中を押し付けられた。
 誰かが息を呑んだ音も、自分の胸の音にかき消されてうまく聞こえなかった。

 莉亜の生唾を飲む音が、鮮明に鳴った。

「なぁ……莉亜」

 静かに響く声が、いつもより少しだけ低い。

「あんま……オレのこと避けんな」

 耳元に唇を寄せられて、脳に教え込むように声が響いた。

「オマエに避けられんのは……マジで無理」

 覆いかぶさるように、竜胆の顔が莉亜の肩に埋まる。
 そうして莉亜の鼻を擽る、竜胆の香りはまた莉亜の知らない花の香り。
 いつも、竜胆は違う甘い香りを漂わせていた。

 その理由を、莉亜は知っていた。
 
「……そういうこと、言わないで」
 
 竜胆に……『灰谷兄弟』に、恋人がいないはずがない。たとえその恋人≠ェ複数いるのだとしても、それすら驚くことではない。
 彼等はそんな価値観すらも覆すほどの人間だから。

「お願い……離れて」
「なんで?」

 突き放そうとすれば、拒絶しようとする腕を掴まれた。

「……オレは莉亜が好きだよ」

 その言葉に、どこまで意味を求めていいのか。
 それだけは、莉亜にも分からなかった。

 竜胆は、身に纏う花の香りの理由を、何一つ莉亜には伝えなかったから。

 そんな竜胆とは対照的に、兄の蘭はいつも飄々としていて。

 わざとらしく無神経だった。

「よう、おかえり。莉亜」
「……っ……あ」

 お風呂上がりに夜風に当たろうとベランダに出れば、向かいのベランダで蘭は裸の女の人を抱いていた。
 綺麗な大人の女の人が、蘭に背後から突かれて、目の前で激しく揺れている。

 その光景を見ていられずに莉亜は目を逸らした。

「……お邪魔しました」
「待てよ、莉亜」

 部屋に戻ろうとすれば、威圧的な声が莉亜を止めた。
 普段は三つ編みにしている髪が解かれて、風に揺れている。髪の毛先が女の人の背中に触れて、また淫らな声が流れた。
 そんな女の人越しに見える、蘭の顔は変わらない貼り付けたような笑顔のまま。

「久々に会ったんだし、なんか喋ろーぜ。つーかオマエ最近オレのこと無視しすぎな」

 腰を激しく打ち付けながら、蘭は女の人の喘ぎ声を無視して、莉亜に言葉をかけ続ける。それら全部を無視して部屋に戻ればよかったのに、莉亜にはそれができなかった。
 
「竜胆も寂しがってんぞぉー。オマエが冷たいって」
「……別に冷たくしてない」
「ほら、オレにも冷たいじゃん?」
「……こんなことするからでしょ」

 莉亜と蘭の会話の背後にはいつも卑猥な摩擦音と、女の人の甲高い声が流れていた。

「なぁ……っ莉亜、今度ちゃーんとデートして、やるから……機嫌直して
「……しなくていいって」
「あはっ、強情 かわいいねぇ……っ」
「……ん、ぁ…っ」
「かわいぃーのはオマエじゃねぇから声我慢しててくんない?」

 冷徹に言葉を吐いて、蘭は自らが抱く女の口を抑える。それでも零れ落ちる女の人の喘ぎ声が耳障りで。

「こっち向いとけよ……っ、莉亜」

 蘭が自分の顔を見ながら、自分の名前を呼びながら果てることが――――嫌だった。
 

 そんなふうに住んだ場所が隣だったというだけで、蘭と竜胆に気にかけられている莉亜のことを、よく思わない女子はたくさんいた。
『灰谷兄弟のお気に入り』は、ひたすら莉亜を孤独にして。

「蘭も竜胆も、アンタなんかまったく興味ないんだから」

 言われる文句も、叩かれる陰口も、いつだって凡庸。

「抱いても、もらえないくせに」

 名前も覚えられない、不特定多数の女になんかなりたくない。
 でもそれもきっと、ただの強がりだということを莉亜は自分で理解していた。
 蘭が抱く女の人を思い返して。
 竜胆が漂わせる毎日違う香りを思い出して。

 早く大人になれば、何かが変わる気がした。
 あの2人以外の誰かのものになってしまえば、この現状を壊せる気がした。

 だから。

 莉亜のことを、からかうだけの玩具≠ンたいに思ってる2人の檻から、抜け出した。

「私と付き合って」

『灰谷兄弟のお気に入り』である莉亜を、多くの男子は敬遠していた。
 でもその一方で、それを利用したい男子も一定数いることを、莉亜は知っていた。

 蘭と竜胆がずっとそうしていたように。
 自分の玩具≠用意するのは、とても簡単だった。

「白崎抱けるとか……超ラッキーじゃん」
「……そう?」
「自覚ねぇの? 白崎ってさぁ……胸デカくて顔もかわいいから……一度は抱いてみてぇってみんな言ってる。……『灰谷兄弟』にビビってみんな手出せねぇだけ」

 そんなことも、莉亜にとってはどうでもよかった。
 早く、大人になれれば……それで。
 
「……白崎、……っ、すげぇ……かわいい」

 目の前で頬を火照らせる男を見ても、何の感情も抱かなかった。
 突き刺さる熱がただただ痛くて。

 蘭に抱かれていた女の人は、どうしてあんなにも気持ちよさそうに善がっていたのだろうと。
 そんなことをただ冷静に考えて。

 静かな路地裏に、男の囁く声と、肌のぶつかる音が響く。
 それ以外、不気味なくらい何も聞こえなかった。

「マジで……ぶっ殺すぞテメェ」

 目の前の男の背後に、その姿が現れるまで……莉亜は本当に気づかなかった。
 気づいた時には、視界が真っ赤に染まっていて。

「い……っ」

 貫くような頭痛と脳を揺らすような嘔気とともに、莉亜の頭からドクドクと血が流れた。滴る血が、早鐘を打つ鼓動に合わせてどんどん溢れてくる。
 傍らには、血で濡れたブロックコンクリートと、顔面の面影すら分からなくなった『彼氏』が冷たいアスファルトに転がっていて。

 蘭はその『彼氏』が気絶してもずっと、その顔面を殴り続けて。
 竜胆は身体の骨を粉砕する痛々しい音を鳴らし続けた。

「や……めて」

 この2人が、本気で人を殺してしまうことを莉亜は知っていたから。
 どうにか声を出して、2人を止めた。
 血だらけの拳をピタリと止めて、2人は顔を見合わせる。

「兄貴、どうする? マジでコイツぶっ殺したいんだけど」
「同感な。……でーも、今捕まるわけにはいかねぇし?」

 そう口にして、蘭は男の顔面を踏み潰して莉亜の目の前にしゃがみ込んだ。
 その間も竜胆はひたすら転がった男の身体を壊し続けて。

「オレらが大事にしてやってたのに、なんでオマエはオマエを大事にできねぇの?」

 莉亜の頭を容赦なくコンクリートで殴った蘭が、そんな言葉を口にする。
 感情を一切宿さない瞳と、優しげに緩められた頬が、蘭の表情を歪に変える。

「……こーんなに血ィ流しても、莉亜の頭ん中はソレとヤッた記憶消えてねぇんだよなぁー」

 莉亜の傷口に蘭は遠慮なく触れて『記憶消えるまで殴ろっか?』なんて本気か冗談かも分からない言葉を吐く。
 触れられた傷が強烈な痛みとなって、莉亜の顔は歪んだ。その歪んだ表情を、蘭は楽しげに見ていた。

「痛いかぁ? 莉亜。でもオマエが悪いじゃん?」

 莉亜の傷口から滴る血を舌で舐めて、蘭はクスリと笑う。

「言うこと聞かねぇ玩具はぶっ壊すしかねぇんだから」

 力の入らない莉亜の身体を、蘭は軽々と横抱きにして、いまだに男の身体を粉砕し続けている竜胆にいつもの明るい声音で声をかけた。
 
「……竜胆、そろそろ帰んぞー」

 蘭の声に反応して、顔の血を拭う竜胆に、蘭は愉快そうな笑顔を返す。

「あはっ もしかして殺しちゃった?」
「ギリセーフで生きてるよ。……治った頃に改めてぶっ殺す」

 顔色一つ変えずに、竜胆は死にかけの男をアスファルトに放って。
 底なしの優しい瞳で、莉亜を見つめた。

「……帰ろう、莉亜。……オレたちの家に」

 帰る家が、何度も出入りした……ただの『お隣の家』じゃないことも莉亜は分かっていた。
 向かう先が、『2人の檻』であることを。

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