「――お、久しぶりに入ってるじゃん」


日曜日の朝。今日はユッキーにスケット依頼されたハンド部の練習試合の日だ。正直憂鬱もいいところである。
まあ学校に来たんだったら一応会長の仕事をしていくかと思い、例の部室に向かうと。木箱の中には一枚の紙切れが入っていた。

『東堂さまのことが大好きです。入会希望です』

クローバーのイラストが入ったメモに、可愛い丸文字。ふむふむ、1年生か、なーんか初々しくてなごんじゃうね。しかしもう1年にも東堂さまの魅力が伝わりだしてるんだな、さっすが。

私は規約書をクリアファイルから抜き出すと、折り畳んで入れる。

会長の仕事をしていると、自然と心が凪いでいく。自分の役目と立場をはっきり再認識できて、安心するからなのかもしれない。できれば常にこんな感じで生きたいものだ。





―――それから6時間後。

私の心は今、嵐が発生した海原のように荒れ狂っている。


(マジでふざけんなよあの女……思いっきり潰しに来やがって……)


右足を引きずるように歩きながら、私は保健室へ向かっていた。一歩一歩進むたびに、右足首に鈍い痛みが走り、顔をしかめてしまう。そして、頭の中では呪詛がBGMみたいに垂れ流し状態。酷いコンディションだ。

ハンド部の練習試合は接戦の末、箱根学園に軍配が上がった。私も、一週間前からちょくちょく練習に顔を出していた甲斐もあり、チームに迷惑をかけない程度には動くことができた。それはいい、それはいいんだけど。

試合終了10分前ぐらいだろうか。やはり必死になって点差をひっくり返そうとしてくる相手チームの猛攻を防いでいた時だ。うまいこと私が相手ボールをカットして一転攻勢、そしてカウンターで更に点差を広げてやろうと走りだして―――。

……そこでまあ、お上品に言ってやりますと、かなぁーり恰幅の良い相手チームのエースに、思いっきり突進され。なおかつ足を引っ掛けられて、転ばされてしまったのだ。

今考えてもあれは一発退場レベルの悪質なファールだった。でも、審判も素人で、普通のファールとして処理されてしまい、私はそこで交代――することはせず、死ぬ気でそこから10分間戦った。それもしょうがない。ここで交代できるまともな控えがいたなら、私はそもそもスケットとして呼ばれてないのだ。

ちなみに、倒されてすぐに立ち上がったので、ユッキーを初めとする他の部員にはこの負傷はバレてない。まあ残り10分間の私の形相はやばかっただろうが、うわ苗字の顔やべーな、相手を殺しにかかってるわ……ぐらいに捉えられただろう。

……しかし痛い。さっき外の水道でよく洗って冷やしたけど、意味は無かったようだ。がんばれ私、もうすぐ保健室だ。歩けているから骨は折れてないだろうけど、結構捻ったからなぁ。とりあえず保健の先生にテーピングしてもらって……。

保健の、先生に…………。


(………今日日曜日じゃん………………)


まさかここまでやってきて、それに気がつくとは。ピシャリとカーテンまできっちり閉められた保健室を見て、思わず虚ろな笑いが漏れる。無駄だとわかりつつドアを開こうとしても、やはり返ってくるのは固い手応えだけだ。

いや、これはなかなか極まってるな、私。怒りと痛みの極地でそんなアホでも分かる見落としをするなんてね。でもこれ新開辺りに話したらウケそうだな……。

(…………帰ろう……)

ひとつ、その場で大きく息を落とし、私は再び来た道を戻り始めた。まあ、そこまで酷い負傷でもないし、家でしっかり処置すれば治るだろう。帰るまでが鬼門だな……。

と、そんなことを考えて、うんざりしながら階段に差し掛かった時。
タッタッタッタッ……と軽快に階段を登ってくる音が下から響いてきた。

そして、その足音の持ち主が、私の前方下の踊り場に姿を表して、私は目を疑った。

だって、おかしいでしょ。どうして、こんな稀有なシチュエーションで、私は彼とエンカウントしてしまうんだろうか。



「と、とーどーくん……」


「!! 苗字さんじゃないか! どうしてこんなところに!」



―――これは、一体何の因果律が働いてるのだろう? 東堂FCの会長やってるから? ……私が彼から逃げてるから?

と、半ば現実逃避のように思考を巡らせている間に、彼はあっという間に階段を上がり、私の元へと駆けつけた。部活中だったのか、自転車競技部のジャージを着ている。

「やあ、苗字さん。こんなところで会うとは奇遇だな!」
「ああ、うん……ほんとにね。びっくりしたよ」
「しかし苗字さん……今日は何で学校に? 部活には所属してなかったよな?」

東堂さまは、Tシャツ・ハーフパンツ・エナメルバッグという、まるで運動部のような格好をしている私を見て、不思議そうにそう尋ねた。……あーやだな、見られたくなかった。

「うん、根っからの帰宅部なんだけどね。今日はハンド部のスケット頼まれちゃってさ。練習試合出てたの」
「おお、そうだったのか! すごいな、スケットを頼まれるなんて。……苗字さんはスポーツ経験者なのか?」
「まあ、一応中学の時にハンド部だったから。もう大して動けるわけじゃないけど、あはは」
「……そうか、それで……」

東堂さまは、私のエナメルバッグをちらりと見やると、「……なるほどな」とぽつりと呟いた。―――え? なにが?

と、その疑問を口にする前に、「苗字さん、お疲れ様」と爽やかに微笑まれてしまって、私はわずかに感じた胸騒ぎを飲み込んで、「うん、ありがとう……」ともごもごと返した。まさか東堂さまに労われる日が来るとはね。ははぁー! 見に余る光栄です! ……なんて、平伏したくなっちゃうわ。

「東堂くんは? 部活中じゃないの?」
「ああ、いや。今日は午前練だからもう規定の部活時間は終了してるよ。オレは今から少し保健室に用があるんだ」

と言うと、彼はジャージのポケットから何かを出して、私に見せた。チャリ、と音を立てて鈍色に光るそれを見て、ギクリとする。保健室の鍵だ。

「え……なんで保健室? どっか怪我したの?」
「違うよ。部室に備品として置いてあるテーピングテープが切れてしまっていたから、少し保健室から拝借させてもらおうと思ってな。今職員室で借りてきたんだ」
「へ、へえ〜〜。そういう仕事ってなんとなく、マネージャーの子がやるんだと思ってたよ」
「フッ、こういうのは気づいた誰かがやらねばならん。それに、今日みたいな暑い日に女子にお使いを頼むのは心苦しくてな。徒歩で部室と校舎を行き来するのは酷だろう。その点オレなら自転車で一瞬で行ける!」
「おおー…! さっすが東堂くん、やっさしー! 美形なだけでなく気遣いもばっちり!」
「ワッハッハ! まあ伊達に女子人気を獲得してはないからな!」

鼻を高くして声高に笑う東堂くんを見て、私はよしよし、と心の中で呟く。このモードの東堂くんならそんなに脅威じゃない。さっさとおさらばしてしまおう。

「……じゃあ、私はもう帰るね。東堂くんも、部活お疲れ様」
「ああ。引き止めて悪かったな、また電話するよ! ではな、苗字さん」
「……ウン。ばいばーい」

しなくていいよ!! と全力で心の中で叫んだが、そんなこと到底言えない。私は微妙な笑顔で手を振り、東堂さまを見送った。

はーあ、なんとか乗り切れた。しかし一難去ってまた一難、今から私はこの足を抱えて階段を降りなければいけないのだ。一息つくのは家に帰ってからだな。

……なんて、そんな風に重たい気持ちで重たい足をを動かした時だった。



「―――なるほど、足を痛めてたんだな」



不意に背後からかけられたその声に、私の身体は雷に打たれたように硬直した。


「……会えた喜びで、気がつくのに遅れてしまったよ。何でこんな場所に苗字さんがいるのか、少し考えれば分かることだったのに」

「…………」

「この階に用事があるとすれば、まず保健室しかない。キミには何か、保健室に向かわなければいけない理由があったんだ」

「……違うよ、」

「いや、違わないな。見ればすぐにわかる。右足首だな? 試合中に捻ったのか」


東堂くんはこちらに近づいてくる。どの指摘も正確すぎて、言葉に詰まってしまう私を見て、彼は「やはりな……」と静かに呟いた。


「苗字さん。肩を貸してあげるから、一緒に保健室まで行こう」

「……え?」


予想外の言葉に、私は思わず顔を上げて、まじまじと彼を見つめた。


「右足首、診せてくれ。症状が軽度なら、オレがテーピングしてやる」


「………」


――いやいや、冗談でしょ、と笑ってやろうと思ったのに。

東堂くんの顔は、怖いぐらい真剣で。私はその圧倒的なオーラに気圧されてしまって、口角が上がらない。

逃げるように咄嗟に俯いた。だ、ダメだ、流されちゃ…!

「いやいや、いいよ大したことないし……っていうか、東堂くんテーピングなんてできるんだね、すごいね〜さすが……! 」
「日常的に選手同士でやってるんだ。さあ、行こう」

おだてて東堂さまモードに乗せようとしたのに。失敗した。そんな私の浅はかな目論見なんて、彼にはバレバレなんだろうか。

焦りがじわじわと身体中を蝕んでいく。ゆっくりと首を絞められているような気分だ。だけどこんな提案、絶対に受け入れるわけにはいかない。

「いいってばほんとに、ほんとに大丈夫だから、そんなに痛くないし……!」
「そうは見えんよ、相当痛いはずだ。だって―――今日が日曜日であることを忘れて保健室へ訪れてしまうほど、なのだからな」

「………!!!」

……はは、ズタボロかよ、私。当事者じゃなかったら笑っちゃうぐらいには滑稽だ。

この、どうあがいたって彼の掌の上なんだと思わせてしまうような、風格とカリスマ。山神だなんて呼ばれてるけど、ほんとに神様みたいだなって思う。
彼が神様なら、私は一番の信者でなければならない。敬虔で、盲目で、絶対的な信者。だってそういう立場と責任を私は背負っている。逆らえない。本来なら。

(でも、でも、これは無理だ、だってこんなの、)

「そんなに拒むか」

東堂さまは、やれやれと呆れたようにため息をついた。

そして―――次の瞬間彼が放った言葉に、私は大きく目を見開いた。


「……変わってないな、お前。強がりで、人に弱みを見せたがらない。確かにそういうやつだったよな」


「!!! ………な、なんの……話を……」


声が震えて、最後まで言葉にならなかった。

彼の冷静で鋭い瞳は、どんな反応も見逃さないといったように、私を真っ直ぐ観察している。まるで、データの収集をされてるみたい。

……ここは、もう、恥を捨てて正直にぶちまけるしかないのか。


「っ、何の話か、意味わかんないけど、違うよ、全然違う、そうじゃないんだよ……!!」


ギリッと、込み上げる羞恥を押し殺すように奥歯を噛み締めて、私は口を開いた。



「―――恥ずかしいの!! ただ単に、そんな、男子にそんなことしてもらうのが、……っ、恥ずかしいんだってば!!」



「……!!」



床に叩きつけるようにそう叫ぶと、その声は私達以外誰もいない階段によく響いた。


「と、東堂くんが何を言ってるのか全く意味わからないけど……それだけだよ、拒む理由なんて。だって、男子に、足を……診てもらう、だなんて……そんなの……」


―――ああ、なんで私は、こんな辱めを受けているんだろうか。死にたいぐらい恥ずかしくって、目にじわりと涙が滲んだ。


「……す、すまない、そうだよな……配慮に、欠けていた……」


少し沈黙のあと、東堂くんがそう声をかけた。そっと目線を上げてみると、東堂くんは戸惑ったように目を伏せて、斜め下を見ている。そして、その頬は、ほんのり赤く染まっていた。

……そうだよね、あんな言い方しちゃって……東堂さまにも恥をかかせてしまった。申し訳無さで更に死にたくなってくる。

早く、一刻も早く、ここから立ち去りたい。

「ごっ、ごめんね〜! こんなんでも一応女子だから……! 恥じらいっていうやつ? 一応あるんだよね、あはは、ほーんと私なんかが何言ってんだって感じだけど…!」

「! そんなことは、」

「じゃあ私帰るから! 気持ちはとっても嬉しかった、ありがとう。じゃあね、東堂くん」


馬鹿みたいに明るい声を出して早口でそう告げると、彼に背を向けて、階段へと足を踏み出そうとした。



「待ってくれ」



―――踏み出そうとした、のに。

背後から腕を掴まれて、足が止まる。

最初に握手した時も思ったけど。やっぱり彼の指はどこかひんやりとして、冷たいと思う。大きくて、節くれ立ってて、長い指。男の子の手。一本一本の指の感触まではっきり感じるのは、私の身体が熱いからなんだろうか。


「……、待ってくれ、苗字さん」


東堂くんの声は、なにか切迫しているように、低い。
それほど強く掴まれてないから、振りほどくこともできるのに。私には、それができない。


「……苗字さんの気持ちも考えず、あんなことを言ってしまって、本当に申し訳ないと思ってる。……でもやはり、スポーツに従事してる者として、このまま見過ごすこともできない」

「………」

「簡単な処置でも、その後の治りが随分と違うんだ。……オレが嫌なら、部室から女子マネージャーを呼んでくる。だから、このまま帰ってしまわないでくれ、頼む」

「…………」


――ずるいな、と思う。

だってさっき、こんな暑い日に女子マネージャーを歩かせるのは申し訳ないって言ってたじゃんか。まあ多分、もうそんなこと全く意識してないんだろうけど。


「………わかったよ」


消え入りそうなほど小さな声で呟いた。


「東堂くんに、やってもらう」

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