心の師 02

「綾瀬さんはコーヒー飲めますか?」

 私と五条先生をリビングに通して、七海さんが問いかけてくれる。
 七海さんが何をしようとしているのか察して、私は手を横に振った。

「あ、いいですよ。お構いなく……」
「いいんだよ、皆実。七海は僕たちをもてなしたいのさ。好きにさせよう。僕は砂糖増し増しがいい」
「アナタはもう少し遠慮してください。……それで、綾瀬さんはコーヒーでいいですか?」

 ため息まじりに五条先生に返事をして、七海さんは再び私に尋ねてくれる。
 心なしか、私に問いかけてくれる時の声は優しい気がした。というのも、比較対象が五条先生だからそう思うだけなんだろうけど。

「コーヒーが苦手なら、紅茶も用意できますが」

 もうすでに七海さんはカップを3つ用意していて、後はそこにコーヒーを注ぐか、紅茶を新たに用意するか、という状況。
 事前にコーヒーは専用の機械で淹れていたらしく、部屋の中はコーヒーのいい香りで満たされている。

「コーヒーが、いいです。……けど、少しお砂糖とミルクをいただきたいです」
「分かりました」

 私のお願いを七海さんは一つ返事で受け入れてくれる。
 悪い人じゃないということは、この一連の会話だけで分かった。
 七海さんがコーヒーをカップに注いで、まず私と五条先生の分を持ってきてくれる。私の目の前にコーヒーミルクを置いて、七海さんはまた自分の分を取りにキッチンに戻った。

「ねー七海、砂糖はー? 砂糖どこー!?」
「うるさいですね。テーブルの上の小さなポットの中に入っているでしょう」

 キッチンから、七海さんの答えが返ってくる。
 言われるままに視線を彷徨わせれば、テーブルの端にインテリアのようにして白い蓋つきの器が置いてあることに気づいた。

(……オシャレ)
「皆実、先に入れていいよ」

 お言葉に甘えて、私は角砂糖を1つ取り、コーヒーの中に沈める。
 シュガーポットをそのまま五条先生に渡して、ゆらゆらと揺れる角砂糖の周囲に円を描くようにしてミルクを落とした。
 コーヒーカップを持ち上げて鼻に近づけると、芳ばしい香りが鼻腔いっぱいに広がる。

(美味しそう……)

 一口飲んでみると、さっぱりとした苦味の中に芳醇な香りが隠されていて。
 上品な味わいが口の中を支配する。
 砂糖とミルクをいれたおかげでまろやかな仕上がりになって飲みやすい。たぶんブラックは、まだ私には『大人の味』だっただろう。
 それにしても、美味しい。

「五条先生、このコーヒーおいし……」

 感想を伝えようとして、私は固まる。
 視線の先、五条先生はコーヒーカップの中に角砂糖を1つ、2つ、3つ、4つ……え?

「何個入れるんですか?」
「甘くなるまで」

 そう答えながら、五条先生は尚も角砂糖を投入し続けている。
 もう10個は入っているはずだ。

「せっかく美味しいコーヒーなのに」
「綾瀬さん、無駄ですよ」

 自分のコーヒーを持って、七海さんが向かいの席につく。
 五条先生の奇行には目もくれず、静かにコーヒーを口にした。

「昔からコーヒーの出し甲斐のない方でしたから」
「オマエのコーヒーはやたら苦いんだよ」
「コーヒーが嫌なら紅茶も準備があると言ったはずですが」
「僕には聞いてくれてませぇーん! 皆実にだけ聞きましたぁーっ!」

 角砂糖が溶けきれずに浮かんでるコーヒーを、五条先生は口にする。見るからに甘そうなコーヒーを五条先生は満足げに飲んでいた。

「早速皆実の前でカッコつけようとして恥ずかしいヤツだな」
「その発言がすでに恥ずかしいですね。というか、アナタいつまで居座るつもりですか」
「何だよ、早く皆実と2人きりになりたいってか?」
「誰ですか、この人に不自由な日本語を教えたのは」

 息を吐くようにすらすらと会話が成立している。
 普通五条先生の『不自由な日本語』を前にしたら狼狽えたり困ったりするものだけど。
 七海さんは淡々と、冷静に的確な言葉を返していて。

「仲、いいんですね」

 私がそう呟いた瞬間、2人がバッと私の顔を見た。

「綾瀬さん、アナタも日本語が不自由なんですか?」
「皆実のバカもここまで来ると笑えないよねー」

 2人から同時に否定される。
 どう見ても仲良しなんだけど。

「五条さん、アナタ今日は上に呼ばれてるはずでは?」

 七海さんがため息まじりに問いかける。
 そんな話は聞いていなくて、反射的に五条先生を見上げたら五条先生が手をひらひらと振った。

「あーこれ終わったら行く」
「どうせどこかで伊地知君を待たせているんでしょう? 早く行ってあげたらどうですか」
「残念でしたぁ!! まだ予定時刻まで時間がありまぁーっす!」

 五条先生がそう声を張り上げた瞬間、そのポケットでスマホの着信がけたたましく鳴り響いた。
 けれど五条先生は一向にスマホを取り出さない。

「五条さん」
「五条先生」

 私と七海さんの声が重なる。
 五条先生は盛大なため息とともに「出ればいいんだろ、出れば」と言って尚も鳴り響くスマホを取り出した。

『五条さーーーーーん!!!』

 通話ボタンを押すや否や、伊地知さんの声が地割れする勢いで響き渡った。
 五条先生はスマホを耳には当てず、長い腕を伸ばして遠ざけてる。

「……何」
『今どちらに!? さ、さすがにもうこれ以上の遅刻は許されない遅刻になります!! 現在重要な用事の最中とは思いますが、何卒!! 何卒居場所を教えていただけないでしょうか!! お迎えにあがりますので!』

 泣き叫ばん勢いで伊地知さんが懇願している。
 声しか聞こえないのに伊地知さんがその場で何度も頭を下げている姿が想像できてしまう。
 スマホから聞こえてくる悲しい叫び声に、七海さんがまた深いため息を吐いた。

「そんなに大声を出さなくても聞こえていますよ、伊地知君」
『な、七海さん!? え……ということは本当に重要な用事!?』
「オイ、伊地知。どういう意味だよ」
『ヒィッ!』
「アナタが常にろくでもない言い訳で遅刻するからでしょう。安心してください、伊地知君。こちらの用事も済んでいますから、私の自宅マンションへ迎えに来てあげてください」
 
 七海さんに指示され、伊地知さんは敬礼でもしそうな勢いで『承知いたしました! 10分程で向かいます!!』と叫び、通話を切った。
 静かになったスマホを見て、五条先生はわざとらしく大きなため息を吐く。

「あーーー……上層部のハゲ共の話なんか、クソほどつまらないんだから終了5分前スライディングで十分だっつーの」
「為になる話ではないという点に関しては同意しますが、社会人なんですから時間は厳守してください」

 七海さんは静かに言ってまた一口コーヒーを飲む。
 初めて五条先生と七海さんの意見が一致したことに、少なからず驚いたけど。『上層部』の人たちは七海さんから見ても気難しい方々なんだろう。
 他人事のように思いながら、私は七海さんの淹れてくれたコーヒーに手を伸ばす。
 けれど、私のコーヒーカップは五条先生に奪われてしまった。

「ちょっと、僕とのお別れの時間が迫ってるのに、何のんきにコーヒー飲もうとしてんの」
「美味しいコーヒーなのでつい」
「苦いだけじゃん、こんなの」

 そう言って、五条先生が私のコーヒーカップを自分の口へと持っていき、そのまま一気に口の中に流し込んだ。

「五条先生!?」

 私のコーヒーは角砂糖1個とコーヒーミルクを1カップしか入れていない。五条先生のコーヒーと比べたら格段に苦いのに。

「な、七海さん、水もらっていいですか!?」
「その前にちゃんと自衛してくださいね。綾瀬さん」
「え」

 慌てて、席を立った私の腕を五条先生が引っ張って。

「……っ!」

 ほろ苦い味が私の口の中に流れてくる。
 五条先生が私に口移しでコーヒーを飲ませていた。

「……んんっ、ふ、…ん……っ」

 胸を叩いても五条先生は離れてくれなくて。
 最後の一滴まで全部、私の口の中に流し込む。
 コクンと私の喉が鳴って、コーヒーの味が私と五条先生の口の中を行き来した。

「五条先生っ!」

 唇が離れてすぐに私がその名を呼んだら、五条先生は悪びれもなくニッと口角をあげた。

「苦ーいキスなんて、忘れたくても忘れらんないでしょ」

 そう口にして、再度五条先生が私にキスをする。

「いなくても……僕のこと、忘れるなよ」

 確認するように言って、五条先生が私の頭を撫でてくれる。
 忘れるわけないじゃんって、そう口にしようとして。

 鮮明な咳払いが、花畑に向かおうとしていた私の頭を現実に帰してくれた。

「お二人とも、まずはココに私がいるということを忘れないでくださいね」

 七海さんの的確な指摘を受けて、恥ずかしさのあまり顔から火が出そうだった。



◇◇◇



『じゃあ、皆実。……またね。…………オイ七海、皆実の写真毎日撮って送れよ。そして送ったらすぐオマエの端末から消せ』

 そんなことを言い残して、五条先生は最後まで五条先生らしく、七海さんの家を後にした。

「やっとうるさい人がいなくなりましたね」
「……すみません。いろいろ」

 私が頭を下げると、七海さんは「いいえ別に」と静かに答えた。

「まあ人前でキスするのはどうかと思いますが」
「……はい」
「あの人が相手なら力の差も加味して綾瀬さんは抵抗できないでしょう。抵抗する気があったかどうかは知りませんけど」

 七海さんは淡々と言って、コーヒーを飲む。
 けれど七海さんはこれ以上その話を長引かせるつもりはないらしく、コーヒーカップを机の上に置いて、姿勢正しく私と向き合った。

「改めてご挨拶を。七海建人です。等級は一級。残業は嫌いですので、私の任務に同行する際は迅速に行動を」

 スラスラとテンプレのような自己紹介をして、七海さんは口を閉じる。
 訪れた沈黙が、私の自己紹介の番だと教えてくれた。
 何を言えばいいだろうと、私は視線だけ上にあげる。そうしたところで頭の中は見えないんだけど。

「綾瀬…皆実、です。等級はなくて……えっと、いろいろあって呪詛師の疑いで執行猶予つきの秘匿死刑になってたんですけど…このあいだの少年院の事件で、死んだことになってます」

 そこまで告げて、七海さんの顔色を伺うように前を向く。
 そうしたら、頭を抱えた七海さんが映った。

「な、七海さん?」
「……私の人生で5本指に入る奇抜な自己紹介ですね」
「え」

 七海さん相手だから頑張って考えて、自分を紹介したのに。

(なんでだろう…)

 そういえば学長面談の自己紹介も変だったって五条先生に言われたっけ。
 何が変なのか、いまだに分からないんだけど。

「まあいいでしょう。では、部屋を案内するのでついてきてください。一人暮らし用の部屋なのであまり広くはありませんが」

 七海さんがそう言って席を立ち上がる。私もそれについていくようにして席を立った。
 まずは毎日使うトイレと浴室、必要な備品の在り処を教えてくれる。そしてその途中で寝室を教えられ、キッチンに戻った。

「冷蔵庫のものは好きに使ってかまいません。ちなみに綾瀬さんは普段から料理をされますか?」
「……五条先生の家ではいつも作らされてましたけど、上手ではないです。いつも五条先生に酷評されてました」

 私が答えると、七海さんはまたため息を吐いた。

「あの人はいつまで経っても、精神年齢が実年齢と体格についてこないようですね。……では、時間が合う時には私が綾瀬さんの食事も用意します。その代わり綾瀬さんは部屋の掃除を。お願いできますか?」
「そ、そんな……居候させてもらうのにご飯まで用意してもらうなんて」
「私の分を作るついでです。何事も『適材適所』と言うでしょう。得意なことを得意な人がするのが効率的です。アナタが作りたいのであれば話は別ですが」

 五条先生とは正反対の考えを披露して、七海さんは私に向き直る。

「それから、私とアナタが一緒に生活する上での必要最低条件を決めておきましょう」
「必要最低条件……?」
「ええ。私からは1つ、綾瀬さん自身の身体能力の強化です。私と行動する中で、私が必ずアナタを助けられるという保証はありません。ですから、これから毎日私と体術の稽古を」
「え…いいんですか?」
「職務時間に行いますので問題ありません。それにアナタにはある程度動けるようになってもらっていた方が、後々の私の手間も省けるでしょう」

 一気に話して、七海さんは大きく深呼吸をする。
 そして、メガネのブリッジに中指を押し当てた。

「私からは以上です。次、綾瀬さんから私に1つ条件を。複数あるのなら、すべて提示していただいてもかまいません」

 思ってもない言葉に戸惑ってしまう。
 居候の身で条件なんて図々しい気しかしない。
 でも……。

「何でも良いんですよ。あくまで対等であるための条件です。私から1つ提示したので、アナタからも最低1つ私に条件を提示してください」

 無いという意見はおそらく聞いてもらえない。
 だからといって、これという条件は思いつかなくて。

「じゃあ……」

 できるだけ、七海さんの負担にならない条件を考えたら、それしか思いつかなかった。

「暇な時でいいので……料理を教えてください」

 私の提示した条件に、七海さんはわずかに口を開ける。
 唖然としたような仕草の後、七海さんはすぐに無表情に戻って咳払いをした。

「……では、その条件で」

 そうして七海さんが私に手を差し伸べる。

「今日からしばらく、よろしくお願いしますね。綾瀬さん」
「こちらこそ……よろしくお願いします」

 差し伸べられた手に触れる。
 七海さんは、意外に温かい手をしていた。



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