反魂人形 05
五条先生と一緒に温泉に入って。
五条先生がくれる愛情が嬉しかったのに、私は意識を飛ばした上に、のぼせてしまった。
その後介抱された私はそのまま寝落ちしてしまったらしい。
眩しい朝日が私の罪悪感を照らした。
(……死にたい)
五条先生は昨日も任務で疲れてたのに。
仕事を増やして、しかもお礼も言えずに眠った自分が信じられない。
「世界の終わりみたいな顔してどうしたの、皆実」
私の隣、ベッドに頬杖をついて寝転んでる五条先生が尋ねてくる。
今日も変わらず、綺麗な顔をした五条先生と目があった。
ていうか……ツインベッドなのに、一緒に寝てたらツインの意味ないんじゃないかな。
「このベッド大きいから、余裕で2人で寝れるじゃん?」
「……何も言ってません」
「顔に書いてあるんだよ」
懐かしいやり取りのように感じた。
五条先生が、私の考えてることを勝手に読んで、話を進めちゃうのなんて、いつものことだった。
私が、一度死ぬまでは。
そのいつも通りが嬉しくて。
また視界が霞み始めたら、五条先生が私の後頭部に手を滑らせて、その胸に引き寄せてくれた。
「泣くなって……言ってんじゃん」
「まだ……泣いてないです」
鼻にかかる声で五条先生に答えた。
言い訳したって、五条先生の服を湿らせてるのは私だった。
撫でてくれる手が、優しすぎて、涙腺は簡単に崩壊する。
「五条先生……おはようございます。昨日は、ごめんなさい」
「おはよ。なんで皆実が謝んの? 皆実に無理させたのは僕じゃん」
「無理なんかじゃ――」
顔を上げた私に、五条先生がキスをした。
五条先生に塞がれた声が、快楽で揺れる。
「なら、大丈夫だね」
五条先生が唇をわずかに離して、軽く触れ合わせたままクスリと笑う。
五条先生のくれる甘い言葉が、私の罪を全部洗い流してくれるみたいに響いた。
「五条先生セレクト☆北海道スイーツ巡りの旅。行くでしょ、皆実」
拒否の選択肢があるわけない。
頷いた私を、五条先生がまた優しくあやすように撫でてくれた。
「じゃあ、今日はずっと笑ってて。僕が笑わせるから」
頭を撫でていた手が、頬に滑る。
そのまま、また私の唇を、五条先生の唇が優しく食んで。
「約束だよ」
五条先生の綺麗な瞳が、楽しげに私を見つめた。
◇◇◇
五条先生が用意してくれた服に着替えて、私は五条先生と一緒に札幌観光を満喫する。
昨日は急だったから、TDLの時に五条先生がくれた服を着て札幌にやってきた。結局旅館にいるだけだったから、それを誰かにお披露目するってことにはならなかったけど。
今日の服装は、五条先生が五条家の人に急遽用意してもらったもの。朝一で旅館に届けてもらったらしい。
(本当にすごいなぁ……五条家)
そんなことを思いながら、自分の服に視線を落とす。
白の襟付き花柄ワンピース。七分丈だけど生地がしっかりしていて、薄着感はないから、TDLの時の服よりも安心感がある。
女の子らしさが溢れる衣装で、似合うか不安だったけど。
『マジで似合ってる。僕の待受決定』
と言って、五条先生がスマホで私の写真を撮っていた。
さっきチラッと見えたスマホの画面は本当に、今日の私の姿になっていた。
(……五条先生って、実際どういう服が好きなんだろ)
制服とTDLの服と、今日の服――五条先生が選んでくれた服の趣向がそれぞれ違いすぎて、五条先生の好みが全然分からない。
そんなことを考えながら、私は目の前のサングラスをかけた五条先生を見つめた。
「皆実は何食べるー?」
私の視線に気づいて、五条先生が私にメニューを見せながら問いかけてくる。
五条先生の案内でやってきたのは、札幌で有名なケーキ屋さん。イートインができるということで店内の広い席に案内されたのだけど。
「……五条先生、まだ食べれるんですか?」
私が尋ねると、五条先生は質問の意味が分からないと言いたげな顔で首を傾げてる。
今来ているケーキ屋さんは、本日5件目のスイーツ店だ。
各お店でこれでもかというくらいに人気のスイーツを食べ尽くしているはずなのだが。
「うん、余裕。何? 皆実、もう食べれない?」
「……飲み物でいいかな、と」
それぞれのお店でケーキやアイスを食べてるから結構お腹にキている。もともと少食な方だから、正直今日はもう何も食べなくてもいいくらいだ。
私の返事を聞いた五条先生は「えーーーーーー……」と不満しかない声を上げる。
「じゃあ僕が頼んだのを一口ずつ食べるのは?」
「……五条先生がそれでよければ」
私がそう答えると「もちろん」と言って、五条先生が店員さんを呼んだ。
サングラス姿の五条先生は特にオシャレをしてるわけでもなく、鎖骨丸見えのTシャツとジーンズといったシンプルな格好。
でも溢れ出る風格というか……色気というか。
それを隠しきれていないから、呼び出された女性店員さんが頬を染めながら小走りでやってきた。
「ご注文お決まりですかー?」
私とは全然違うキラキラした目で、店員さんは五条先生を見つめる。
少し大人な空気漂う綺麗なお姉さん。たぶん歳は五条先生より少し年下くらいじゃないかな。
五条先生はその店員さんに微笑んで、メニューを掲げてみせた。
「えっとーコレとコレとコレとコレとー……あ、コレはホイップ増し増しで」
「はーい、増し増しですね! ちなみにこのティラミスも今月のオススメなんですけど、いかがですか?」
「え、マジ?」
「マジです♪」
店員さんの言葉尻にハートマークが飛んで見えた。
五条先生は大量の注文に付け加えて、そのティラミスもお願いする。注文の量がもはや怖いのだけど。
注文を受けるお姉さんは終始にこやかで、注文の確認をしながら五条先生に話しかける。
「お兄さん、ケーキお好きなんですか?」
「うん。ケーキっていうか、甘いもの全般大好き」
サングラスを少しずらして、五条先生がウインクする。
その行動に店員さんの元からキラキラしていた目がハート型に変わった。
(……わー)
店員さんの反応を楽しんで、五条先生はわざと相手の求める振る舞いをしてる。
なんというか、芸能人のファンサービスを見ているような気分だ。
「でーも、僕の皆実ちゃんはあんまり甘い物好きじゃないみたいだから……この子のためにとびきり美味しいの持ってきてね」
話を切り上げるように言って、五条先生が店員さんに笑いかける。
わざわざ私の存在をアピールしたのは、店員さんに一線を引くためだろう。
(……慣れてるなー)
目の前で繰り広げられたやり取りは五条先生の経験を彷彿とさせた。
五条先生が一線を引き終えると、店員さんは少しだけ残念そうに肩を落として奥に消えていく。
それと同時に、五条先生は満足げに背もたれに体重をかけた。
水を飲む五条先生をじっと見つめていたら、五条先生が首を傾げた。
「何? 僕に見惚れちゃって」
「いえ……やっぱり五条先生ってモテるんだなあと思って」
素直に思ってることを告げたら、五条先生が瞬きを繰り返した。
店員さんの一連のやり取りはもちろん。実際、さっきの店でも、ここでも……五条先生は店内の女性たちの視線を独り占めしてる。
「何を今さら。あ……もしかして皆実ちゃん嫉妬!? 嫉妬しちゃってるの!?」
「違います」
別にそういうつもりで言ったわけじゃない。
心の中で追加で否定するけど、目の前の五条先生は「嫉妬なんてかわいいねぇ」と言葉を止めない。
「まあ僕はモテるけどさ。でも皆実と比べれば全然でしょ」
「……五条先生も謙遜することがあるんですね」
「常にしてるだろ」
即答されて言葉に詰まる。
(謙遜してる人は自分のこと『イケメン』とも『最強』とも言わないような……)
「謙遜した上で僕はやっぱり『イケメン最強呪術師』ってだけの話だろ」
しっかり心を読まれて、言い返された。
「それに謙遜を抜きにしても、皆実は僕よりモテるよ。今日だってずーっと街中で『あの子かわいー』って噂されてたじゃん」
(……そうだっけ)
だいたいそういう視線があれば、同時に生まれてくる嫉妬や厭らしい感情が流れてきて、教えてくれる。
でも今日は、五条先生との特訓のおかげで呪力の吸収を制御できてるからか、あんまり負の感情が流れてこなくて分からなかった。
「僕が今日も今日とてバカみたいに皆実をかわいくしちゃったから、男どもはみーんな隣歩いてる僕が羨ましいって顔してたよ。……ったく、わざわざこんなこと言わせるとか僕を嫉妬で殺したいの?」
五条先生は「あー、糖分欲しい」って文句言いながら水を全部飲み干した。
「早くケーキ来ないかなー。皆実のせいで体内の糖分がゼロになったし、早く補給しないと」
「……てゆーか、ケーキ頼みすぎじゃないですか?」
「イヤイヤイヤイヤ、ここの定番メニューの季節のフルーツタルトと生クリームたっぷりパンケーキとチーズケーキとガトーショコラはマストで頼まなきゃでしょ」
「……そんな義務があるんですか」
「そんでもって、僕が個人的に気になってる苺ショートケーキとアップルパイは食べたいじゃん」
「…………そうですか」
「他人事みたいに返事してるけど、皆実も一口ずつ食べるんだからね」
分かっているから遠い目をしているのだ。
ただでさえ口の中が甘ったるくて仕方ないのに、また大量の甘味を食べることになるのかと思うと中和する辛いものが食べたくて仕方ない。お腹いっぱいだけど。
「皆実は本当に少食だよね。まだまだ歩き回るんだから定期的に栄養補給しないと」
五条先生がため息まじりにそう告げる。
でもその言葉は、少し前に大切な友人たちがくれた言葉と同じで。
『飲み物!? まだまだ動き回るんだからなんか食べないと死ぬわよ!』
『食べきれないときは俺が残り食べるからなんか頼めよ! これとかオススメらしいぜ?』
蘇った温かな記憶に、心が揺れた。
「なーに? 僕との間接チューを想像してドキッとしちゃった?」
「いえ……TDLの時のことを思い出して」
素直に答えると、五条先生が面白くなさそうな顔をした。
「皆実が恵とイチャついてたTDLね」
「誤解ですよ」
あくまで伏黒くんはずっと私のことを心配してくれてた。
実際ご飯を食べる時も、私のことを優先してくれて。
「今みたいに私がご飯あんまり食べれないから……伏黒くんがフレンチトースト半分ずつにしてくれたんです」
2人で分け合ったフレンチトーストはとってもおいしかった。
思い出すと、少しだけ頬が緩む。
「ねえ」
思い出に浸る私のことを、五条先生がニンマリ笑顔で見つめていた。
「やっぱり、皆実は僕を嫉妬で殺したいの? それともお店破壊したいの?」
「どちらも考えてすらいないんですけど」
「イヤイヤイヤイヤ、他の男と間接キスした話されて僕が平気なわけないじゃん?? 考えれば分かるじゃん??」
「分かんないですよ。別に間接キスなんかしてませんし。普通に分け合っただけです」
「何を分け合ったんだよ、幸せか??」
「フレンチトーストです」
五条先生の暴走気味の尋問に淡々と答える。
そのやり取りも、以前の私と五条先生が何気なくしていたもので。
(……普通に、喋れてる)
五条先生と普段通りに喋れてる。
それも全部きっと、五条先生のおかげ。
五条先生が以前の私たちの間にあった空気を作ってくれてるから。
「デートしてる時くらい、僕のことだけ考えなよ。他の男のこと考えるとかマジ無理」
「……五条先生のことしか考えてないですよ」
「ほらまた恵の話……え?」
素直に答えたら、五条先生が固まった。
すべての動きを止めて、じっと私に視線を向けていたかと思えば。
盛大なため息を吐いて、大きな両手で自分の顔を覆った。
「五条先生?」
「悩殺で死ぬかと思ったわ。どうやっても僕を殺す気じゃん」
「そういうつもりではないんですけど」
「は? 無自覚に人を悩殺させてんの? 怖すぎだろ」
「先生の感覚が怖いです」
「イヤイヤ、普通のこと言ってんじゃん。嫉妬殺しはいらないけどデレ殺しはいくらでも欲しいんだって。逆になんで分かんないの? やっぱバカだろ。バカに拍車かかってんじゃん、バカ」
「キレ方が理不尽すぎません?」
そんなにバカを連呼する大人って五条先生以外にいるのかな? 子どもの駄々を聞いている気分なんだけど。
「ハイ、皆実は僕を怒らせたので僕から『あーん』で食べさせてもらう権利を失いましたー」
「普通に自分で食べるので大丈夫です」
「返事が不正解ー。正解は『やだ、五条先生。食べさせて』デーッス!」
「……公共の場で恥ずかしいこと言わないでもらえますか」
「2人きりだったら恥ずかしいこと言いまくるくせに」
「……叩きますよ」
私が上目に五条先生を睨むと、五条先生は楽しげに声を上げて笑った。
五条先生の心の底からの笑い声も、なんだかすごく懐かしく思えて。
「お待たせしましたー」
運ばれてきた大量のケーキと、そのケーキにテンションを上げる五条先生の両者に、顔を青くしてしまうけど。
それでも、その表情とは裏腹に、私の心は踊ってて。
「皆実、僕への暴言は許してあげるから。はい……『あーん』」
ふわふわの生クリームに包まれたケーキを、一口サイズに切って五条先生が私に差し出す。
フォークに刺さったケーキが私の胃を苦しめるって分かってるのに。
私の口はその言葉に逆らうことなく開いて。
「美味しいでしょ?」
五条先生のせいで、正直味なんて全然分からないけど。
でも、やっぱり私は。
文句なんて全部消してしまうほどに。
五条先生がくれる甘さが、大好きで仕方ないんだ。
◇◇◇
お腹をはち切れそうなくらいにパンパンにして。
私と五条先生が次にやってきたのは、札幌の人気スポットの一つとされる公園だ。
わりと都会の中心部って場所なのに、自然豊か。
緑いっぱいに囲まれて、大きな池の中、涼しげに水面が揺れている。
のどかな、穏やかな空気が漂う公園。
けれど、そんな静かな雰囲気に似つかわしくない声が目の前から飛んできた。
「ねえ、皆実。僕アッチに行きたいって言ったよね?」
私と五条先生は今、綺麗な池の上、2人でボートに乗っている。
手漕ぎボートで五条先生の指差す、景色の綺麗な方へ向かってるはずなのに、ボートは全然違う方へと進んでいっていた。
「アッチに行くように漕いでるつもりなんですけど行かないんですよ。五条先生が漕いでください」
なぜか、ボートに乗った瞬間、五条先生が私にオールをもたせた。
ただ漕ぐだけだろうと思ってたんだけど、漕いでみたらその考えが甘かったと思い知る。
全然思ってる方に進まなくて、驚愕した。
「毎回言ってるでしょ。できる僕がしても意味ないって」
絶対五条先生が漕いだら、ちゃんとした方に進むはずなのに。
五条先生はオールを持とうともしない。
下手くそな操縦をする私を笑うだけだ。
「そのままじゃ乗り上げるよ、皆実」
「笑ってないで助けてくださいってば!」
「めっちゃ必死じゃん」
笑い事じゃない。
本当に浅瀬に乗り上げそうなんだけど。
(ヤバイヤバイ、この場合、オールってどう動かせばいいの)
慌てすぎて冷や汗が滲む。
そんな私をあくまで笑いながら、五条先生は私の手に自分の手を添えた。
「ハイ、そのままこっちだけ動かす。そうそう」
私の手を誘導して五条先生がオールを漕ぐ。
五条先生が動かしただけで、その動きに導かれるようにボートの向きが正しい方へと転換した。
「……術式使いました?」
「どう使うんだよ。そもそも皆実に触ってんだから使えないし。僕の実力だね」
本当にビックリするくらい五条先生はなんでもできちゃう。
ボートを漕ぐ機会なんてそんなに多くないはずなんだけど。
(なんでこんなに上手なんだろ)
理由を考えたら、その考えに行き着いた。
「ボートデート、いっぱいしたことあるんですね」
辿り着いた結論を口にしたら、五条先生が笑顔のまま固まった。
「僕デート初めて」
「もうちょっとマシな嘘があるでしょうに」
「世界で一番嘘が下手な子に言われたくないんだけど」
五条先生がブーッと頬を膨らませて、私の手を離す。
五条先生の誘導がなくなった途端、ボートがあらぬ方向へとまた進み始めた。なぜ。
「五条先生、手離さないでください」
「繋ぎたい?」
「違います」
「そこは『繋ぎたいです』でしょうが」
やれやれといった様子で五条先生はまた私の手に自らの手を重ねる。そうしたらやっぱり、ボートの向きが正しい方へと直った。
「それにしても、心外だよね。こんなに一途な僕が誰とでもデートしまくるような男だなんてさあ」
「そうだったとしても驚きはしないって話です。……いい気はしませんけど」
「突然デレるのいい加減にしろよ、照れるだろ」
「なんでキレ気味なんですか」
私が眉を下げると五条先生が肩を竦めた。
「ボートの上ってさ、一番逃げ場がないんだよ」
「池の上ですからね」
「そう。相手の顔を見るか、景色を見るか、話をするかっていう……気を許してない人間と乗るのは結構苦痛なんだよ」
それが分かる時点で、そういう経験があるってことなんだと思うけど。
私がそんなツッコミを入れる前に、五条先生が身を乗り出してくる。
「ちょっと、五条先生! バランスが……」
「大丈夫。僕、バランス感覚も完璧だから」
揺れたボートは転覆せずに、バランスを保っている。
けれどおかげで五条先生がボートの上、目と鼻の先に顔を近づけてきた。
「……周りに人いますからっ」
「そうだね。だからそんなに顔真っ赤なの?」
五条先生がクスクス笑う。その笑う吐息が顔にかかってくすぐったくなる。
身じろぎした私を五条先生は「かわいい」なんて言ってまた笑った。
「皆実だけだよ。ずーっと見ていたいと思える顔してんのも、ずーっと話してても飽きないくらいバカなのも。景色なんて全然見ようって気にならないし」
せっかく景色が綺麗に見える場所にボートを漕いでるのに、なんてことを言うんだろう。
「だからってこんなに間近で見なくても……」
「見たいんだから仕方ないじゃん。皆実が悪いよ」
五条先生が手を離す。そうしたらまたボートがあらぬ方向に進んでいくの。
「先生……っ」
五条先生の手が私の頬に触れる。
人目が気になるはずなのに、私はその手からやっぱり逃れようとしなくて。
(……!?)
キスされる、と思っていたのに。
目の前を水飛沫に遮られる。
「え……」
なぜか五条先生だけがびしょ濡れになっている。
突然の出来事に思考が追いつかなくて。
「先生、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない、全然」
サングラスをはずし、五条先生が髪をかきあげて横を向いた。
五条先生の視線の先、私たちの真横にはボートに乗った少年とその母親らしき人がいる。
「ご、ごめんなさい! うちの子が……っ!」
少年のお母さんがボートの上で五条先生に頭を下げる。
どうやら少年がオールを勢いよく水面にぶつけて、その水が全部五条先生にかかったみたいだ。
「だってコイツらのボートがオレたちの方に近寄ってきてたんじゃん! 危ない漕ぎ方して、ヘタクソ!」
「誰がヘタクソだって?」
小学生くらいの少年の言葉に、本気で五条先生が反応する。いや、28歳落ち着こうよ。
「コラ、失礼なこと言わないの! 謝りなさい!」
「イヤだね。絶対悪いのソッチだもん。オレがこうやって合図送らなかったらぶつかってたし」
少年はフン、とそっぽを向く。
でも少年の言う通りだ。危ない漕ぎ方をしていたのは私の方。
私はすぐに謝ろうとしたんだけど、私の声にかぶせて大人げない大人が大きな声を出した。
「ヘタクソなのは僕じゃなくて皆実でーす! そして皆実のクソみたいな漕ぎ方をバカにしていいのも僕だけだから文句言うなよ、ガキンチョ」
「はあ!? オマエこそ大人のくせに子どもみたいなこと言ってんじゃん!」
「僕は大人ですー!!!」
聴いてるこっちが恥ずかしくなるような問答をしている。
もはや少年のお母さんも半目だ。
「五条先生」
「皆実は黙ってて。僕の華麗な漕ぎ方見せてやる」
「見たくねぇよ! ヘタクソ!」
「マジクソガキなんだけど?」
「五条先生! お母さんの前でそんなこと言わないでください! すみません、本当に!」
「いえ……ウチの子もすみません」
私とお母さんが頭を下げ合う中、五条先生と少年は口論をやめない。
「カッコつけヘタクソ」
「カッコつけなくてもカッコいいんだよ」
子どもと本気で喧嘩してる。
一向に止む気配のない口論を聞いていたら、もう呆れを通り越してしまって。
思わず笑ってしまった私を、五条先生がすぐに見た。
「……ごめんなさい。でも……ふっ…五条先生……もう少し大人の対応してください」
言いながら肩が震えるのを止められなくて。
言葉に笑いが混ざってしまう。
絶対に「何笑ってんの」って怒られるなって思ったんだけど。
「おい、ガキンチョ」
五条先生が私から視線を逸らして、隣のボートにいる少年の頭に手を伸ばした。
「なんだよ、触るな! ナルシストがうつる!」
五条先生の手を跳ね除けようとしたその腕を五条先生が掴んで、ぐいっと引き寄せる。
「僕は水も滴るイイ男だけど、人に水はかけるなよ」
先ほどまでとは違う、静かな五条先生の空気。
その異様な雰囲気に気付いて、少年の文句の声が止まる。
少年がゴクリと唾を飲む音が盛大に響いて。
五条先生の手が少年の頭をくしゃくしゃに撫でた。
「でも今回は、お姉ちゃん笑わせたから許す。それと僕も余所見して漕いでて悪かった」
薄く笑んで、五条先生が少年に謝った。
そして、その向かいにいるお母さんにも頭を下げる。
突然の行動に少年もお母さんも驚いて。
「オレの方こそ……ごめんなさい」
少年が素直に謝って、五条先生が少年の頭をポンポンと叩いた。
少年との仲直りが済んで、私たちはまたボートを漕ぎ始める。
今度は最初から五条先生もボートを漕ぐのを手伝ってくれた。
「服濡れたままで大丈夫ですか?」
「まあそのうち乾くっしょ」
適当に言って、五条先生は私のことを見つめる。
「僕が見たかったもの見れたし、服が濡れたくらい安いもんだよ」
サングラスの向こう側、五条先生が優しい眼をしている気がした。
「やっと笑ってくれたね、皆実」
私の笑顔を、私よりも喜んでくれる五条先生の姿が、私の心をキュッと締めつけた。
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