固陋蠢愚 02
ツギハギの呪力が反応するほうへ向かう。
たどり着いた場所には、とある高校が存在していた。
(里桜高校……)
映画館での変死体事件……その被害者と、唯一の生き残りである吉野順平が通っている高校。
その校門前に、私は立ち尽くす。
目を閉じて、感覚を研ぎ澄ませば、この中に、ツギハギの呪力の気配を感じることができた。
でも、敏感になった感覚が教えてくれる呪力の気配は一つじゃない。
(これは……虎杖くんの呪力の気配)
この高校の中に、虎杖くんの呪力の気配も感じる。
宿儺の指の気配である可能性もあるが、これはおそらく純粋に虎杖くん自身の気配だろう。
虎杖くんは今、吉野順平の監視役を任されているのだから、この高校にいてもおかしくはない。
冷静に分析する一方で、額には冷や汗が伝う。
ツギハギの呪霊と虎杖くんが同じ空間に存在している。
その事実を、偶然と考えるのが妥当だ。
けれど偶然にしては、あまりにも出来すぎているようにも思えた。
ツギハギの呪霊と映画館の変死体。
映画館の変死体と里桜高校。
里桜高校と吉野順平。
吉野順平と虎杖くん。
全てを線で繋ぎ合わせれば、自ずとツギハギの呪霊と虎杖くんが線で繋がる。
吉野順平という不特定要素を媒介して、まるで仕組まれていたかのように。
(吉野順平は……やっぱり呪霊側……? それとも利用されただけ……?)
断定するには判断材料が少ない。
けれどもしそうだとすれば、ツギハギの呪霊の目的は、虎杖くん……恐らくその内部に存在している、宿儺の存在。
(どっちにしても、虎杖くんが危ない……っ!)
考えがそこまで行き着いて、私の心臓が早鐘を打つ。
高校の校舎に一歩足を踏み入れた――その瞬間。
この校舎を囲うように、すべてが黒く染まり始めた。
(……帳っ!?)
真っ黒な帳が下りてくる。
(いったい……誰が……?)
瞬間的に浮かんだ疑問。
でもこの帳に漂う呪力を辿れば、答えは容易に見つかった。
「……っ」
漂う呪力は間違いなく、あのツギハギ呪霊のもの。
そして、この校舎の屋上に、最も濃いツギハギの呪力の気配。
本体がそこにいることを、呪いが教えてくれる。
呪霊の居場所が分かった以上、私がやることは一つ。
私の中にはまだ、七海さんに流しきれなかったツギハギの呪力が残ってるから。
(『酩酊』で完全に動きを止めて、捕まえる!)
帳が下りたのだから、遅かれ早かれこの異常事態は七海さんの耳に入るはず。それまで時間を稼げればいい。
足に呪力を流して、私はその場を大きく跳ね上がった。
校舎の屋上に着地したら、少し遠くから予想通りの声が聞こえてくる。
《順平が宿儺の器を引き当てた時点で流れはできてるんだ》
企むようなツギハギの声が、その計画を口にした。
《2人をぶつけて、虎杖悠仁に宿儺優位の縛り≠科す》
(やっぱり……吉野順平を利用して、虎杖くんを……っ!)
私は急いでツギハギの呪力のもとへ駆ける。
この壁を曲がった先、そこにヤツがいる。
(呪いなんかの好きには――)
あと一歩、踏み出すだけだった。
でも私の足は、そこで止まる。
「漏瑚も君くらい、冷静だと助かるんだけどな」
何の前触れもなく、流れた声。
その声が聞こえた瞬間、私の唇はピクリとも動かなくなった。
すぐにでも術式を発動できるように、掴んでいたはずのツギハギの呪力も、私の身体の中を流れていく。
(……い、ま……)
聞こえるはずのない声が、聞こえた気がした。
でもそんなことはありえない。
ありえるはずが、ないの。
《アレはアレで素直でカワイイじゃない。それより良かったの? あの指、貴重な呪物なんだろ?》
ツギハギが言葉を重ねる。
それは独り言じゃなく、確かにそこにいる相手へ向けたもの。
「いいんだ。少年院の指はすぐに虎杖悠仁が取り込んでしまったからね」
間違えようのない声が、ありえないことを口にしてる。
(う、そ……だよ…ね)
少年院にいた、あの呪胎に宿っていた指の行方を……どうしてこの声が、知っているの。
「吉野順平の家に仕掛けた方は高専に回収させたい」
記憶に染みついた声が……何を、言ってるのか……分からない。
《悪巧み?》
「まぁね。それじゃ私はお暇させてもらうよ」
靴音が、やけに鮮明に聞こえてくる。
曲がり角の先、そこにその声の主がいる。
(……逃げ、なきゃ……)
知ってはいけない。
この声の主が誰なのか、私は知るべきじゃない。
《夏油も見てけばいいのに。きっと楽しいよ。愚かな子供が死ぬ所は》
「確かにね。……でも私は」
曲がり角から、大きな体が現れる。
「美しい少女が絶望している姿を見る方が、楽しいよ」
その口から、私を嘲笑う言葉が溢れた。
『今日が終わったら、迎えに行くよ』
交わした最後の言葉もちゃんと覚えてる。
いつだってすぐに呼び起こせる場所にしまった思い出。
その姿を忘れるわけないの。
見間違えるわけないの。
だから、意味がわからないんだよ。
だって……この人は……。
(……もう……どこにも、いるはず……ないの)
きっと、何かの間違い。
こんなの、幻覚を見せる術式か何かだよ。
この人はこんなことを言う人じゃない。違うの。
違う、のに。
「や、皆実」
どうして、あの頃と同じように私の名前を呼ぶの。
「久しいね」
何度も思い描いた声音で、親しげな言葉を紡いでくる。
この声に、答えちゃいけない。
分かってるの、そんなこと。
でも身体が全然言うこと聞かないの。
「……嘘……でしょ」
五条先生と同じ黒服を身に纏って、その人は、昔と何一つ変わらない笑顔を向けてくれる。
「嘘とは酷いな。私が偽物に見えるかい?」
私の記憶の中と唯一違うとすれば額に刻まれた傷口とその縫合痕。
痛々しいその傷は、私の知らない時間のあいだに刻まれたもの。
《んー? 夏油、誰と話してんの? あれー? 綾瀬皆実じゃん!》
私たちの声に反応して、ツギハギもこちらへ歩んでくる。
その人の背後から顔を出して、ツギハギはニヤリと不気味な笑みを浮かべた。
《うわぁ、また会えるなんて俺は本当に運がいいね。夏油、ちょっと退いてよ。虎杖悠仁に会う前に、その子喰べたい》
ツギハギが恐ろしい言葉を口にする。
でもその言葉以上に恐ろしい光景が、私の瞳に映ってる。
『君の幸せをいつも想っているよ』
私を呪う言葉を、誰よりも呪ってくれた、この姿が……。
「後にしたほうがいいよ、真人。皆実の匂いを漂わせた状態で虎杖悠仁、その中にいる宿儺と会うのは得策じゃない」
笑顔のまま、私を呪う言葉を肯定してるの。
虎杖くんを利用した後に、私を喰べろと。
この声が、そう口にした。
「あはは、たしかに! じゃあさっさと事を成そうか。すぐに終わらせるから待っててよ、綾瀬皆実」
ツギハギは楽しい玩具を見つけたみたいに笑って、屋上を飛び降りる。
この屋上に……私と、その人だけが取り残された。
「ごめんね。せっかくの再会が慌ただしい形になってしまって」
そんな気遣いの言葉はいらない。
「や……めて、ください」
あの人のように眉を下げたりしないで。
あの人が口にしそうな気遣いを口にしないで。
違うの。
あの人は呪霊を使役しても、手を組んだりしない。
あのツギハギから呪霊操術の気配がしない以上、アレは使役した呪霊なんかじゃない。
「どうしたんだい? 皆実」
「あなた、なんか……知り、ません」
非呪術師を憎むのと同様に、いや、それ以上に。
呪霊の存在を憎んでいたはずのあの人が……。
呪霊と手を組んで、呪術師を傷つけようとするはずないの。
「……あなたは……いったい、誰なんですか」
私の問いかけに、その人は笑顔のまま。動揺なんてまったくしていなかった。
「誰って……悲しい事を言うね。さすがに……覚えてくれていると思っていたんだけどな」
当たり前だよ。
その顔を、声を、忘れるはずない。
でも……だからこそ、違うんだよ。
《チガワナイ》
言い聞かせるように心の中で呟いた言葉に、体の中の呪いが答えてくる。
(……うるさい)
《コイツガ、ゲトウスグル》
(違うから、黙って)
《フレテミレバワカル》
触れなくたって分かるよ。
あの人がこんなところにいるはずないの。
「皆実……これでも、私を否定するかい?」
その人の手が、私の頬に触れる。
(だめ……呪力を吸っちゃ……だめ)
この人は、傑さんじゃない。
《フレテミロ》
傑さんがもし生きてたとしても、こんなところにいるはずない。
《ムゲンヲ、トケ》
非呪術師を憎んでも、呪いに翻弄された私たちを守ってくれた。
こんな無差別なこと、するような人じゃないの。
《コタエハノロイガオシエル》
答えなんか知らなくていい。
分かりきったことなの。答え合わせなんてする必要ない。
目の前にいるこの人が、誰なのか……知る必要はない、のに。
「呪力をコントロールできるようになった、か。……ならば」
私の唇を奪う――この口づけを、私は知ってるの。
底抜けに優しい、慈しむような触れ合い。
かつて私が、何よりも望んだ魔法を……。
どうして……。
「……っ、ふ」
「私とのキスは、忘れていないだろう?」
「……やっ、ぁ」
胸を押しても、離れてはくれない。
それどころか、口づけを深めるように舌がぬるりと入り込んでくる。
「…ぁ……い、ゃ……ぁ」
「私のキスが、皆実は大好きだっただろう?」
「……ぅ…ぁ」
「それとも……」
私の唇からわずかに唇を離して、その人が目の前で笑う。
「悟のキスを、好きになったかい?」
息が止まる。
胸を刺すような言葉に、心が揺らいで。
私が身体中に纏った無限のイメージがガラガラと崩れていく。
そうして、触れた呪力が……私の望まぬ答えを教えてくれた。
「……嘘、だよ……」
流れ込んでくる呪力は、間違いなく傑さんのもの。
忘れられない呪い。
愛しかった、大好きな……呪いだった。
「ほんと…に……傑さん、なの……?」
もう二度と触れることはないと、そう思っていた呪いが、どんどん流れてくる。
「ああ。……嘘偽りない答えが君に流れている。そうだろう?」
自己を提示する呪いを、偽りようがない。
流れてくる呪いが、大好きな呪いと同じなら。
この人が『夏油傑』なんだと、認めるしかないの。
「また会えて、嬉しいよ……皆実」
私だって……ずっと、会いたかった。
傑さんに、会いたかったよ。
大事な気持ちだったの。
傑さんに寄せた気持ちは、私にとってかけがえのない宝物だったのに。
なのに……。
「……はなし……て」
綺麗な思い出のままでよかった。
たとえ思い出が嘘に変わっていても、嘘に浸っていたかった。
こんな無様な泣き顔なんて、見せたくなかったよ。
大好きな魔法を、拒みたくなんか……なかった。
「……や…だ」
重なる唇が、ただただ痛い。
大好きだった笑顔が、こんなにも怖いの。
「や…めて……傑、さん」
私の抵抗を、傑さんは受け入れてくれない。
私が嫌がることを、傑さんは絶対にしなかったのに。
『君の幸せをいつも想っているよ』
待ち望んでいたはずの魔法が、どんどん呪いに変わっていく。
「ぃ……やっ」
「ははっ、……私のキスが嫌になる日は来ないと言っていたじゃないか」
私と傑さんだけの思い出。
それを口にする以上、この人が傑さんなんだと認めるしかないの。
「すぐ、る……さん……っ」
「君の体液の味は……昔と変わらず本当に美味だな。……ずっと、味わっていたいくらいだ」
笑みをこぼしながら、傑さんの唇が私の唇を貪り尽くす。
私と傑さんの繋がりが、すべて呪いで満ちて流れてく。
「……けれど」
傑さんは私の両頬を押さえて、私が逃げられないように固定する。
否応なしに映り込んだ傑さんの瞳は、昔と変わらない色を帯びていた。
でもその色に、昔のような優しさの熱はなかった。
「私の残穢を君に残しておくわけにもいかないからね」
傑さんは器用に私の口内の唾液を舐め尽くして。
「真人の呪力も一緒に……もらっていくよ」
私の中から、自らの呪力とツギハギの呪力を奪っていく。
「や……ぁ…っ」
音を立てて、すべて壊れてく。
私の身体をコントロールするように、私の体液に含まれた呪力を傑さんは選びとった。
唇が離れて。
もう私の中に傑さんの呪力もツギハギの呪力も残ってなかった。
腰が抜けた私はその場に座り込む。
でもやっぱり、傑さんはそんな私を抱き留めたりはしなかった。
無様に地面に座り込んだ私を、傑さんが見下ろしている。
「時が来たら……また一緒にいられる」
私の目の前にしゃがみ込んで、傑さんが小首を傾げて笑った。
「だからそれまで……いい子で待っているんだよ」
私にその呪力を残さないように。
私に触れることなく、傑さんが私に背を向ける。
また、私の前から、傑さんがいなくなる。
まだ、何も聞けてないのに。
「傑、さん……っ!」
身体に力が入らない。
それでも無理矢理に口を動かした。
私の掠れた声が、傑さんを呼び止める。
傑さんの背中に、私は言葉を重ねた。
「どうして……」
どうして、生きてるの。
どうして、会いに来てくれなかったの。
聞きたいことなんて、挙げればキリがない。
でもそのどれも、今聞いたところで意味のないものばかり。
だから、私が今……聞かなきゃいけないことはたった一つ。
「どうして……こんなところに、いるんですか」
あの頃の傑さんも、たしかに非呪術師を恨んでた。
でも呪霊と手を組むなんて、そんな愚かなことをするような人じゃなかった。
「呪霊と、手を組んで……何を……しようと、してるんですか」
あの頃の私は、傑さんの考えていることを、全部知りたいと思っていた。
でも今は……傑さんの考えてることを知るのが怖い。
本心を、知るのが怖い。
「傑、さん」
何かの間違いだと、否定してほしい。
考えすぎだよって、困り顔で笑ってほしいのに。
私を振り返った傑さんは、不気味なくらいの笑顔を携えていて。
「さあ……なんだろうね」
私の疑問を否定しなかった。
呪霊と手を組んでいることを、傑さんは肯定した。
少年院に宿儺の指を放って、私たちを苦しめたことも。
七海さんを傷つけた、あの呪霊の行動も全部……傑さんは知っていて、止めなかったんだ。
私を見下ろす傑さんの目には、絶望に濡れた私の顔が映ってる。
「それじゃあね……皆実」
「待って……っ!」
「ああ……一つ忠告しておくけれど」
顔だけ私のことを振り向いて、傑さんが口角を上げた。
「私と会ったことは……悟には言わないほうがいい」
その笑みが、企みを含んだものなのか。
傑さんが五条先生に向けた慈愛の感情なのかも、私にはもう分からない。
「……悟を大事に思うなら、ね」
念を押すように付け加えて、私から言葉を奪う。
そうして傑さんは、再び私の前から姿を消した。
「……傑、さん」
嘘みたいな本当。
あの呪力は紛れもなく傑さんのもので。
傑さんの存在を否定する材料のほうが少なかった。
「……嘘だって、……言ってよ」
叶わない願いを口にする。
答え合わせはもう済んだのに、私はその答えを受け入れられない。
唇に残る、愛しかった懐かしい感触。
それが今はただ、痛くて苦しくて、しかたなかった。
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