幼魚と逆罰 08
※皆実視点
《コロセ》
《キタナイ》
《ミニクイ》
《シネ》
《キエロ》
体内の、数多の呪いの声が絶えず喚いてる。
無数の刃に身体を刺され、叫び続ける呪いの声が私の耳を裂くように響いて。
無理矢理引き戻すように、意識が私の身体に落ちてくる。
「……っ」
ゆっくりと目を開けたら、知っている天井。
(ここは……七海さんの……家)
さっきまで、どこかのトイレ前の共用スペースにいたはず。
その後、伊地知さんに迎えに来てもらって家入さんの治療を受けに行ったはずなのだけど。
私にはその記憶がない。
ずっと気絶しっぱなしだった私を、誰かがここまで連れ帰ってきてくれた。
その誰かは考えなくても1人しか浮かばない。
隣のベッドから聞こえる寝息に、心が締め付けられる。
迷惑しかかけられなかったことを謝りたくて、私は身体を起こした。
(……い……っ)
身体中が悲鳴を上げている。
誰かを《コロセ》《ノロエ》と泣いている。
その悲鳴が私をズタズタに突き刺していく中、唯一親しめる痛みを、腕に感じた。
(……血を…抜いてもらったんだ)
自分の腕に刻まれた、新しい注射痕が目に入って、納得する。
恐らく家入さんが、私のキャパオーバーを察して血を抜いてくれたんだろう。
おかげで少し……ほんの少しだけ、理性は保ててる。
「……迷惑かけて……ごめんなさい」
眠る七海さんに、小さな声で告げた。
返事はない。
それが当然で、そうであるから私はその言葉を口にしたのだ。
「……七海さんが、無事で……よかった、です」
私の『家入さんの真似』では治らなかった傷が綺麗に治ってる。
七海さんの額から、冷や汗も消えていて。
自分のこと以上に、七海さんが無事なことに安心した。
(……よかった)
それ以外に心配なことなどなくて。
私はゆっくり、マットレスから立ち上がった。
《オマエガシネ》
一歩足を前に進めるごとに、針山に貫かれるような感覚に襲われる。
《イキテイルカチガナイ》
《ソンザイガアク》
《ノロイコロセ》
燃え尽くすような熱が私の身体を巡る。
熱くて、苦しい。
でもこの熱を処理する方法は……多くない。
五条先生がいない今、私にできる処理方法は一つだけ。
浴室の扉を開けて、鍵をかける。
制服を着たまま、私はシャワーの水栓を開いた。
制服が濡れないように、シャワーを他所に向けて。
(……ごめんなさい、五条先生)
でも今は、五条先生の監視下じゃないから。
約束を破ったことには、ならないよねって。
自分の心に言い訳をして。
私は、制服のポケットから注射器を取り出した。
お守り代わりにずっと持っていたソレを手にしたまま、制服の袖を捲り上げる。スカートのベルトで腕を縛れば、容易に腕の血管が浮き出た。
刻まれた複数の注射痕。
その痕に、重ねるようにして、そこに針を突き刺した。
陰圧に引き寄せられて、注射器の中にどんどん汚い紅が溜まっていく。
注射器がいっぱいになったら、その中身を洗い流して。
私はまた、新たな傷を腕に作り出す。
(……っ……だめだ……こんなんじゃ、全然)
抜いても、抜いても、呪いの声が消えない。
なぜかどんどんうるさくなっているようにさえ思う。
「なんで……っ……おさまって…よっ」
血の気が引いていく。
立っていられなくて、私はずるずると濡れた床にしゃがみ込んだ。
これ以上の失血は身体がもたなくなるって。
襲いくる吐き気と目眩が、身体のSOSを訴えてるのに。
それでも、止められなかった。
「……う、っ」
注射器の小さなシリンジじゃ、全然足りない。
こんなんじゃ、呪いは全然出て行ってくれないの。
《シネ》
うるさい。
《シンジャエ》
黙って。
《ダレモオマエヲタスケナイ》
いつだって、呪いは愚かな私を嘲笑ってる。
《ラクニナルホウホウヲエラベ》
浴室に飾られた剃刀に手を伸ばす。
綺麗な刃には、呪われた私の顔が映った。
「……針穴くらいじゃ……出ていけないんでしょ」
こんな小さな傷じゃ、満ちた呪いは出ていけない。
小さな扉から100人の人間が一気に通ることができないのと一緒。
簡単な話だよ。
扉を大きくすればいいだけなんだ。
「広げてあげるから……ちゃんと……出て行ってよ」
血の滲む注射痕に、剃刀を這わせる。
その手に力を込めようとして――。
(――っ)
扉の鍵が壊れる音と、剃刀が壁にぶつかる音。
同時に響いた音は、シャワーの音にかき消される。
「……七海、さん」
私の腕を掴んで、その人が目の前にいた。
メガネを通さない、その瞳には情けない私が映ってる。
七海さんが入ってきた拍子に、向きを変えたシャワーヘッドが、私と七海さんの身体を濡らした。
「何を、してるんですか……アナタは」
「……七海さんこそ…お風呂に…入ってくるなんて、どうか…してますよ」
私の減らず口に呆れて、出て行ってくれればいいのに。
七海さんは全然動揺してくれなくて。
「着替えも持たずに出て行って、シャワーの音が聞こえてくれば変でしょう」
「……それは」
「一応、入る前に声はかけましたよ。ソレに夢中で気づかなかったみたいですが」
七海さんはシャワーの水栓を閉じて、転がった注射器と剃刀に視線を向ける。
七海さんの大きなため息がその場に残った。
「家入さんがアナタの血をギリギリまで抜いています。これ以上血を流せば、冗談抜きに死にますよ」
淡々と、事実だけを口にする。
たしかにこれ以上失血すれば、死んじゃうかもしれない。
でも今だって、死にそうなくらいに身体が痛くて、熱いの。
この痛みを、苦しみを、七海さんは知らない。
でも、知らなくていいの。
「七海さんには……関係ないです」
だから放っておいて。
呪われた私に、かまわないで。
七海さんを巻き込みたくないって、そう思ってるのに。
「……関係ありますよ」
七海さんは私が動けないように、私の肩を押さえつける。
七海さんの心配そうな瞳が、私の心を刺した。
「アナタがそうなっているのは、ツギハギの呪力を相当吸ったからでしょう? 私があの呪霊に遅れを取らなければ……アナタがその呪力を吸う必要はなか――」
「違います」
やめてよ、違うの。
七海さんのせいなんかじゃない。七海さんは私がいなくてもあの呪霊を1人でどうにかできたの。
全部私が勝手にしたことで、勝手に足を引っ張ったの。
「これは……全部、私の……自業自得なんです」
だから、放っておいて。
「私を……これ以上…足手まといに……しないでください」
呪力の制御ができなきゃ、足手まといのままなんだよ。
だから今、体内で暴走した呪いも全部、私が自分で処理しなきゃダメなんだよ。
「貧血なんて……慣れっこです……大丈夫、です」
だから、早く……この呪いを流させて。
じゃないと……。
「呪力を流さないと……七海さんに…迷惑がかかります……から」
理性が焼き切れたら、私は自分を止められない。
だからそうなる前に……制御させて。
転がった剃刀に手を伸ばす。
でもその手はやっぱり、七海さんに捕られてしまった。
「七海さん……っ」
「黙って」
反抗しようとした私に、七海さんが強い口調で私から言葉を奪う。
「……私の『迷惑』をアナタが勝手に決めないでください。今アナタが失血によるショックで倒れることのほうが『迷惑』です」
七海さんは言葉を包むことなく、はっきりとそう口にした。
「いいですか、綾瀬さん。何度も言いますが、アナタはまだ子供です。守られて当然の立場にいるんです。だからこそ私がアナタを守ろうとするのは大人として当然の義務です」
子供を守るのが大人の役目だと。
映画館で『元人形』と戦った時も、七海さんは私と虎杖くんにそう教えてくれた。
絶対に、揺るがない意思を、七海さんは突きつけてくる。
「けれど……子供のアナタには大人の私を守る義務はありません」
それはまるで拒絶のように、聞こえて。
私の心が悲しく揺れる。
そんな私の感情を見透かして、七海さんは言葉を付け加えた。
「だからといって、誰かを守りたいという気持ちを否定するつもりもありません」
優しい言葉が、静かな声音に乗って私の耳に届く。
「義務感からではなく、ただ単純に綾瀬さんが私を守りたいと思ってくれるのなら……アナタは誰よりもアナタ自身を守らなきゃいけない」
自分を傷つけることでしか誰かを守れない私に、七海さんは諭すように言葉を綴る。
「自分が無事でいることができて初めて、誰かを守れたと胸を張って言えるんです。自分と他人を両方守る……それが、誰かを守ると決めた者の務めです」
私の「守りたい」は、本当に言葉だけで。
心のどこかに「守れなくても仕方ない」って諦めと言い訳が存在していた。
でも七海さんは違うの。
確かな覚悟で誰かを守ってる。
こんな意思を見せられて、安易な考えしか浮かばない私に、返す言葉なんてないの。
「アナタがその力で誰かを守りたいと、本当にそう思うなら……アナタはその力を使いこなせるくらいに強くならなきゃいけない。……私のことも、アナタ自身のことも、守れるように」
どんな時でも、七海さんの意思は変わらない。
虎杖くんに言ったように、七海さんは七海さんを助けようとした私のことを決して褒めはしない。
だけど貶すこともしなくて。
ただ純粋に、私が本当の意味で『誰かを守る』ことを為せるように、その術を教えようとしてくれてる。
「それができない今は……こういうお小言にちゃんと耳を傾けて、ちゃんと尻拭いをしてもらいなさい」
役立たずの自分を。
足手まといの自分を。
呪ってしまいたいくらいなのに。
私の心に巣食う、私が生み出した呪いを、七海さんが祓ってしまうの。
「いつか、アナタが誰かにお小言を言って、その尻を拭ってあげられるように」
私の肩を掴んでいた七海さんの手が、私の頬に滑る。
「……誰かを守るために、今は守られることを学びなさい」
その言葉と共に、その唇が、私の唇に触れた。
触れ合った舌先から、私の呪力が流れていく。
猛毒に等しいその呪いが、七海さんに流れて。
七海さんの頬が、その熱に浮かされて、赤く染まっていく。
(だ、め……)
特級呪術師さえも、熱に濡らすこの呪いを、七海さんが受けちゃだめなの。
「だめ……です……七海さん……」
私の呪いが、七海さんを呪う。
もう誰も、呪いたくなんかないのに。
「私が……っ…ぁ七海さんを……呪っちゃう、から」
このままじゃ。
七海さんが無条件にくれた優しさが、呪いのくれた優しさに変わっちゃう。
私の呪いにあてられて、七海さんが私に優しくするなんて嫌だよ。
七海さんのお小言を聞きながら飲むコーヒーが
突然用意されるご褒美のケーキが
七海さんと一緒に作る料理が
七海さんとの思い出全部、呪いに蝕まれて汚れちゃうから。
だから……。
「私の呪いを……ぅ…七海さんは……っ…受け取らな、で」
言葉で拒否しても、行き場を見つけた私の呪いは、七海さんに流れていきたくて暴れ出す。
嫌がってるくせに抵抗しない私は、いったい七海さんの目にどう映ってるんだろう。
「……っ、七海…さ、ん」
優しく舐め取るようなキスが、不意に止む。
七海さんが僅かに唇を離して、私をあやすように。
私の身体を抱きしめた。
「自惚れないでください、綾瀬さん」
厳しい口調。
なのに、私の頭を撫でる手は優しくて。
「あなたの呪いがいかに強力であろうと、我々は呪術師です。呪いに打ち勝つ術を持った人間です」
はっきりとした声音も、意思のある言葉も。
それらが全部、七海さんの心からの言葉だって分かるの。
「呪いに導かれるままアナタを襲うほど、私は落ちぶれてはいない」
抱きしめる腕が緩んで、私はまた七海さんと向かい合った。
七海さんの瞳が濡れている。
それがとても怖いのに、目を逸らすことができない。
「これ以上の失血は命に関わるので許しません。その上で、アナタの呪力を流す方法が他にこれしかないから、そうするだけです」
「でも……」
「じゃあ綾瀬さんは、コップとキスしたと思いますか? 思わないでしょう? コップに口をつけただけ。認識はたったこれだけのはずです」
たしかにそうだけど。
でも、それとこれとは話が別。
私はそう思うのに、七海さんの意見は私とは正反対。
「私とアナタが今からすることも同じです」
同じわけがない。
だってどうしたって、七海さんのことを考えちゃうから。
「……七海さんのことを、意識しないなんて……むりですよ」
どんなに頑張ったって、目の前には七海さんがいる。
七海さんとキスしているんだって、考えないようにしようとすればするほど、考えてしまう。
「……無理じゃありませんよ」
そう言いながら、七海さんは優しく頭を撫でてくれる。
この優しい手を、意識せずにはいられないの。
「アナタの呪力を流すためだけの行為です。そこに何の感情も存在しません」
七海さんはそうなのかもしれないけど。
でも、私はそんなに上手に割り切れない。
「七海さんに……こんなことさせる、くらいなら……痛いままで、いいです」
呪いの声に苛まれたままでいい。
七海さんを苦しめるくらいなら、呪いに刺されたままでいい。
「……良くないから死ぬ覚悟で血を流したんでしょう?」
この痛みと、体の中を巡る喧騒から逃げ出したい。
本音を言えば今すぐに、逃げてしまいたいの。
でもだからって、そんな私の我儘に、七海さんを巻き込んでいいはずないの。
なのに……。
「アナタが呪力を吸収する以上、これから先もこういう事態は起きるはずです。その度にアナタはただの呪力の交換に気を病んで、死を覚悟で血を流しますか?」
七海さんは私の心に手を差し伸べてくれる。
その手を取っちゃいけないって。
七海さんのことを思うなら、私はその手を拒まなきゃいけないって。
分かってるのに。
「好きでもない相手との口づけは不快かもしれませんが、守られる立場にいる間はそこを割り切りなさい。それが嫌なら、早く……守る側に転じなさい」
好きでもない相手とのキスが不快なのは、七海さんだって同じなのに。
七海さんは、こんなことになってる私を、絶対責めなくて。
涙が止まらないのは……不快だからじゃないよ。
七海さんの気持ちが優しすぎて痛いからなんだよ。
でもそんな大事な理由に限って、七海さんは分かってくれなくて。
「それでも苦しいのなら」
私の涙を苦痛の感情と捉えて。
七海さんはまっすぐ私の目を見た。
七海さんの熱を秘めた瞳に、泣きじゃくる無様な私が映ってる。
「アナタが思い悩むなら、せめて……アナタの気持ちがこもった口づけだけを『キス』と称してください」
私の呪いを受けたはずなのに。
七海さんはまだ、私の気持ちを汲んだ言葉を綴ってくれた。
「数ある口づけの中で、その人に与えた口づけだけが『特別』な『キス』なのだと……そう思うだけで心は変わるはずです」
私の涙を拭いながら、七海さんは私の心を解いて。
心の在り方を、私に教えてくれた。
「自己満足かもしれません。でもまずは、アナタが自分の心を変えなければ……相手の心も変わりませんよ」
ボロボロになった私の心を、七海さんが一つ一つ繋ぎ合わせていく。
「私がもしもアナタの恋人ならば……アナタが他人と口づけを交わした事実以上に……アナタが他人との口づけに多少なりとも感情を抱いたという真実のほうが不満に思いますよ」
大事なのは事実ではなく、真実なのだと。
そんなの屁理屈でしかないのに。
七海さんが言うから、その言葉が正解だって思ってしまうの。
「七海さん……」
宿儺と縛りを結んだ時点で、私にはもう五条先生を裏切る道しか存在しない。
それでももし、その裏切りを自分の中で肯定することができるなら。
「もしもそんな考えができるようになったら……」
『……僕と誓える皆実になってよ』
「その『特別』は大好きな人への……誓いになりますか?」
掠れた声で響いた私の問いかけに、七海さんはほんの少しだけ、小さく笑ってくれた。
「少なくとも……私なら、喜んで誓いますよ」
それは、私に都合のいい返事。
でも七海さんが、この問いかけに嘘を吐く必要なんてどこにもないから。
これも、きっと真実なんだって。
七海さんがくれる言葉だから信じられるの。
「……七海さん」
ごめんなさい。
最後にもう一度、心の中で謝って。
私は七海さんの背中に手を回す。
「あとでまた……いっぱいお小言聞きますから」
七海さんのお小言をちゃんと聞いて、努力するから。
だから。
「私を……助けて、ください」
いつか、きっと七海さんを守れる呪術師になるよ。
だから……どうか今だけは、弱い私を助けて。
私から、呪いを奪って。
そんな私の願いを聞き届けるように、私を抱きしめる七海さんの腕に力がこもった。
「……ええ、全力で」
七海さんの唇が、再び私の唇に重なる。
溶け合うように流れ出す呪力がどうしようもない快楽の渦を巻き起こすけれど。
(……大丈夫……大丈夫だよ)
この口付けには、呪い以外、何も介在しない。
そう言い聞かせて。
私は七海さんの舌に自らの舌を絡ませる。
できるだけ七海さんの負担にならないように、ゆっくりとこの毒を流す。
啄むように、舌を舐めて。
ほんの少しずつ、慎重に。
流れる呪いの濃さを確かめるように、口づけを交わしたら、ただひたすらに快楽が増幅して。
「……っ、ぅ…ん」
「……ん……っ…綾瀬、さん」
「…ふっ……ん……」
「……………せめて…っ……声は、我慢…しなさい」
「……っ…ぇ…ぁ…だ……って……ぅ、ぁ」
七海さんの口づけが、私の暴発した呪いを全部快楽に変えていくから。
どう頑張っても、声は抑えきれなかった。
でもそれだって……。
「……猫の、鳴き声…みたいな、もの、です」
七海さんの理論で言うならば、『猫が鳴いたところで欲情はしない』って。
それと同じなの。
唇を重ねたままそう伝えたら、七海さんは小さくため息を吐いた。
「本当に……困った子ですね……アナタは」
七海さんは眉を下げて、悩ましい顔してる。
でも口づけを止めることはしなくて。
私の呪いが鎮まるまで、七海さんは私の唇をあやしてくれた。
そんな七海さんの優しさに、私のほうが困っちゃうくらいなんだけど。
その気持ちだけは、私の心の中だけの秘密にした。
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