【ななしのななこ 東堂尽八】
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泣いていた。
ただただ、泣いていた。
恐ろしく暑い日だった。私は、死亡者を続々と産出していく本日も絶好調な真夏の太陽の下にいて、そんな彼の熱線でホットプレートと化したアスファルトの上に、ずべしゃあ…っと、みっともなく、投げ捨てられたようにうずくまっていた。
場所は学校の屋上だった。夏休みでしかもこの暑さ、一番日差しの強い午後2時。来る人なんてだーれもいない。だけど私は一応人目につかないように、出てきた扉がついている小さな建物の裏側に回って、バスタオルを頭から被り、そこに座り込んでいた。思いっきり、日向だった。そして、膝を抱えて、おいおいと泣いていた。
30分が過ぎるころには、私の身体は汗まみれになっていた。髪の毛も心なしか湿っていて、顔に近いところでは、しょっぱい水が髪の毛を伝ってぽたぽたと落ちていた。ブラウスがじとっと背中に貼り付いていて、蒸し暑くてどうしようもなく気持ち悪くて、それでも私はそこから動くことをやめなかった。
サーモグラフィーで見たら、きっと今の私は身体の芯から外側までせーんぶ真っ赤っかなんだろうな。地面のアスファルトも、もたれかかっているこの壁も、同じように真っ赤だろうから、サーモグラフィーの画面はバケツを引っくり返したみたいに一面赤く塗りつぶされてるんだろう。
……本当に、そうなってしまえばいいのに。
暑さに、熱さにやられて、私という人間の輪郭がふやけていって、溶けて、周りの風景に同化してしまえばいいのに。ドロドロドロドロ。止まらない汗や涙、その他体液が、まだまだ若い華の高校生、17歳の身体から追い出されるようにして溢れていく。ドロドロ……。それを想像する。アイスクリームみたいに溶けていく自分。グロテスクだ。もはやここまでくると自分が何に悲しんでいるのかがわからなくなってきた。今多分、この付近で一番自分が哀れだな。そう思ったら不思議な万能感が湧いてきた。
いいぞ、とてもいい感じだ、このまま溶けちゃえ……溶けちゃえ……。
しかし、そんな時だった。不意に、声が聞こえてきた。すぐ近くから。
「荒北―? ……うーむ、やはり屋上にもいないか……」
ドキリとした。夢から覚めるような、悲しみに酔っているところを邪魔された気がした。誰も来るはずないと思っていたのに。しかも、足音はどんどん近づいてくる。このままでは見つかってしまう……。
でもすぐに、それでもいいや、と私は思った。今はただこの悲しみにどっぷりと浸かっていたい。きっとこの声の持ち主も、私が邪魔だと言えばすぐに去ってくれるだろう。私は被っていたバスタオルを強く握りしめる。そして、近づいてきた足音がピタリと止まり、はっと息を呑む音が聞こえてきた。どうやら見つかったらしい。
「!? な、なんだ…!? 人、だよな…!?」
「(そこからか)ひ、人です……ぐすっ」
「む!? そ、その声は、女子か!? 女子なのか!?」
「(そこかよ)ううっ、じょ、女子です……ぐすん」
「……え、ええと、大丈夫なのか……?」
「うう、ひぐっ、だ、大丈夫です、から……」
「泣いているのか……」
「っ、ひっく、っふぅ……ひっく」
これ以上なくわざとらしくしゃくり上げながら、私はヒヤリとした冷涼感をどこからか感じていた。
「どう見ても大丈夫じゃないだろう……」
――声だ。この人の声から、だ。
「大丈夫です、放っておい、て、くださ、っぐえ、い、うっ、うえ………」
「……しかし、こんな炎天下の中にいては…、」
さらにこちらに踏み込んでくるような気配がして、私は咄嗟に「見ないで!!」と、声を荒らげていた。
「邪魔しないで、くださ、み、見ないでください、っふぅ、うぅ……」
「……! す、すまない……」
そうだな、確かに泣いているところなんて見られたくないよな……と彼が呟いた。また、ヒヤリとした冷気を感じる。熱を孕んだ私の身体をすーっと冷ましてくような、涼しげな風鈴のような声だ。サーモグラフィーで見たら、きっと彼の周りは青いんじゃないだろうか。そんな気がした。
「その……どうして泣いてるんだ?」
「……ぐすん、ぐすっ、ずびっ、き、気にしないでください……あのもうどこか行ってください」
あ、めんどくさくて最後の方普通に喋っちゃった。
思ったよりも泣く演技というのは難しい。
「いや、そういうわけには……。あ、ひょっとして、失恋とかk」
「ちがうっ!!」
質問として聞かれる前に、私は大声で否定していた。その剣幕にビビったのか、「す、すまん…」と素早く謝られる。
……。いやでも。待て、よ?
「ごめん。もしかしたら失恋なのかも……」
「え?」
「恋の定義もよく分かってないのに、失恋じゃないと断定するのは、早計だったかもしれない」
「……はあ」
咄嗟に否定しちゃったのは、失恋という響きがチープに聞こえてしまったからだ。だって失恋して屋上で泣くとか、女子高生がよく聴いてるJPOPかよって感じじゃん。まあ私も女子高生なわけなんだけど…。
「……ね、君、恋したことある?」
「な、なんだ唐突に……まあ、遠い昔、片思いしていた人ならいたぞ」
「ふーん……」
「ふーんて……」
「私、この年になっても恋したことないんだ。あんまり分からないんだけど、どういうもの…?」
「難しいことを聞くな…。そんな簡潔に説明できるものではないよ」
「……ただひたすらに大好きで、尊敬してて、憧れで、離れ離れになるのが辛い。これって恋?」
「それは……うーむ、」
「でも、私その人とセックスしたいとかは思わないんだよねぇ」
「セッ……!?」
「まあ、女の人だし。あ、でもそういう夜の玩具? 的なものを駆使すれば女の人ともできなくもないんだろうけどさ……。うーん、やっぱり性的欲求がなければ恋とは言わないのかなって。どう思う?」
「……! あ、あ、あのな、お前、女子がそういう、は、破廉恥な言葉を連呼するなんて、ならんよ……!」
「ハレンチ……?」
この人、なんか喋り方が古風だなと思ってたけど、チョイスする言葉まで一世代前だな。しかも声が明らかに動揺していて、なんだか面白くて、私は噴き出した。
「ふはは…、もしやお兄さんドーテーだな」
「!! おおおおおまっ、いい加減に……ていうか! 泣いてなくないか!?」
「え、泣いてたし」
「全然声がケロッとしてるだろ! さっきのわざとらしいシャクリ上げは演技か!?」
ありゃ、バレたか。まっ、しゃーない。はい、実は私、泣いてませんでした。でも、完全に騙していたというわけでもなくて。
「……ね、汗と涙って、成分がほとんど同じなんだよ」
「は?」
「だから、悲しい気持ちになって、汗をドバドバかけば、それは泣いてることになるかなって思うの」
「………………いやいやいや、なんだその屁理屈は!」
「うん、まあそう思うよね。でも私、涙腺が固い人間で。辛くて悲しくても、涙が出ないんだよね。泣きたい時も泣けない。多分そういうのが苦手なんだと思う」
――いいや、話しちゃお。自分の中だけで処理する予定だったけど。この人のこと知らないし、向こうも私の顔見れないし、多分これっきりだし。
「私の家、マンションなんだけどさ。お隣さんの、小さい頃からずーっと慕ってたお姉さんがつい最近結婚したの。それで3日後、とうとう家を出ちゃうんだ」
「………」
「ほんっとにほんっとに大好きなお姉さんだったの。恋じゃなかったかもしれないけど、恋に負けないぐらい好きだった。だから、さすがの私でも、多分お別れの時に泣いちゃう予感があって」
「……いいじゃないか、泣けば」
「はは、絶対やだ。結婚だよ? めちゃくちゃめでたいじゃん、幸せの絶頂じゃん、人生の門出じゃん、そりゃもう祝福してあげなきゃじゃん。なのに私が泣いちゃったら、お姉さんも水を差されたような感じになるでしょ。そんなの絶対イヤ。私は笑顔で送り出してあげたいの」
「………」
「だから、お別れの時に泣かないで済むように、今のうちにたくさん泣いておこうと思ってさ。でもやっぱり想像だけじゃ泣けなかったもんだから、苦肉の策として、涙の代わりに汗を流すことで泣いたことにしよーって考えたわけですよ」
「…………………」
ふう。一通り語り終えたら、胸のつかえが取れたような、非常にスッキリとした気分になった。妙な話を聞かせてしまってこの人には申し訳ないことをしたけど。まあ顔も名前もわからないようなやつのこんな話、すぐに忘れてくれるだろう。
「……お前……、変なやつだな」
「はは、そーでもない。でも聞いてくれてありがと、チェリーくん」
「チェ、チェリーくん……?」
「チェリーボーイのチェリーくん」
「なっ!」
「そういうわけなので私のことは放っておいてください。ていうか、忘れて。チェリーくんもなにか用事があったんでしょ? さ、行った行った」
「――いや、そういうわけにはいかない」
突然、チェリーくんの声がやたらと冴えた響きになった。何故かドキリとした。またこの感覚。
「なるほど事情はわかった。変わったやつだと思うが、オレはお前のことを馬鹿にしたりしないし、気が済むまでそうすればいい。ただ、日向にいるのはやめろ」
「え、だって日陰だと汗かかなさそうだし……」
「熱中症になってもいいのか?」
「ならないようにこうやってバスタオルを被って直射日光を塞いでるし、水分補給用のポカリも持ってきてるよ」
「舐めすぎだ、馬鹿。下手したら死ぬぞ」
「………(結構容赦無いな、コイツ……)」
「日陰に行かないようなら、今すぐそのバスタオルを引っぺがすが、いいか?」
「わーー! 待て待て落ち着いて!」
ざっ、とこちらに近寄る音がして、私は慌ててバスタオルを手で強く両手で引っ張った。
「待たない。嫌なら移動するんだな」
「………………、ちぇ、わかったよ」
なんか………なんだろう。
私、この人の静かな声、苦手かもしれない。心を見透かされているような気持ちになる……。
「移動するから……目、塞いでて。顔見られたら私、ここから飛び降りるから」
「はぁ。やれやれ、全く……塞いだぞ」
しぶしぶ、という感じで立ち上がる。なんかこの格好、連行されてく犯人みたいだなぁ…。
チェリーくんの上履きがちらりと視界に入る。私の上履きの色と同じ。……同級生か。
見るなと言って目を塞いでもらってるわけだし、私も見るのは失礼だと思って、顔は上げないで移動した。奥の、貯水タンクみたいなやつの影まで行って、座る。あ、涼しい……貯水タンクも冷たいし、地面も冷たいし、風も感じる……日向と日陰でこんなに変わるものなのか。これだと泣けない(汗かけない)気がするぞ……。うーん、当初の目的が。
「いいよー!」
正面向いて大きく叫ぶと、しばらくして、足音が近づいてきた。
「ここなら大丈夫そうだな」
「ね、もう何も文句ないでしょ。もういいから私のことは」
「オレが行ってもまた日向に戻ったりするなよ」
「………」
(ちょっとだけ)ギクリ。
「お前……まさか図星だったのか!?」
「わっ、わかったわかった! 戻らないから! 絶対戻らない!」
「信じていいな?」
「もちろん!」
「…………じゃあ、オレは行くが、」
その時、パサッと音がして、近くで何かが落ちる音がした。ちょっとだけバスタオルを持ち上げて探すと、すぐに見つかる。……これは、ハンカチ?
「それを下に引いておけ。地べたにそのまま座っていたら、スカートが汚れてしまうだろう」
「……………」
私が呆気に取られているうちに、足音が遠のいていく。
「……………」
――いや。いやいや、もう、遅いでしょ……。だってあの人が来る前から地べたに座ってたわけだし? それになんだかこのハンカチ、見るからに上等なやつだし……ぽんってよこされても使いづらいわ……。
と、心の中で悪態をつくことで、なんだかお腹のあたりがモゾモゾするような恥ずかしさを必死に堪える私。
とりあえず、おもむろに広げてみると、隅のほうに刺繍がしてあった。
(J.T……イニシャルか)
うーん……少し考えてみても、思い当たる人物はいない。
迷った挙句、私はえいっとお尻を浮かせてそのハンカチを下に引いた。さあ、かなり状況は厳しくなったが、なんとか泣いてやる(汗をかく)ぞー。
*
(……あ、もうそろそろポカリ、尽きるな……)
お姉さんとの思い出に浸ってはなんとか汗をかき、ポカリを飲んではまた思い出に浸り…を、せっせと繰り返していること……どのぐらいだろう。もう汗もかかないし、どちらかといえば爽やか〜な風が吹いてきて、だんだん眠気すら出てきた。
バスタオルを持ち上げると、空はとろりとオレンジに染まり出していた。ああ、なんだかんだ結構な時間泣いてたんだな。もうポカリもないし、そろそろ撤退しようか。誰も来ないし、屋上で着替えていいかな。貯水タンクの裏だし、望遠鏡でもって学校を覗いている変質者でもいない限り見つからまい。
と、私がお尻を持ち上げようとした時、足音が聞こえてきた。急いでバスタオルを被ってぎゅっと抑え付ける。
「……まだいたんだな」
うーん……やっぱり、『J.Tくん』だったか。
「もうすぐ帰るとこだったけどね。それで、ご要件は」
「ひとりで倒れてたらとどうしようかと思って心配で見に来てみたんだ。……大丈夫そうでよかったよ」
「……どうも、ご心配をおかけしました」
優しい声で言われて、またなんとなく私はお腹のあたりがモゾモゾしてしまう。
すると、近くでトスッ、と何かが置かれる音がした。先程のようにバスタオルをちょっとだけ上げてみると……これは、ボトルだ。一応体育系の部活に所属していたのでわかる。それに何が入っているのかも。
「飲むといい。うちの部で特別にブレンドされたスポーツドリンクだ」
「え……わ、悪いよ」
「構わん。オレ個人に支給されたものだからな」
「いや、なおさら悪いって」
「いいから。冷たいし、市販のスポーツドリンクよりよっぽど水分補給に優れている。飲んでおけ」
「…………、ありがとう。じゃ、飲むから向こうむいてて」
呆れたようにふっと笑いが落とされて、その直後、「飲んでも大丈夫だぞ」と声がかけられた。私はバスタオルからそっと頭を出して、ボトルを手にする。
そして、ふと思い浮かんだことを口にしてみた。
「ねえ、これひょっとして間接キス?」
「なっ!? ちっ、ちが――いやっ、違わないが、違わないが……違う!」
「どっちだよ」
慌てすぎでしょ。面白いなあ。
私はボトルに口をつけないようにしてドリンクを飲んだ。まあね、どこぞの誰ともわからんやつと間接キスなんて、普通嫌だろう。ま、私は別にいいんだけど、ほら、チェリーくんだし。
ていうかなにこのドリンク、すっごい美味しいじゃん。塩分と糖分のバランスが絶妙……特別にブレンドしてるって何が入ってるんだろう……。
「飲んだよ。安心して、口つけてないから」
「べっ、別にオレはそんなの、気にしてないが……」
「あはは。――もう隠れたから、こっち向いて大丈夫だよ。すごく美味しかった、ありがとう」
「う、うむ」
再びバスタオルで視界を閉ざす。彼が動いて、ボトルを回収するのがわかった。
「あのさ。……ハンカチ、なんだけど」
「――ああ、使ってくれてるか?」
「うん。えっと、どうすればいいかな……さすがにそのまま返すのは申し訳ないし」
「律儀だな。別にそのまま返してくれて構わんのだが……ふむ。今の気候なら今日洗って明日には乾くだろう。その時でいい。どうせ明日も来るんだろう?」
「え…!?」
さも当然のようにそう言われて、私は驚いた。事実だったからだ。
「な、なんでわかったの…」
「ワッハッハ。先程お前は言っていただろう、『お姉さんとのお別れは3日後』だと。『それまでにたくさん泣いておきたい』とも言ってたな。だとしたら、明日明後日も泣くためにここに訪れる、そう推測するのが自然だ」
「………やるじゃん、JTくん」
「!? な、何故お前、オレのイニシャルを…!?」
「ワッハッハ。まっ、ハンカチに書いてありましたし」
「ま、真似をするんじゃない! ……そういえばそうだったな、忘れていた。ふむ、イニシャルまでわかってしまったのなら、いっそ名乗ってしまおう。よく聞け! オレの名h」
「待って!!!!!」
あっぶね。すんなりと名乗られてしまうところだった。
「な、なんだ、びっくりしたぞ」
「名乗られたらこっちも名乗らなくちゃいけないでしょ。それはできないから、勝手に名乗らないでください」
「……変なところで律儀だな。じゃあ、なんて呼べばいいんだ、お前のこと」
……うーん、そうだな。
「―――名無しのななこ、で」
「……。適当だな……」
「3秒ぐらいで考えた割には、結構かわいくない?」
はぁ、と呆れたようにJTくんがため息をつくのが聞こえた。えー、ななしのななこちゃん、響きも可愛いのに。
「……まあいいか、お前がそれでいいのなら」
「うん、いーじゃんいーじゃん。じゃ、JTくん、君がいると私帰れないから、先に帰ってもらえる?」
「……。わかったよ。ではな、ななこさん。また明日。気をつけて帰るんだぞ」
「うん、また明日―! 今日はありがとねー!」
バスタオルの中で手を振ってみる。多分スーパーマ○オに出てくるお化けみたいな感じになった気もするがそれはいいだろう。そして、彼の足音は遠のいていった。
「……、ふう」
完全に人の気配がなくなったのを確認して、私はバスタオルを退けた。思いっきり新鮮な空気を吸い込むと、夏の夕暮れ特有の、なんだか切ないような、懐かしいような匂いがした。
(あーあ、なんか、妙なことになっちゃったなぁ……)
今日これっきりの出会いだと思ってたのに、また明日会わなくちゃいけなくなってしまったなんて。うかつに色々話したのは失敗だった。
(……でもまあ、顔も名前もバレなければいいか)
そう、私は今日から名無しのななこ。彼の前では名無しのななこ。
(……漢字をあてるなら『七篠七子』とかかな……)
そんなことを考えるとなんだか楽しくなってきてしまった。いかんいかん、私は泣きにきてるんだから。本末転倒だ。
気を引き締めるために頬をパチン、と叩くと、それは無人の屋上によく響いたのだった。
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