幸せの切符 俺は、何もいらない。 欲しいものなんて、何もない。 望んでも、どうせ奪われるのに。 それでも欲しがるなんて、バカみたいじゃん。 「ねぇ……雛ちゃん」 そう思っていたのに。 どうしても、君のことは手放せなかった。 「ありゃりゃ……ぐっすり寝ちゃったね」 雛ちゃんは今日もお仕事だったみたいで、部屋に来たときには、すでに結構疲れていた。 それが分かっていたのに、雛ちゃんがあまりにもかわいいから、俺はさらに彼女を疲れさせてしまったんだよね。 俺はまだまだ元気なんだけど、寝てる雛ちゃんを襲うほど節操なしではないから。 こうして雛ちゃんの寝顔を見つめることにした。 「……う、ううっ」 俺の胸にすがりついて眠る雛ちゃんの目尻には涙の痕が残っていた。 それは、先ほど愛し合った時のものなのか、それとも今見ている夢によるものなのか。 どちらにしても、雛ちゃんを泣かせているのは俺なんだろうと思う。むしろ他の男のために泣く雛ちゃんは見たくないし……って、こんな嫉妬をする日が来るとも思ってなかったんだけど。 「怖い夢、見てるのかな」 険しく歪む彼女の顔を見つめ、俺は呟く。 俺の脳裏に焼き付いていた悪夢は、もう長いこと見ていない。 まるで、雛ちゃんが俺の怖い夢を全部食べちゃたみたいに。雛ちゃんと心を結んでから、ぱたりと見なくなった。 「雛ちゃんなら、本当に食べてくれちゃいそうだけど」 俺は雛ちゃんの涙の痕をつたうように、指先で雛ちゃんの頬を撫でる。 そうすると強張っていた雛ちゃんの表情が、柔らかく緩んだ。 俺の胸で安心しきったように眠る雛ちゃんを見つめていると、俺にも眠気が襲ってくる。 あんなにも眠るのが怖かったのに。 「有村、先輩……」 雛ちゃんは眠りの中、俺のことを呼んだ。 どこか悲しそうな声。 その声は、かつてよく聞いていた。 俺は、雛ちゃんにひどいことをたくさんしてしまったから。悲しい思いをたくさんさせてしまったから。 でも雛ちゃんは、俺の『本当』を見つけて、救い出してくれたね。 俺は、それが本当に嬉しかったんだ。 「……夢の中の俺は、まだ雛ちゃんに悪いことしてる?」 囁くと、雛ちゃんは「ううっ」と苦しそうな声を出しながらゆっくりと目を開けた。 「あ、起きちゃった。おはよー、雛ちゃん」 ふにふにと雛ちゃんの頬をつつくと、彼女は寝ぼけ目を幾度か瞬かせ、そしてハッと目を見開いた。 「わ、私、寝てました!?」 「うん。そりゃあもうぐっすり。あーあ、俺はもっと雛ちゃんとイチャイチャしたかったのに放置されちゃったぁ」 「ご、ごめんなさい!」 慌てて起き上がろうとする雛ちゃんを俺は抱きとめる。俺で思考をいっぱいにする彼女の姿の、なんと愛おしいことだろう。 「だぁーめ。俺から離れないで、雛ちゃん」 「ひゃ……っ、有……村、先輩っ」 雛ちゃんの可愛い声が俺の耳を犯す。 その愛らしい声ごと全部飲み込みたくて、俺は雛ちゃんにキスをした。 雛ちゃんが眠っているあいだ、我慢していた分、たくさん。 「……っ、んっ、ふ」 「雛ちゃん、声がえっち」 「や、ごめ、なさ……っ」 「ううん。興奮するから、もっと……出して?」 俺がそうお願いすると、逆に雛ちゃんは声を我慢してしまう。 そういうのは逆効果なんだけどなぁ。 と、雛ちゃんの天然な行動に俺は容易く魅せられる。 「かぁわいい」 雛ちゃんは本当に可愛い。 可愛すぎて、こちらが困ってしまうくらい。 そんな彼女だから、彼女のことを想う人は多い。 あの澪だって、雛ちゃんには一目置いてるし。たまに雛ちゃんの出ているドラマを一緒に見てると「いい演技だ」なんて言って嬉しそうに笑ってるし。……自覚してないからさらに問題だし。 問題といえば、藤吾なんて……「乃亜の舌を満足させるために、たくさんの味を知っておくべきだよ」とかなんとか言って、雛ちゃんをちゃっかりご飯に誘ってるし。俺の彼女なのに……。 「有村先輩……?」 ぶーっとむくれる俺を、雛ちゃんは不思議そうな顔で見上げる。上目遣いのなんと可愛いことか。 「……ごめんね。俺は思ってたより心が狭いみたい」 雛ちゃんを幸せにできる人は、俺じゃなくてもたくさんいたんだと思う。 むしろ、俺はきっと他の男なら与えない苦しみを雛ちゃんにたくさん味あわせてしまったと思う。 「雛ちゃんを、誰にも触らせたくないや」 自分はたくさん他の誰かにこの身体を触らせてしまったのに。 雛ちゃんにはこんなことを願ってしまう。 ほら、やっぱり。 雛ちゃんといるとね。欲が消えないんだ。 今まで欲しくなかったものが全部欲しくてたまらなくなる。 誰にも雛ちゃんを奪われたくない。 澪にも、藤吾にも。 そして……、桜坂くんにも。 「なーんて……」 「有村先輩」 俺が情けない発言を撤回しようとしたら、雛ちゃんが真剣な顔で俺を見つめてきた。 「私がこんなふうに触られたいと思うのは、有村先輩だけですよ」 雛ちゃんは俺の胸の傷に手を当てて、触れるだけの、雛ちゃんらしいキスを俺にくれた。 「私はまだまだ駆け出しの女優ですけど……お芝居には全力で挑みたいので、そういうシーンがあれば受けると思いますし……先輩が嫌がることしちゃいますけど」 俺のどうしようもない弱音を、雛ちゃんは優しく受け止めて。 俺の大好きな笑顔をくれる。 「それでも私が好きなのは先輩だけです」 心の底から幸せだと、その笑顔で伝えてくれる。 俺の、苦しみを隠した下手くそな笑顔とは大違い。 雛ちゃんの笑顔はまっすぐで、素直で。 俺は……その笑顔を前にしたら、醜い俺の本性が浮き彫りになって嫌なのに。 どうしようもなく、大好きなんだ。 笑っちゃうくらい……俺の心は矛盾してる。 それも全部、雛ちゃんのせいだよ。 「雛ちゃんの、バーカ……」 ほんとに、バカだよ。雛ちゃん。 他に、幸せになれる道はたくさんあるのに。 俺なんかを選んで、本当に……。 「……大好き」 俺のすべてを捧げられるなら、搾り尽くすほどに雛ちゃんに与えたい。 俺にわずかでも幸せが残っているなら、そのすべてを雛ちゃんに捧げたい。 それがきっと、俺の幸せだから。 何も欲しがらなかった俺が。 何も望まなかった俺が。 欲しがって、望んで。 人間らしい欲望に呑まれる。 それも本望なんだよ、雛ちゃんのためなら。 「俺を幸せにできるのは……雛ちゃんだけだよ」 雛ちゃんが俺を選んだことに、もし「好き」という気持ちの他に理由があるなら。 それはたぶん、俺が……雛ちゃんでなければ幸せになれなかったから。 たぶんね。 俺がこのろくでもない人生の中で、唯一手にしていた「幸せの切符」が、雛ちゃんに愛されることに使われたんだと思うよ。 この心臓を燃やし尽くすことがその切符の使い道だと信じてやまなかった俺が、雛ちゃんの愛を望んだ結果なんだ。 ああ、そっか。 俺は最初から、何も望んでなかったんじゃないんだ。何も欲してなかったんじゃない。 ずっと、雛ちゃんを求めてたから。 記憶から消してしまった雛ちゃんを、ずっと求めて。また出会えることを望んで。 きっとそのために、俺はそのほかのすべてを捨てていただけだったんだね。 ……って、これは都合のいい考えかな? でも、それでもいいよね。 だって俺と雛ちゃんが結ばれたこと自体、都合よすぎるくらいの奇跡なんだから。 「……雛ちゃん」 君の名を、呼ぶことができる幸せが俺の心を埋め尽くす。 触れられることが嬉しくて。 どんなに苦しくても、流れることのなかった涙が、雛ちゃんのためならたやすく俺の頬を伝うんだ。 「……好き、大好き」 好きなんて言葉じゃ足りない。 どんなに言葉にしても、たぶん俺の想いのわずかさえも伝わらない。 それくらい、俺は君をね。 「愛してるよ。……心の底から」 clap Exit コメント ×
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