01


窓の外では雪が降っている。私は、息を白くさせながら学校内を小走りで移動していた。
今は放課後。帰りのHRが終わって、部活が始まるまでの時間だ。このわずかな間に、今日の合奏のスケジュールについて顧問の先生に聞くことが、私の部長としての仕事の一つだ。

というわけで、その仕事を済ませ、職員室から出てすぐのところで、私はその人と遭遇した。

「苗字ちゃん」
「あ、新開さん!」

どうもこんにちは、と挨拶してぺこりとお辞儀をする。
電話は前にあったけど、こうして本人と会って話すのは久しぶりだった。

「よう。元気にしてた?」
「はい、元気ですよ。新開さんは……今から学校で勉強ですか?」
「ああ、いや。苗字ちゃんには言ってなかったっけ、オレもう推薦で大学決まってるんだ」
「え! そうだったんですか……! どこの大学ですか?」
「明早。自転車が強いんだ。寿一も同じとこ」
「おお……! それはおめでとうございます!」

音を立てないように拍手するフリを見せると、新開さんは「ありがとう。ま、推薦入試だけどな」とちょっと苦笑した。

「今度一緒に飯でも食いに行こうよ。もちろん泉田も一緒に。一般入試組はしばらく誘えないしな」
「はい、そういうことならぜひ。あ、合格祝いで私が奢りますよ!」
「泉田の手前そんなことさせられねえよ。それに、オレの食う量を奢るってなると、相当な額になるぞ?」
「うっ……」

言葉に詰まる私を見てくすりと微笑むと、新開さんは「あ、そういえばさ……」と話題を変えた。

「これ、もう泉田から聞いてるかもしれないんだけどさ……一応聞いとくね」
「?はい」


「―――苗字ちゃん、知ってる? 泉田の身体に、新たな筋肉の仲間が増えたこと」


「…………………」

…………。


「苗字ちゃん?」
「―――ちょっと待ってください。今、頭を切り替えますので」


不意打ち過ぎて、一瞬頭がフリーズしてしまった。

この話題に本気でついてくためには、少し準備が必要なのだ。心構えというか、覚悟を決めないと、途中でパニックになる。

よし。スイッチオン!

「どうぞ、続きを」
「ああ……。大丈夫?」
「はい」
「いや、オレもついこの前知ったんだけどさ。背筋の仲間が増えたらしい。名前はファビアンだって」
「なるほど。ファビアンさん、ですか……」
「泉田によると、〈筋肉の父〉らしいよ」
「筋肉の父」

パワーワードだ……。

「……筋肉の父って、それはアンディとフランクさんのお父さんって意味ですか?」
「や、そうじゃなくて……多分筋肉全般を指してるんだと思うよ」
「なるほど……」

うーん……この会話、聡美が聞いたらぶっ倒れそうだな。

「大体分かりました。ありがとうございます」
「ああ。で、挨拶するの? やっぱり」

新開さんはそう言ってニヤリと笑う。明らかに期待の眼差しを向けられている。

挨拶。
その単語で脳裏にフラッシュバックする、あのロッカールームでの出来事。


「……それは……」


簡単に言ってくれるなぁ。そんな、話を聞いたばかりで決められることじゃないんだけど。
答えに言い淀んでいると、新開さんは少し屈んで、私の耳元で声を潜めて囁いた。

「ほら、いずれ本物のお父さんに挨拶するんだから、一回筋肉で予行練習しといた方がいいんじゃない?」

「……――っ、な、なに言ってるんですか!」

思わず耳を抑えて飛び退いた。
危ない、「筋肉で予行練習」のインパクトに思考を持ってかれてしまっていた。ほんとこの会話、私のような一般人が付いていくにはレベルが高すぎる。

「え? 違うの?」
「いや、違うとかじゃないですが、」
「そんなつもりないなら、悪いこと言っちゃったな」
「そんなつもりないっていうか、当たり前のように言われても戸惑いますよ…」

頬を赤くして慌てる私を見て、新開さんは、ふぅん? と意味深に目を細めると、からかっちゃってごめんな、といつもの軽い調子で笑うのだった。


…………さて、どうしようか。





その日、名前さんから電話がかかってきたのは、23時を過ぎてからのことだった。

『――あ、もしもし。夜遅くにごめんね、今大丈夫かな?』
「ああ、大丈夫だけど……どうしたんだい?」
『……えっとね……。だ、大事な話があって』
「大事な話?」
『うん……』

電話越しに聞こえる彼女の声は、少し曇っているように聞こえた。一体なんだろう、こんな時間帯に。不安で動悸がわずかに加速する。

『あのね、塔一郎くん……私聞いちゃったんだけど』

彼女はそこで一呼吸置くと、神妙な声音で告げた。


『………増えたんだって? 筋肉』

「……………」


一瞬、彼女が何を言ってるのか分からなかった。

「――えっ?」
『新開さんから聞いたよ。筋肉の仲間が増えたって』
「………」
『ファビアン……さんって言うんでしょ?』

唐突に名前を出されたことに驚いて、ファビアンがびくんと反応する。
やっと彼女の言ってる意味がわかったけど……一体この話題がどう発展するのかが見えない。軽い世間話で済ますには、名前さんの声のトーンが真剣すぎるんだが……。

「そうだよ。そうだけど……それがどうしたんだい?」

『…………またやろうと思うの』


その一瞬で急に嫌な予感が胸に去来して、アンディがドクンと震えた。


『あの、〈挨拶〉を……!!』


―――やっぱりか………!!!


ボクが何も言えずにいると、こちらの動揺を察したのか、名前さんは焦ったように早口で言葉を続ける。

『あのね、やっぱり、ちゃんとけじめをつけときたくて……! 塔一郎くんの彼女として、目を逸らさずそこはきっちり自分の中で消化しておきたいっていうか……そうじゃないと、もやもやするっていうか……塔一郎くんのこと全部受け止めたいし、ちゃんと見ておきたくて、』

「………!」

『でも、ほら、あの時色々あったじゃん。ああいう風に塔一郎くんが傷つくような事態には絶対したくなくて……!! 今度は穏便に済ませたくて、何事もなく終わりたくて、』

「…………」

『で、私考えたんだけど……誰かの立ち合いのもと、やるとか……どう?』

「………………」

………は?

「待って。あれを? 人に見られながらやるの?」

『う、うん……塔一郎くんが自傷行為に走らないために………ほら、黒田くんとか、事情を分かってる人ならいいかなって………』

「………………」

―――名前さん、正気なのか?

『あの、塔一郎くん……』
「…………わかったよ」
『!』
「ただ、立ち合いは要らない。やるとしたら、二人きりが絶対条件だ。その……ボクのことなら心配しなくていいよ。もう、あんなことにはならない」
『そう? なら、そっちの方が私もいいけど……』
「それと……ボクからも1つ確認しておきたいことがある。ファビアンは背筋なんだ。これが何を意味するか分かる?」
『……? いや……』
「簡単なことだよ。背筋を見せるためには……、どうしたって脱がなければいけない。つまり、ボクは絶対に上半身裸になる必要があるんだけど……」
『!!!』
「前回、ボクがその……全部脱ぐことにかなり抵抗がある様子だったから。大丈夫かなって思って」
『そっか……そ、そうだよね……』

電話の向こう側から、彼女が戸惑っているのが伝わってくる。

『……大丈夫』

ややあってから、彼女は静かにそう告げた。

「本当に?」
『うん。大丈夫。あの時も別に嫌だったわけじゃなくて、恥ずかしかっただけだから……。男の子の裸なんて、見慣れてないからね』
「そ、それは……」
『それに塔一郎くんの身体、ほら……すっごいから。余計……ドキドキしちゃうし』
「…………」
『でもいつまでもそんなこと言ってられないよね。恥ずかしいのは塔一郎くんだって同じなんだもん、私だって恥ずかしい思いをしなくちゃ平等じゃない。私………頑張るよ!』

そう意気込んでみせる名前さんに、ボクは終始なにを言えばいいか分からなかった。とりあえず、この会話が電話越しで良かったと心から思う。名前さんに火照った顔を見られないで済んだから。


その後、日程の打ち合わせをして、彼女との電話は終わった。
決行は冬休みになった。名前さんは部活でほぼ毎日学校に来るらしいから問題無いし、ボクもその方が時間に融通が利く。シーズンが既に終了している冬休みは、他の長期休みに比べて若干部活が無い日が多いのだ。そして、場所はあの運命のトレーニングルーム。

名前さんにとってこれは、おそらく〈儀式〉のようなものなんだろう。羞恥心やプライドをかなぐり捨てて、彼女は本気でボクと向きあおうとしてくれている。その覚悟に、ボクも応じなくてはいけない。前回のように、浅はかで低俗な下心に飲み込まれそうになるなんてことは許されない。

――やるしかない。あの日からボクは、初めてのインターハイを、その敗北の屈辱と罪を、主将になった重圧を、そしてずっとずっと憧れていた存在を、全部乗り越えてきた。肉体もメンタルも強くなった。

今なら耐えられる。ロッカーに頭を打ち付けることなんてせずとも。



いや―――耐えてみせる!!!


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