その日あった出来事を、今後何度も繰り返し思い返すことになるなんて、朝起きた時には考えてもいなかった。

その日はたまたまオフだった。夏休みも後半戦に突入し、インターハイ後もほとんど毎日練習があった自転車競技部に、やっとまとまった休暇が与えられたのだ。と言っても、普通の部活に比べたらそれはずっと少ないのだろう。それでも、そのわずかな休暇を利用して、実家に帰るものが大半だった。

オレは寮暮らしではあるが、実家が地元なので、他の皆のように焦って動き出すことはしなかった。この時期に帰っても、その時点から馬車馬のように働く羽目になるのは目に見えていたし。夏の箱根は格好の避暑地だからな、予約も連日満員だろう。まあ、もちろんオレがいなくても成り立つようにはなってるのだが、そんな中でひとり優雅にくつろげる程には薄情でもなかった。だからギリギリまで帰らない、というのもそれはそれで薄情かもしれんが。

そんなわけで、その日オレは時間を持て余していた。絶好のクライム日和だったが、オフ中はしっかり身体を休めるようにキツく言われていたし、まだ夏課題に齧り付かねばならんほど差し迫った状況でもない。共に暇を潰してくれるような友人は皆実家に帰った。

―――だから、だと思う。退屈な時間というものは、人を余計な思考に追いやるものだ。オレが、妙にそいつのことを考えてしまうのは、他にやることがないからだ。頭の隅のほうでずっと引っかかったままでいるのも。暇だからだ。

なんだ? なんだろう、この胸のざわめきは。もう関わらないと決めたじゃないか。なのに、何をしていても、「今引越しをしているのだろうか」とか、「もうお別れは済んだだろうか」とか、そんなことをふと考えてしまっている自分がいた。

気を紛らわすために、オレは自室を出た。時刻は16時を過ぎたあたり、廊下にいつもの賑わいはなく、ガランとしている。談話室まで行くと、オレは備え付けられた自販機に小銭を入れた。特に何が飲みたいわけでもなかったので、適当にスポーツ飲料のボタンを押す。と、同時に、小銭の投入口の横にある電子表示のカウンターが動き出した。

ここに『7777』が出ればもう一本追加、というありがちなやつだ。ただ入学してから一度も揃ったシーンを見たことがない。絶対に当たらない自動販売機、ということで箱根学園男子寮の七不思議の一つになっていると聞いたことがある。

だから全く期待せず、転がり出てきたペットボトルを取り出し、なんとなしげにそのカウンターを見ると。そこに表示されていたのは、『7475』。やはりな、当たるわけが―――

―――7475。

なな、よん、なな、ご。
……なな、し、なな、こ。

その連想に行き着いた時、オレは笑いそうになった。馬鹿げている、どうかしている。こんなくだらない語呂合わせ。だからどうしたというのだ。

キャップをひねって、スポーツ飲料に口をつけた。ドクン、ドクン、と騒ぎ立てている心臓を落ち着かせるように、飲む。おかしいな、味がしない。そんな時、開かれていた窓から風が注ぎ込んできた。ふわっと、白いカーテンが舞い上がり、オレの目はそれに釘付けになる。白いカーテン、白い布、白いバスタオル、屋上に現れた真夏の亡霊。得体の知れない白い物体、中に入っているのは奇妙な言動でオレを惑わせる一人の女子。

(…………、降参だ)

とうとう、声に出して笑った。馬鹿げている、どうかしている。だが、この胸騒ぎを鎮めるためには、もう屋上に行くしかなさそうだった。だって朝から、オレは彼女のことばかり考えている。認めたくなかったが、もう自分を騙しきるにも限界だ。

居るかなんてわからない。居てほしいのかもわからない。居たところで、どうしたいのかもわからない。ただ、オレの足は屋上へ向かっていた。スポーツ飲料のペットボトルを片手に。始めは歩いていたが、次第に気持ちが急いてきて、自然に走っていた。やっぱり、オレは彼女に会いたいわけだ。おそらく、あの奇妙な出会いに、何らかの意味を見出したいのだ。

階段を一段飛ばしで駆け上がり、屋上に続くドアを開けて、外に出る。夏の終わりを感じさせる乾いた風が吹いていて、走って熱くなった身体を冷ました。もう日は暮れかけていた。

息を落ち着けながら、オレはしんとした屋上を進んでいく。これで誰もいなかったらとんだお笑い種だな、なんて心の中で軽く嘲りながら。それは、居なかった時のダメージを少しでも和らげるためのカモフラージュだった。頼むから、居てくれ。もう、なんでもいいから。

そう思いながら、屋上の裏手に回った時、貯水タンクの影から白い布がちらりと見えて、大きく心臓が収縮した。

(い………いた…………!!)

落ち着け、オレ。ゴクリと唾を飲み下し、オレはゆっくり、ゆっくりと足を進める。全体像が見えてくる。いつもの場所で、白い物体はちんまりとうずくまっていた。しかし……なんだか様子が変だ。ピクリとも動かない。初見だったら中に人がいるなんて思わないだろう。

と、その時。

「…………だれか、いる?」
「!」
「まさか……JTくん?」

唐突に呼びかけられたことに狼狽えつつ、そうだ、と聞こえるように声を張った。だが、彼女から返ってきたのは沈黙のみ。なんだ、この、嫌に重苦しい空気は。オレが何も声をかけられずにいると、不意に彼女が「なんでいるのさ……」とぽつりと呟いた。

「……オレにもよくわからん」
「はぁ……?」
「ただ、いるかもしれない、と思った。だから……来た」
「………」

彼女からは何の反応もなかった。オレはそっと、距離を詰めた。

「……どうだった、お別れは」

そう聞くと、ピクリとわずかばかりだが、白いバスタオルが振動した。

「別に、特に何事もなく終わったよ」
「そうか……」
「まあ、事前にここで、たくさん泣いてったしね………全然、問題なく……、」

ハッと息を呑んだ。その時、オレは気がついてしまったのだ。ここに来た時から感じていたわずかな違和感、その正体に。

「ぜ、んぜん、問題、なく、わたし……っ、」

平然としていた彼女の言葉に、どんどん綻びが生じていく。不自然に途切れ途切れになり、ところどころ、か細く震えている。瓦解、し始めている、どんどん亀裂が入っていって、崩壊の予感にオレは身構えた。


この違和感は、まさか、こいつ、



「っ、ちゃんと笑顔で、おわ、かれ、できた……っ、わたじ、……っ、ぅ」



(―――な、泣いてる………!!)


予感はしていたが、思っていたよりも衝撃が強くて、オレは半歩後ずさった。雷に打たれたような、とはまさにこういうことを言うのだろう。

だって、あのななこさんが。泣けないからってよく分からん謎理論を展開させて、一歩間違えれば熱中症になってもおかしくないような真似をするやつが。雨に打たれまでして、無理やり悲しい気持ちに浸ろうとするやつが。


「わたし、泣かながっ、……ふ、ぅ、…っ、泣かなかった、から……っ!」


それは、見ているものの胸をキリキリと締め付けるような、苦しい泣き方だった。彼女が主張していることと、この状況が正反対なことも、その痛ましさに拍車をかけていて。オレは一言、そうか、と返事をするのがやっとだった。

おそらく、今彼女が必死に主張している、これは事実なのだろう。彼女は別れの時、お姉さんの前で泣かなかった。笑顔で見送った。
そして、ここに訪れた。一人になりたかったのか、お姉さんとの思い出が詰まった自宅に居たくなかったのか、それは推測することしかできない。分かるのは、彼女にとって、今オレの目の前で泣いているこの状況はイレギュラーなのだろう、ということだけ。

動揺を鎮めるために深く息を吐いて、オレは、そっと彼女の隣へ腰を下ろした。そして、そうやって同じ体勢になることで、彼女と自分とでは体格が全然違うことに、その時初めて気がついたのだった。

(………小さいな………)

当たり前だ、中に入ってるのは女子なのだから。

オレは、肩を震わせて苦しそうに泣いている彼女に、そっと手を伸ばした。おそるおそる、バスタオルの上から頭に手を置くと、過剰なまでにびくりと震えた。

「な、に……っ」

そのままゆっくりと頭を撫でてやると、嗚咽に混じって小さくやめろ、だの、いやだ、だの聞こえてきたが、オレは構わず手を動かした。

「……えらかったな」
「!!! や、め……っ、ぅ」
「よしよし」
「っぐ、っ、うぅ……ひ、っく、ふぅ、ぅ…っ」

――初めて見た。泣くのが下手なやつ、なんているんだな。だって、泣くという行為は、溜め込んだ気持ちを発露して心を洗い流すためにあるはずだ。なのにこいつは涙が流れている今この瞬間も、それを必死に、堪えようとしている。

(そうか………なるほどな……)

その時、今まで彼女と接する中で感じてきた不可解な点が、すべて繋がった気がした。


(こいつ―――不器用、なのか………)


難しく考え過ぎていた。多分、ななこさんは人より何倍も何十倍も不器用なだけなのだ。人前で泣けなかったり、オレを遠ざけたり、パーソナルスペースに踏み込まれるのを極端に嫌うのも、全部そう。どういう生い立ちでそうなったのかは分からんが、彼女は人一倍自立心が強いのだろう。だから、何か与えられたり、優しくされることに耐性が極端に無くて、拒もうとする。『怖い』のではなく、『慣れてない』だけなんだ、きっと。


(…………………やばい、)


なんだ、この、感じは。

腑に落ちた瞬間。ぶわぁっと身体の中心から全身に充満するかのように、今まで味わったことのない、妙な――言葉に表し難い感情が芽生えた。ただ、息が詰まったように苦しくて、なんだか心臓のあたりがズキズキと痛む。

なんだろう、これは……ひょっとして。

(―――庇護欲、というやつか………?)

だ……だが、庇護欲って、例えば今、彼女を撫でているこの手を肩に回して思い切り抱き寄せてしまいたいとか、いやいっそのことこの邪魔な布を剥いで、抱きしめて胸を貸してやりたいとかそういう、そういう衝動も庇護欲で言い含めていいのか? 違う気がする、庇護欲もあるだろうがそれだけではない気がする、とりあえず、


(し……静まれ、衝動………!!)


ごくりと唾を飲み下し、何故か上ずっている鼓動を必死に宥めながら、オレは彼女の頭を撫で続けた。





彼女の嗚咽が収まったのを見計らって、声をかける。

「ななこさん、落ち着いたか? 隣にアク○リを置いておくから、水分補給するといい」
「…………」
「オレはしばらく離れているから、その間に思う存分飲んでくれ」

しばしの沈黙の後、「ごめん、ありがとう」とぽつりと返事が聞こえてきた。オレは一旦その場を離れ、屋上の入り口の方まで行って、壁にもたれて一人考えこむ。

これからどうしようか、自分がどうしたいのか。考えても分からないことと、考えなくても本能的な部分で分かってしまったことがあった。それらを整理して、気持ちに分別をつけると、オレは再び彼女の元へ戻った。

「――しっかり飲んだか?」

そう問いかければ、こくりと頷いたように白い布が揺れる。隣に置かれたペットボトルの中身は、半分以下になっていた。よしよし。

先程のように、彼女の横に並んで座ると、オレは口を開いた。

「ななこさん……昨日、言ったよな。オレの優しさはもっと、守ってあげたくなるようなか弱いお姫様のような女子に注いでやれと。覚えているか?」

「……え? なに突然……言ったかもしれないけど、それがどうしたの……?」

「やはり……、それはできんな」

「は?」

「オレは、お前のことを守ってやりたくなってしまった」


「……………………………はぁ?」


たっぷり間を置かれた後に返ってきたのは、そんな素っ頓狂な声だった。まるで予想通りの反応に、フッと笑いそうになる。再度、はっきりと「だから、おまえを守りたいんだよ」と繰り返すと、彼女は少し絶句した後、引きつった笑いを漏らした。

「いやいやいや……え? 冗談?」
「冗談ではないな」
「え……? JTくん……マジで何言ってんの……? 正気?」
「正気だ」
「いやよく考えて……? こんな名前も顔も分からない謎の物体を守りたい? 頭バグったの?」
「ばぐ……? なんだそれは。夢を食べるやつか?」
「ちげーよそれはバクだよ。つまり頭狂ってるっつってんの」
「そうだとしたら、狂わせたのはお前だ」

と返すと、「は………」と呼吸が漏れたような声が聞こえてきた。そして、ゴクリ、と喉が鳴る音。

「な、なんで……? なにがどうなってそういう結論が出たの……?」
「………詳しいことはよくオレにもわかってないが、そう思ってしまったのだよ」
「はぁ……?」

運命を感じてしまった、とか言ったら絶対に引かれるからな。とりあえずそれは伏せておこう。

「あの………」
「む?」
「け、結構です。イリマセン。マニアッテマス」

……まあそうなるよな。

「悪いがそれで引き下がることはできん」
「は……!? なにそれ要らないっつってるんだけど!? それ自己満足だよ押し付けだよ!」
「うむ……そうだな、多分これはオレのエゴだ」
「え? まさかの開き直り…? 嘘でしょ…?」
「だが、ななこさんの言うことも最もだな。必要ないと言う人に無理やり押し付けるのはただの嫌がらせになりかねん。それはオレだって望む展開じゃない」
「そう、それだよそれ」
「だから……まずはお友達から始めるというのはどうだろう?」
「―――はぁ?」

先程から何回はぁ?って言われてるのだろうか。ここまで来ると、少し愉快だな。

「とりあえず、オレはお前を探すところから始めるよ。そして見つけ出す。その後は……まあ成り行きに任せるとしよう」

「いや、」

「当然お前には逃げる権利がある」

「いやあのね、」

「そうだな、それがいい。オレは多分探すなと言われても探してしまう。だから、見つけられるのが嫌なら逃げてくれ」


「………………………」


「つまるところ、これは鬼ごっこだな!」


「……………………。JTくん、自分が言ってることわかってる?」


「わかっているが?」


「……………………………」


彼女はとうとう閉口してしまった。ぷつりと電源が切れてしまったかのように黙り込んでしまったと思ったら、唐突にふっふっふっふっ……と力の抜けた笑い声が聞こえてくる。続いて、「まあいいやど〜〜でも……」と吐息混じりに呟いた。

「随分と投げやりだな」
「だって絶対無理だもん、私を見つけるとか」
「ほう? その根拠はなんだ?」
「私学校で全然キャラ違うもん」
「ふむ。なるほど、それは有力な手がかりだな!」

含みたっぷりに失言を指摘してやると、彼女はうっ……と怯む。

「て、ていうか大体すぐ飽きるでしょ、JTくん部活で忙しいんでしょ? 絶対1週間ぐらいで頭から抜けるから」
「フッ、それはないな。何故ならオレは天才だからな!」
「あーーーもぉ〜〜……」

大きな大きなため息と共に、「そ〜ゆ〜のは要らんっつの〜〜……」と、彼女は呻く。どうやらバスタオルの中で頭を抱えているようだ。しかし、白い布がうねうねと蠢いている図は、やはりどこかホラーチックだな。

これが正常な思考ではないことも、かなり強引に話を持っていったことも、自分でよく分かっている。ただ、そうしたくなってしまったのだからしょうがない。それに、なんとなく、これで合っている気がする。自分にとっても、彼女にとっても。

……彼女の言葉を借りれば、本当に『バグって』しまったのだろうな、オレは。

今日も夕陽が綺麗だ。昨日ここで一人で見た時とは大幅に心持ちが異なるが。さて、あとはできる限りここで彼女と話して、口調や口癖などを頭に焼き付けておかなければな。

「ななこさん、今おまえが何を考えているか当ててやろう」
「は?」
「ずばり―――厄介な男に目をつけられてしまった、だろう?」
「………。いや当たってますけど!? 当たってますけどなんでそんな得意げなの!?」
「ワッハッハッ!」
「いやワッハッハじゃねーよ!? なに!? なんなのJTくん!!」

彼女の「もうマジでわけわかんないよぉ〜〜〜サイコだよこの人〜〜〜助けておねーさん〜〜〜!」という嘆きの咆哮が、夕暮れの屋上に響く。サイコってなんだ? 最高の略か? と問うたら速攻で違うわ!! と肘が突き出てきた。少しダメージはくらってしまったが、彼女に肘鉄するぐらいの元気は戻ったのだと考えれば、まあ問題ない。





屋上で別れてから二週間ほど経過した頃、彼女から一度だけ接触があった。と言ってももちろん顔を突き合わせたわけではなく、オレの下駄箱にこんなものが入っていたのだ。


『その節は大変お世話になりました。ありがとうございました。ななしのななこ』


そう書かれたメッセージカードと、金平糖の小瓶。今までにもらったやつとはまた違う、今度は青や紫などの寒色系の金平糖だった。
驚いたが、同時に彼女らしいなと思った。律儀だな。そして、ご丁寧にワープロで打ち込まれた素っ気ないメッセージには、つい口の端が持ち上がってしまった。そうだな、確かに筆跡はヒントになってしまうからな。

しかし、向こうはオレのことをもう知っているのか。まあ、部活の話もしたし、イニシャルも知ってるし、更にオレはこの学校で割と知名度のある存在だし、聡い彼女なら身元を割り出すのは簡単だっただろう。

それに対して、こちらにはほとんど手がかりがない。上履きの色からして、同じ2年生なのは確か。あとは……エナメルバッグを所持していて、ボトルの飲み方を知っていたので、おそらく運動部じゃないかと思うが……これについてはまだ確証はない。

(………まあいいさ、時間はたっぷりある)

自室のメッドに寝そべりながら、金平糖を掲げた。白熱灯の煌々とした光を透かして輝くそれらは、陽射しが溶け込んだ常夏の海のようでもあり、星屑が瞬く夜空のようでもあった。綺麗だな、オレはやはりこの色が一番好きかもしれない。

ななこさんは、自分のことなどすぐに忘れる、なんて言っていたが、少し舐めすぎだ。こんな物証を残して、簡単に忘れられる訳があるまい。

………そう、言うならばこれはガラスの靴ならぬ、砂糖菓子で出来た靴。プリンセスが残した、唯一の手がかり。


待っていてくれ、オレだけのシンデレラ。



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