13、ブルーベルの苦手なもの ブルーベルはウォルドと一緒に、いつものように庭を散策していた。 昨晩は雨が降ったせいで、地面が少しぬかるんでいる。だが、雨上がりの庭はとても綺麗だった。オーキッドやエリンジュームの花々に水滴がついており、いつもの庭園とは違って見える。 「ブルーベル。あんまりはしゃぐと転んでしまうよ」 「転ばないよ」 そう言った傍から、ブルーベルは足を滑らせた。だがその傾いだ体をウォルドがしっかりと受け止める。 「ほら、言っただろう?」 「あ、有り難う、ウォルド」 「どういたしまして」 ウォルドの手を借りて、ブルーベルはきちんと立った。ウォルドはブルーベルの乱れた髪の毛を、手でそっと梳いて直す。 「いいのに、髪の毛ぐらい」 「いけないよ、そんなことを言っては。君は女の子なのだから」 ブルーベルは照れてしまった。彼はいつだって優しい。同じ年齢の筈なのに、彼はいつも大人びているのだ。 「……あれ。今日のウォルド、いい匂いがする」 「あぁ……、ばれちゃったか。実は君にプレゼントをしたいものがあってね」 「なぁに?」 ウォルドは上着の内ポケットへ隠していた小さな瓶を取り出した。中に入っていたのは、淡い黄色の液体。 「ラベンダー水だよ。肌に塗ったり髪の毛につけたりできるんだって。バラ水のほうが一般的らしいのだけれど、ブルーベルにはラベンダー水のほうがいいかなって」 「も、貰えないわ。高いんでしょう?」 「遠慮しないで」 ウォルドは小瓶の栓を抜いて開けると、手に少し水をつけてブルーベルの首筋へと塗った。 「うわぁ……、いい香り」 ラベンダーの香りがふわりと周囲に広がった。優しい、それでいてほんのり甘い香り。 「気に入った?」 ブルーベルは頷いた。 「ウォルドって……、ラベンダーが好きだよね」 「え? どうして?」 「だって、ウォルドのお屋敷に遊びにきたら、いつもラベンダーのお茶が出されるんだもの」 「んー……、そうだね。好きかもしれないね。君は嫌い?」 「ううん。いい香りがするから好きよ。お茶にすると、淡い紫色でとても素敵だし」 「良かった。じゃあ、これからもラベンダーのお茶をご馳走するから」 ウォルドは瓶をブルーベルへと渡した。 「ウォルド……」 「僕の為を思うなら、どうかこの香りを身に纏って会いに来て」 そう告げて、ブルーベルの手に両手を重ねてしっかりと握らせた。いつもは冷たい彼の手が、その時に限って僅かに温かく感じるのは気のせいだろうか。 「うん……、わかった」 「ねぇ、ブルーベル」 「なに?」 「匂いを嗅いでもいい?」 「え?」 ウォルドはブルーベルの首筋へと顔を埋めた。ブルーベルは一瞬のことだった為に、硬直してしまう。 「あぁ、いい匂い」 「ウォルド、近すぎない? 恥ずかしいよ」 「何が恥ずかしいの? あぁ、こっちのほうが良かった?」 ウォルドはブルーベルの右手をとった。瓶を握っているほうの手である。そっと持ち上げると、手首へと口づけをした。 「も、もうっ、ウォルド! ふざけないでっ」 ウォルドは笑顔を浮かべて離れた。 「ははっ。ごめんね、ブルーベルをからかうと楽しくて」 ブルーベルはウォルドの胸元を軽く叩いた。 「ばかばかばかっ」 「ごめんってば」 ブルーベルはウォルドから離れると、背を向けて庭園の奥へと進んだ。ウォルドはその場に留まって、まだ笑う。 ブルーベルはそんなウォルドに余計に腹が立ち、マグノリアの木の下へと到着した。右手には、先日降った雨のせいでできた水たまりがある。 そこで、先ほどウォルドがくれたラベンダー水が入った瓶を見つめた。 「いい香り。以前ウォルドがくれたラベンダーの匂い袋もとてもいい香りだった」 彼は、ブルーベルのことを熟知していた。どうすればブルーベルが喜ぶのか、笑うのか、拗ねるのか、よくわかっているのだ。 雨上がりの庭園が大好きなことも彼にばれており、彼のほうから庭園を散歩しようと言った。 ブルーベルはそれについても悔しかった。ブルーベルもウォルドのことをもっと知りたいというのに、彼は自分を隠すのが上手なのだ。 ブルーベルが小さなため息をついた時、足元にバーベナがあることに気が付いた。バーベナはハーブの一種であり、柑橘の匂いがするのだ。 「こんなところに自生していたなんて」 もっと近くで見ようと顔を近づけた時。 アレがいた。 ブルーベルはそれを見た瞬間、凄まじい悲鳴をあげてしまう。 「きゃあああああっ」 ウォルドがすぐにやってきた。 「どうしたのっ、ブルーベル!」 ブルーベルは腰を抜かした状態で、地面に座っていた。 「あ、あぁ、あれっ」 「?」 ウォルドはバーベナがある茂みの中を覗き込んだ。 そこに、少し大きめの、枯草色をしたヒキガエルがいた。 ウォルドはヒキガエルを右手でガシッとつかむと、それを持ち上げる。 「ひぃっ」 ブルーベルが嫌悪感を示した。ウォルドはまさか、と眉を寄せつつ、ヒキガエルをブルーベルへ近づけてみる。 「ブルーベル」 「や、やめて、やめてっ、怖いっ」 「ヒキガエルが怖いの?」 ブルーベルは震えていた。ウォルドは右手で握っているヒキガエルを見る。人によく慣れているのか、動じることさえしない。 「ウォルド、その子、どこかにやって。見えないところに」 「うん、わかった。待ってて」 ウォルドはヒキガエルを手に掴んだまま、一度ブルーベルの傍から離れた。ブルーベルはその間に、過去にあった出来事を思い出してしまう。 祖母の家で暮らしていた頃。 近くにあった池でよく遊んでいたのだ。 友達という友達もいなかったブルーベルにとって、池に生息している小魚や花を愛でるのはとても楽しかった。 だがある日。 ブルーベルは池の畔で足を滑らせて、落ちてしまった。仰向けで転倒したのだが、丁度その瞬間に、大きなヒキガエルが顔の上へと乗ったのだ。 ぬるぬるとした、ヒキガエルのお腹。 それを、顔で感じた。 ブルーベルは悲鳴を上げ、慌ててやってきた祖母によって助けられたというわけである。 以来、ブルーベルはヒキガエルが大嫌いになってしまった。 「ブルーベル。遅くなってごめんね。手を洗ってきたから、少し時間がかかっちゃった」 ウォルドが戻ってきた。 「ウォルド……」 「あぁ、泣いてるの? 可哀想に。よっぽど怖かったんだね」 ウォルドはブルーベルを抱きしめると、服の袖でブルーベルの涙を拭った。 「ごめんなさい、ヒキガエルぐらいで泣いたりして」 「いいんだよ。……あぁ、衣服が泥だらけだ。地面がぬかるんでいたから。……立てる?」 ブルーベルは腰が抜けて足に力が入らなかった。 「ごめんなさい……」 「いいよ。じゃあ、僕が背負ってあげる」 ウォルドは地面へと屈んだ。 「無理だよ。私、重いから」 「平気だよ。ほら」 ブルーベルはウォルドに背負ってもらおうことにした。なんとか腰を浮かせて、彼の肩へ両腕を回す。ウォルドはブルーベルの体をしっかりと背負うと、立ち上がった。 「ごめんね、ウォルド」 「いいよ、これぐらい。一度部屋へ戻って、服を着替えよう」 「ウォルド、かっこいい」 「え?」 「男の子みたい」 「……いや、僕、男だけれど」 「あ、そっか。忘れてた」 「……え」 ブルーベルはくすくすと笑った。ウォルドはブルーベルを背負ったまま歩き出す。 「もしかして、怒った?」 「怒ってはいないけれど、ちょっと傷ついた。どうせ僕は男に見られてないですよー」 「ふふ。ウォルド、大好き」 「……」 「好き、好き、大好き」 「ご、ご機嫌とっても、許さないよ」 「ウォルドは、私にとって一番の王子様だよ」 「はいはい、わかった、わかった」 「もうっ、本気で言ってるんだからね」 「ふーん」 ウォルドに背負ってもらっているブルーベルは、彼の顔がどうなっているのかわからない。けれども、彼の耳が真っ赤になっていることだけはわかった。 「ウォルド、照れてる?」 「照れてないよ。なんで僕が照れるの?」 「ねぇ、ウォルド。大好き。だーい好き」 「もう、さっきから何。わかったってば。僕も好きだよ、好き好き」 ウォルドの気のない返事。 ブルーベルはウォルドにしっかりと抱きついた。彼の首も赤く染まっていることに気付いたが、それを微笑ましく思うだけで何も言わなかった。 |