怪道は思案する


泉田塔一郎は、汗とオイルの匂いが充満する室内で一人、黙々と両手に持ったダンベルを交互に上げ下げしていた。一連の動作の中で、彼の逞しい腕と大胸筋が激しく収縮する。その横顔は険しく、苦悶を表すかのように眉間にはシワが寄る。

そしてそれを続けることきっかり20秒。首にぶら下げていたストップウォッチが鳴るのを聞いて、彼はベンチにダンベルを下ろした。効率的に筋力強化をするために、20秒の間隔で彼はインターバルとトレーニングを繰り返している。かれこれこれで20セット目だ。
身に着けていたタンクトップは汗を吸収し、もともと黒かったそれはさらに色濃くなっている。泉田は、ダンベルの傍らに置いておいたタオルで乱暴に額の汗を拭った。

(あと何回できるだろうか………)

バクバクと脈打つ心臓を少しでも落ち着かせるために、彼は腰に手を当ててその場をゆっくりと歩き回る。俯いた彼の視界に、長ベンチがちらりと映り込んだ。ベンチ。連想ゲームのように、その単語は彼の昨日の出来事を脳内に蘇らせる。同じベンチでも、形からして何もかもが違う、あの音楽室裏の中庭に置いてあるベンチ。自分の隣に座っていた女の子のこと。その彼女の様子が少しおかしかったこと。

『――好、き……』

不意に、彼女……名前が発したその小さな声が頭の中で再生されて、泉田の足はピタリと止まった。あの時名前が自分の気持ちを確かめるために呟いた、聞こえるか聞こえないかのボリュームで放たれたそれは、泉田の耳にはっきりと届いていた。

――もともと熱かった身体がさらにカアッと熱を帯びる。規則的に動いていた心臓が、その時だけドクンと不自然に大きく震えた。

告白された時以来じゃないだろうか、あんな風に「好き」と言われたのは。しかも、自分から身体を寄せてきて。普段の彼女とは思えないぐらいに積極的だった。あと、それに………。

『っ、ご、ごめん……!!』

口付けをしようとした瞬間、逃げるように伏せられた顔。あの時は、昂ぶってしまった感情のまま、性急に事を進めようとしてしまった自分に嫌悪感を抱かれてしまったのではないかと不安に感じてしまったが、今は……。

(やっぱり昨日の苗字さん、少しおかしかったよな………)

その時、ストップウォッチが鳴った。20秒のインターバルの終了を告げる合図だ。その音に彼はハッとして、脳内が一気に部活モードに切り替わる。部活中にそれ以外の関係ないことを考えたりしてはいけない、それがたとえ最愛の彼女のことであっても。部活を頑張ること、それは名前と1年前に交わした約束でもあるのだ。

そうして、泉田が再びダンベルを手にしようとした時だった。

「――失礼するぜ」

トレーニングルームに大きな声が響いた。入口を塞いでいる巨体を見て、泉田は持ち上げようとしていたダンベルを再びベンチに下ろした。

「銅橋か。どうしたんだ」
「今日のAコースの周回タイムの報告に……って、トレーニング中だったか。すまねェ、出直くる」
「いや、構わないよ。毎日報告しにこいと言ったのはボクの方だからね。どれ、見せてみろ」

その巨体の持ち主――銅橋正清はトレーニングルームへと入ってくると、少し緊張した面持ちで、泉田に一枚の紙を渡した。
受け取った泉田が、時間をかけてその記録用紙の内容に目を通していく。銅橋はソワソワと落ち着かずに泉田の反応を待った。餌をおあずけされた犬のようなその様子は、彼の巨体と若干そぐわない。

そして、泉田の表情がパッと明るくなった。

「なかなかいいタイムじゃないか。しかも先週に比べると飛躍的にタイムが伸びている」
「全部泉田さんのアドバイスのおかげだ」
「練習は順調に進んでいるようだな。何か支障をきたすようなことは起こってないか?」
「いや、特に問題ねェ。……あ、そうだ。泉田さん、その…………」
「ん? どうした? 何でも言ってくれ」

泉田が穏やかにそう投げかける。銅橋は少し逡巡したあと、泉田に聞きたかったその質問を心の奥に引っ込めた。

「……やっぱり、何でもねえ。そんじゃオレはこれで失礼するぜ」

そう言うと、軽く一礼した銅橋は、泉田から返してもらった記録用紙を片手にトレーニングルームから出て行った。最後に見せた銅橋の吹っ切れない様子がわずかに気になったが、泉田は切り替えるために一度力強く息を吐くと、再度トレーニングに集中した。





トレーニングルームをあとにして、部室へと戻る。
泉田さん、まだ練習続けるんだな。もう規定の部活動終了時刻はとっくに過ぎているというのに、あの人の練習量は相変わらずとんでもねェ。部長になることが決まってから、さらに増えた気がする。

片手に持った記録用紙を、グシャリと握り潰した。

今日褒められたこの記録だって、あの人や新開さんが保持してるタイムとはまだまだ差がある。オレももっと練習を積み重ねなければ。今日はもう上がろうと思っていたが、あと一本だけ周回してくるか……。


―――にしても、だ。


(やっぱり信じられるかよ……泉田さんに女ができたなんて……)


最近、部活の連中がしょっちゅう話題にしているその噂。なんでも少し前に彼女ができて、夏休みには一緒に祭りに行ったらしい。偶然耳にしてしまった時には驚いた。なんでって……、だってあの泉田さんだぜ? 3年の新開さんや東堂さんとか、または2年の黒田さんならまだ分かる気がするが、あの泉田さんに………


『―――ボクはアブ!!』

『行くよ、アンディ、フランク!!』

『アブ! アブアブ! ブアブアブア!!!』


…………。

あの泉田さんに、女…………。


(―――ダメだ、想像もつかねェ!!!!)


その泉田さんの彼女は、泉田さんのアレを知ってんだろうか。知ってて付き合ってるんだろうか。つうか、本当に彼女なんているのかよ……? 確かめたいところだが、さすがに本人には聞けなかった。事情を知ってそうな先輩達の顔もちらほら思い浮かぶが、わざわざそんなこと聞きにいくのもアレだしよ。そう、泉田さんのおかげでだいぶ自分のやり方で練習ができるようになったが、他の部員と仲良くやれるようになったかというとそんなことはねェ。まだ一部の連中はオレのことを敬遠してやがる。泉田さんの彼女についてなんて聞けるわけない。


―――だがしかし、ちょうどそんな時だった。オレは思いもよらぬ形で、泉田さんの彼女の存在を知ることになったんだ。








2時間目が終了し、その休み時間。オレは怠い日直の仕事をこなしていた。黒板消しを腕いっぱいに動かし、黒板にびっしりと埋め尽くされた字を消していく。同じ日直だった女子には日誌の方を担当してもらっている。だってオレ一人でやった方が速いからな、この仕事は。
あらかた消し終わり、パンパン、と手を鳴らして粉を払った。そして、白やピンクや水色で一面汚れてしまった黒板消しを元の状態に戻すために、教室の入り口近くにあるクリーナーの元へ向かう。えーと、コンセントは……入ってるな。確認を済ますと、オレはスイッチを入れた。………その時だった。



「―――アレだよ、アレ、ほら、新しい自転車部の主将のカノジョ」

「え、どっち」

「手前、手前」



(………なんだと?)


それは、クリーナーが置いてある教室の入り口のドアの裏側から聞こえてきた。クリーナーがブインブインと音を立ててうるさかったが、確かにそう聞こえた。
オレは手を止めてクリーナーのスイッチを切ると、すぐさま立ち上がって入口を塞いで廊下を見わたした。「ヤベ、バレたかな」「馬鹿、ぜってーそうだろ」とドアに寄り掛かって先程の会話を繰り広げていたと思われる同じクラスの男子生徒2人が、突然出てきたオレに驚いて「うわっ!?」と声を上げた。反対方向を見ると、ちょうど女子生徒2人が並んで遠ざかっていくところだった。アレか。

オレは教室へと引き返すと、そのまま奥までつっきって、すでに開かれていた後方のドアに張り付いた。猛スピードで来たおかげで、その女子生徒2人が通り過ぎて行くところをちょうど見ることができた。………だが、しかし。

(ちょっと待て。今、通り過ぎていったのって………)

先程のあいつらの会話を思い出してみる。アイツら確か、泉田さんの彼女は「手前」の方だとはっきり言っていた……よな?
とすると、オレの目の前を横切っていった人物こそがその彼女だっつうことになるが………。

その女子。ポニーテールが印象的な……この学校の生徒会に所属していて、1年のオレですら名前をよく知っている、美人で秀才であることで有名な―――


(向河原聡美………あの人が泉田さんの彼女なのか!?!?!?)


……オレは、しばしその場で茫然としていた。なかなかに信じがたい事実だった。だってあの学校でも有名な美人と、泉田さんが………。マジかよ、泉田さんすげェな……。

しかし、そこでオレは思い出した。向河原聡美……その名前と一緒に、オレはとある噂を耳にしたことがある。

そう、向河原聡美は、自らの美貌を駆使して男達を弄ぶとんでもねェ悪女だと……今まで何人もの男達があの人に騙され、捨てられてきたと……。

――単なる噂だ。『美人=悪女』だなんて、そんなドラマの肩書きみてぇな設定が現実に早々あるわけないなんてことは分かってる。だが……火のないところに煙は立たない、ということわざがあるのもまた事実。


(……泉田さん、ひょっとして……騙されてんじゃねェか?)


自転車競技部では厳しいあの人だが、そういう恋愛沙汰には……あまり縁が無さそうにみえるもんな………いやそれはちょっと失礼かもしれねぇが………。

これは少し調べてみる必要がありそうだ。オレも正直言ってこういうことには慣れてねェが、なんつったって泉田さんは次期部長だし、オレの恩人でもある。尊敬する先輩でもある。もし噂が本当で騙されているのなら、ほうっておくわけにはいられねェ。

そういえば、向河原聡美さんの隣を歩いていた女子――あの人にオレは見覚えがある。確か、文化祭の設営の係で一緒だった、えっと名前は――そう、苗字名前さんっつったな。一言二言ぐらいしか喋ってねえから向こうがオレのことを覚えているかは分からねェが……いきなり向河原聡美さんのところに行くのはさすがに不躾な気がするし、とりあえずあの人のところへ行ってみようか。


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