雨後 02
※五条視点
遺体安置所の隣室――遺体解剖室に、僕は呆然と立っていた。
◇◇◇
さっさと出張を終えた僕は、皆実が高専から帰ってくるのを待っていた。
皆実と食べるために買ってきたご当地スイーツを机に並べながら、可憐な声が「ただいま」と家の扉を開けるのを楽しみにしていた。
その扉が開いたら、まず一言目は何にしようか。
いきなりキスしてがっついたら、きっと可愛くむくれてくれるのだろう。
皆実のクッキーのお礼に「本当に美味しいスイーツを買ってきたよ」なんて言ったら、きっと「もう作りません」って愛らしく不貞腐れるのだろう。
僕の前ではコロコロ変わる、皆実のいろんな表情が見たくて。
どんな言葉を選んだら、皆実が可愛くなるだろうって。
今朝のクッキーだって、そりゃあお店の味に比べたら全然だけど。
でも皆実が作ったと思えば全部食べてしまえるくらい、好きだった。
皆実に告げた文句なんて、所詮僕が皆実をからかいたいだけの戯れ。
僕はまた、皆実との新たな戯れを計画して、鼻歌を歌う。
(スイーツ、口移しで食べさせてみようか)
のんきに、愉快に、何も知らずに。
頭の中に、枯れるのを待つだけの咲き誇る花畑を浮かべて。
そうして鳴り響いた、不協和音。
ポケットで鳴り響く、僕のスマホが着信を伝えた。
スマホの画面には【伏黒恵】の文字。
いつもみたいにからかう調子で電話に出てみれば、生気を失ったような声が届いてきて。
『五条、先生……綾瀬と虎杖が――』
僕に、一つの事実を伝えた。
◇◇◇
布で覆われた目の前の遺体に、手を伸ばす。
顔が見えるように、その布を剥がしてみれば、見紛うはずのない、皆実の顔が現れた。
魂が抜け落ちたとは思えないほど綺麗な顔がそこに横たわっている。
ともすれば、「おはようございます」なんて言って起き上がりそうなほど綺麗な顔をして、皆実の抜け殻が眠ってる。
その抜け殻の傍に、遺品として置かれた小刀は僕が皆実に与えたもの。
皆実を守るために与えた小刀――それが皆実の命を奪うことになったなんて。
(……皮肉にも程があるだろ)
唇を噛んで、その事実をなんとか咀嚼しようと試みるけど。
咀嚼しきれなかった想いが怒りとなって僕の手に力を加えた。
力任せに握った布に、大きな皺が寄る。
その布を少し浮かせて中を覗き込めば、皆実の真っ白な肢体が映り込んだ。
皆実の身体の傷はたった1つ。
その小刀でつけた胸の致命傷のみ。
死んだ姿さえ、皆実は美しいままだった。
綺麗すぎるほど綺麗な、その抜け殻を見ているのが苦しくて。
僕は視線を隣に移す。
(皆実とは逆に……悠仁はボロボロか)
隣の遺体の布を剥がせば、悠仁の抜け殻が現れる。
胸の傷以外、すべてが美しいまま保たれている皆実とは正反対に、悠仁の身体はボロボロだった。
顔も傷だらけ、胸は乱暴に裂かれて肉が丸見えになっている。
(……酷い有様だね)
2人にかける言葉もない。
かけたところで、返事がないと分かっているなら、余計に辛いだけだ。
(……2人から、目を離すべきではなかった)
後悔なんて、大嫌いだけれど。
この後悔を抱かずにはいられない。
2人の抜け殻に再び布をかけたら、自然と僕の足は現実から遠ざかるみたいに後退して。
背後にあったストレッチャーにぶつかった。
そのストレッチャーを避けるのも面倒で、僕はその上に腰掛ける。
どうしてこんなことに、なんて。
そんな下手な疑問符など掲げる気は毛頭ない。
理由なんて、考えなくともすぐ分かる。
分からないだろうなんて思ってるのは、脳味噌を腐らせた馬鹿どもだけだ。
言い表しようもない感情が胸の中でひしめきあう。
この感情をどうすることもできないから。
僕は目の前で萎縮している伊地知にその感情をぶつけた。
「わざとでしょ」
僕が静かに呟くと、伊地知の体が震えた。
「と、仰いますと」
僕が言いたいことなんて、察しのいい伊地知ならすぐに分かるはずなのに。
僕の感情が恐いのか、伊地知はすっとぼけてる。
そんなに震えている時点で、今回の件には予め問題しかなかったと白状しているようなものなのに。
「特級相手、しかも生死不明の5人救助に、一年派遣はあり得ない」
伊地知の言動さえも不快で。
僕はわざと僕の苛立ちを詳細に説明してみせた。
「僕が無理を通して皆実と悠仁の死刑に実質無期限の猶予を与えた。面白くない上が僕のいぬ間に特級を利用して体よく2人を始末ってとこだろう」
自分の保身しか考えられない馬鹿が考えそうな浅はかな計画。
それにまんまと引っ掛かった自分にも腹が立って仕方ない。
「他の2人が死んでも僕に嫌がらせできて、一石二鳥とか思ってんじゃない?」
怒り任せに言葉を続けたら、伊地知が申し訳程度の否定を始めた。
「いやしかし、派遣が決まった時点では本当に特級に成るとは……」
思っていなかった?
そんな言葉がこの状況で通用すると思っているのか?
だとしたら、呪術界に未来なんてもうないだろ。
「犯人探しも面倒だ」
もう、いっそのこと。
「上の連中、全員殺してしまおうか?」
綺麗さっぱり全部掃除してしまえば、この感情に整理がつくだろうか。
その答えも、僕はちゃんと分かってる。
そんなことをしても、悠仁は生き返らない。
皆実が僕に笑顔を向けることも、可憐な声で僕の名を呼ぶこともない。
それが分かってるからこそ、苦しくて。
僕が、僕自身を許せなくて。
自暴自棄になりかけた僕を、その声が引き留めた。
「珍しく感情的だな」
硝子が面白いものを見つけたような顔をして僕を見ていた。
本来ならその顔も不快感が勝って僕の苛立ちを加速させるはずなんだけど。
過ごした時間の長さは、人を甘くする。
硝子の声で、僕の全身を覆っていた棘が抜かれると、硝子が長い髪をくるくる回しながら言葉を続けた。
「随分とお気に入りだったんだな、彼」
悠仁を包む布を見て、一言そう告げる。
別に悠仁に限った話ではない。ここにいるのが恵でも野薔薇でも、僕の怒りは変わらない。
「僕はいつだって生徒思いのナイスガイさ」
真剣にそう答えたけれど、硝子は僕の返事を無視してもう一つの抜け殻を包む布に視線を向けた。
「この子に関しては前も余裕をなくしてたし、やっぱり手出してるだろ」
「言い方が悪いよ、硝子」
「否定しなよ」
硝子が呆れたような顔で僕を見てる。
手は……出したよ。
でも出したからには、僕の心も僕の身体も、僕の全部を皆実に捧げるつもりだったんだ。
でも今さら、そんな言い訳をしても、意味はない。
覇気のない僕に、硝子が肩を竦めた。
「……まあいいけどさ。あまり伊地知をイジメるな。私達と上の間で苦労してるんだ」
「男の苦労なんて興味ねーっつーの」
僕が顔を歪めて告げると、硝子は「そうか」ってまたそっけなく返す。
それも当然で、硝子の興味はすでにソチラに向いていたから。
「で、コレが――宿儺の器か」
悠仁を包んでいた布を豪快に剥いで、硝子はその姿を見下ろす。
「好きに解剖していいよね」
確認のために、硝子は僕の方を向いて尋ねた。
悠仁のことを思うなら、その身体を焼いて埋葬するのが正しい行いなんだろう。
けれど、特級呪物を取り込める身体――それを調べることが今後の呪術戦に意味をもたらすのならば、僕はそれを選ぶ。
悠仁の死をただ焼き払うだけで、終わらせたくない。
この死を無駄にしないために、もしも解剖をするのならば硝子にしろと指定したのは僕だった。
「……てゆーか、いいの? その子も解剖して」
硝子がわざわざ尋ねてくる。
硝子に限って、その表情に僕を心配するような気遣いの色は浮かべてくれないけれど。
「……ああ」
悠仁を解剖して、皆実を解剖しないわけにはいかない。
皆実の死も無駄にしたくないと答えるならば、悠仁と同じように扱わなければ話の辻褄が合わなくなる。
僕の本音なんて、言い出したらキリがない。
これ以上の私情は、それこそ私欲以外の何でもない。
僕にはまだ、守らなければならない生徒たちがいる。
なんて、さ。
大切なものをことごとく守れなかった僕が言っても、もう説得力なんてないんだけどさ。
「役立てろよ」
「役立てるよ、誰に言ってんの」
僕の心からの願いに、硝子はやはりそっけなく返す。
でもその言葉以上に信頼できる返事を僕は知らない。
その言葉が聞けたから、解剖の準備を始める硝子を静かに見守ることにした。
そんな僕の隣に、いまだに怯えた様子の伊地知が立っている。
硝子のおかげで、少しだけ心が落ち着いてきて。
わずかな、ほんのわずかな、伊地知への申し訳なさから、僕は静かに口を開いた。
「僕はさ、性格悪いんだよね」
あえて、伊地知を落ち着かせるために、思ってもないことを口にしてみた。
「知ってます」
「伊地知、後でマジビンタ」
伊地知に少しは詫びの言葉でも入れてやろうかと思ったけれど、その気持ちはすぐに消えていった。マジで後でビンタしよう。
でも話始めたからには、今更もう止められないから。
僕は僕の夢想を、このまま話し続けることにした。
「教師なんて柄じゃない。そんな僕がなんで高専で教鞭をとっているか……聞いて」
せっかく話すんだから、ちゃんと聞いてほしくて。
僕の話に興味を示すよう、伊地知に圧をかけた。
「なんでですか……?」
カタコトな疑問形。それでも構わない。
これはほとんど独り言のようなものだから。
「夢があるんだ」
「夢……ですか」
「そっ、悠仁と皆実のことでも分かる通り、上層部は呪術界の魔窟、保身馬鹿、世襲馬鹿、高慢馬鹿、ただの馬鹿、腐ったミカンのバーゲンセール」
傑は、非呪術師のことを『猿』って呼んでたけどさ、アイツらは呪術師でも『猿』以下だよ。
そんな呪術界に意味なんてないから。
「こんなクソ呪術界をリセットする。上の連中を皆殺しにするのは簡単だ。でもそれじゃ首がすげ替わるだけで変革は起きない。そんなやり方じゃ誰も付いて来ないしね」
傑と道を違えたあの日、僕は決めたんだ。
「だから僕は教育を選んだんだ。強く聡い仲間を育てることを」
そうしたら、オマエみたいに1人悩んで苦しむ人間が少しは減るだろうって。
「皆優秀だよ。特に三年・秤、二年・乙骨。彼らは僕に並ぶ術師になる」
悠仁もその一人だった。
強くなって、この呪術界を背負う人間の1人になるはずだった。
相当の価値を馬鹿どもは塵のように扱って、捨てた。
手を強く握りしめたら、爪が食い込んでキリッと痛みが走る。
でもそんな痛みなど気にせずに、握りしめ続けていたら、伊地知が心配そうに僕に声をかけてきた。
「……綾瀬さんのことも、そのつもりで呪術師にしたんですか?」
そんなわけないだろうって顔で伊地知は僕に尋ねる。
伊地知の考えているとおり、僕は皆実を優秀な呪術師にしたかったわけじゃない。
結果として、優秀な呪術師になってくれればそれでよかった。
「皆実を呪術師にしたのは……完全に僕の私情だよ」
僕は素直にそう答えた。
皆実は、呪いにまみれた世界が生んだ【憂い】の象徴だった。
その皆実を、この世界で笑顔にできたら、きっとこの世界は少しはマシな世界なんだろうって思えるから。
アイツが望んだ世界もきっと、皆実が笑えるような世界だったんだろうって。
呪力を漏出しない呪術師のそばであれば、少しは笑えるようになるんじゃないかって。
皆実を呪術師にした理由なんて、たったそれだけのこと。
皆実は僕の前で笑ってくれればそれでよかった。
術式なんて使わずに、呪いは誰かに祓わせればそれでよかったんだ。
(皆実に……その術式を、使ってほしくなかったんだ)
自分を生贄にすることで解放される同化の式。
皆実の身体に残る残穢は、その術式を解放したことを僕に教えた。
傑の死を予測できていたなら、おそらく皆実は傑の死の直前にこの術式を使っていただろう。
傑が死んで傑の呪力が消えたから、それを使えなかっただけのこと。
傑が死んだ今、その術式の使い道はもうないと思っていた。
思っていたけど不安だった。
もしも必要が迫れば、皆実はその術式を躊躇なく使うと思ったから。
(だから、皆実に術式を使うことを覚えさせたくなかったんだ)
でも今は、それも間違いだったんだと思う。
本当は、もっとちゃんと皆実に術式の使い方を教えるべきだった。
ままならない体術なんて気休めを与えるんじゃなくて、戦うための術式を教えてあげるべきだったんだ。
全部、僕が間違ってた。
認めるよ。謝るよ。
もう一度、ちゃんと[先生]をやり直すから。
だから目を覚ましてくれよって。
叶わない願いが頭をよぎっては消えていく。
「……皆実」
その名を呼んで、また唇を噛んだ。
僕の耳に硝子の声が聞こえてくる。
「ちょっと君達、もう始めるけど」
手袋をつけた硝子が、僕たちを見ていた。
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