04


「最後の一口だね。はい名前さん、あーん」
「ん! ……あ〜〜、美味しかった!」
「ふふ、満足したかい?」
「うん。塔一郎くんは満足した?」
「ああ」

正直なところを言えば、プリンの味を堪能する余裕は全く無かったが。心が満たされたという点で、嘘はついてない。
頷いてみせると、名前さんは「良かった、こんな美味しいもの食べなきゃ損だもん」と微笑んだ。

「……でも、意外だったな」
「え? なにが?」
「塔一郎くんが、あんなおふざけに付き合ってくれたこと。正直、もっと嫌がられるかと思ったよ。後半割とノリノリだったよね?」

ニヤニヤ顔でして指摘されて、思わず言葉に詰まる。

「そ、それは……、コホン。というか、自分でやらせといて、その言い方はないよね?」
「ふふ、嘘ウソごめん。付き合ってくれて嬉しかったよ。なんか、新鮮ですっごく楽しかった。ああいうバカップルみたいなイチャイチャもたまにはいいよねー」
「……他にバカップルみたいなイチャイチャって何があるの?」
「んー……例えばペアルックとか、メアドにお互いの名前入れたりとか……? あ、でももうメアドって文化も古くなりつつあるのかな。あとは……キスプリとか」
「きすぷり? ……ってなに?」
「キスしながらプリクラ撮ること!」
「……ううん……」

どれも人に見せびらかすような方向性のものばかりだな……と、ボクが渋い顔をしていると、名前さんが慌てて「あっ、別にやりたいわけじゃないよ!?」と取り繕うように言った。

「……ていうか私達、そんな時間無いしね」

そして、その後続けられたその言葉は、露骨に沈んでいて。はっとして彼女を見ると、その口元には、あからさまに無理のある笑みが張り付いていた。

「…………」
「…………」

多分、その時のボクらの気持ちは同じだったと思う。

今この瞬間だけで言えば、ボクの1番優先したいものは間違いなく彼女だ。でも学園に戻れば違う。どうしたって2番目になる。2番でなくちゃいけない。1番は……あえて言う必要もないほど明確だ。でもそれを彼女も理解してるし、きっと彼女も全く同じ状況に立たされている。

先にこの沈黙を破ったのは、名前さんだった。

「私さ、やっぱり今でも時々……寂しいなって思う。普通のカップルが羨ましいなって思うことある、よ……」

「……!!」

初めて、だった。
彼女の口から『寂しい』なんて言葉が飛び出たのは。

「放課後彼氏とどこどこ行ったーとか。土日に遊園地行ってお揃いのキーホルダー買った、とか。お家デートで手料理作ってあげた、とかさ。そういうの聞くたびに、ああいいなぁって思うことあるよ」

「………」

「でもやっぱり、私も塔一郎くんも、高校生活を部活に捧げた身だし、それは他でもない自分で望んで、自分で選んだ道だからさ。そんなこと考えちゃダメだって、すぐに頭を切り替えるんだけど――――」


そしてその瞬間、ボクは思わず呼吸を止めた。


――――熱い。


最初に感じたのはそれだった。ああ、やっぱり名前さん、まだ熱が高いんだ、なんて思った。でもそれはほとんど、現実逃避のようなものだった。


「ちょ、名前さん…」


彼女の腕が、ボクの腹筋に回っていた。
彼女の体温が、ボクの背筋に押し当てられていた。


つまり、ボクは名前さんに、背後から抱き着かれていたのだ。



「―――だけど、ね。だけど私、時々、なんだか無性に……どうしようもないぐらいに、塔一郎くんのことが、恋しくなる時があるんだ………」


「っ……!!」



そして、ぎゅうっと腕の力が強まった。身体と身体がより密着する。


―――まず、い。

これは、本格的に、まずい。


おそらく、普段付けてるものが、付いてないせいだ。この感触は多分、そういうことだ。


柔らかい。


………柔らかいものが、ボクの背中に押し付けられている。それが何か意識しただけで、ぐんぐんと身体が熱くなってくる。神経がそこばっかりに集中して、背筋が伸びてしまう。

このままだと、どうにかなってしまう。いや、すでに身体の一部分はどうにかなってしまった後なんだが。だってこんな状態であんなことを言われて、穏やかでいられるわけがないだろう。でも多分この位置関係ならバレてないはず……!


「ッ、名前さん、ちょっと、ごめん」


申し訳ないと思ったけど、少し強引に回された腕を解いて、ボクは立ち上がった。「え……」と、彼女が唖然とした声を出した。

「えっと、ええと……そう! こ、このプリンのゴミ、どこに捨てればいいかな?」
「………………。机の、横の、オレンジ色のゴミ箱に」
「これ?」
「うん」

早く収まってくれ、早く……! これでは彼女の方を向くことすらできないじゃないか。

「捨てた?」
「……うん」
「なら、戻ってきてよ」
「……………」
「……嫌、だった? それとも引いた?」
「え、」

思わず振り返った。名前さんはいつのまにか体育座りになって、顔を伏せている。

「そうだよね、最近、ずっとそうだもんね」
「最近? な、何を……言ってるの?」
「…………」

今ならバレない。ボクはベッドにそっと近づいて、再び腰掛けた。

「名前さん……?」
「……最近………塔一郎くん、私と妙に距離取りたがる、よね」
「え……」


そして、むくりと彼女は顔を上げた。


「キス、だって。全然してくれないじゃん……」


「……!」


「私が………私が、あの時、変な声出しちゃったから……? それでドン引きしちゃった……?」


―――ボクは、彼女の表情に釘付けになっていた。

初めて見る気がした。叱られた子供みたいに眉も口角も吊り下げて、ああ、揺らいだ瞳からは今にも涙が溢れてしまいそうだ。こんな風に、純粋な悲しみだけを映してる、彼女の顔。

でも、それに気を取られたのは一瞬だけで、ボクはすぐに我に返った。

おそらくだが今、ボクはとても大変なことを言われている。一言一句聞き逃してはいけないと、何故かそう直感していた。


「ごめんね、えっと、あの時って……?」

「それは……屋上で……ディープキスされた時だよっ」


言われなくちゃわからないのか、と咎めるように眉を寄せて、名前さんはこちらを睨む。でも、発熱で瞳の力が緩んでるからか全然怖くない。

……それよりも。今の彼女のセリフで、ボクはやっと理解した。変な声、というのもなんとなく。……でもこれってつまり、どういうことだ……?


「私さ、あの時、わけわかんなくて。塔一郎くんが何に怒ってるのかもわからなかったし、あんな風に激しくキスされるのも初めてで、苦しいし……抵抗すらさせてもらえないしさ……」

「う……ご、ごめん」

「そしたら急に舌が入ってきて……もうパニックだよ。でも私、受け入れようって思ったんだよね。きっと塔一郎くんも今追い詰められてて、自分でもよくないことしてるって気づいてるんだろうな、って。なんとなく、伝わってきたから……」

「……………」

「……でも、受け入れるって言ったってなにができるわけでもなくて……結局、されるがままになってたら……なんか、私、なんかね……」

「……う、うん」

「なんかわたし………ふわふわしてきて。頭ぼーっとしてきて、何も考えられなくなってきて、……変な感じに、なってきちゃって………」

「………………」

「そしたら勝手に……変な声が出てたの。ほんと、自分でもびっくりしたよ……自分の声じゃないみたいだったから……」


「……………………………」


―――どうしよう。ひょっとして、ボクは今、とんでもない告白をされてしまったんではないだろうか。だってこれ、明らかに本来ボクが聞いてはいけないような類の本音だと思うんだけど……。

多分、彼女が言うところの『変な声』とは。あの時、彼女がディープキスの最中に漏らした、鼻から抜けるような、艶っぽい響きの甘い声のことだ。よく覚えているし、今でも思い出す。至近距離でなければ聞こえないような小さい声なのに、鼓膜が捉えた瞬間血がぞわっと沸き立つような興奮を得たことも。


「変な声出しちゃって……なんだこのはしたない女はってドン引きしたから……だからもう、塔一郎くん、私とキスするの嫌になっちゃった……?」


掛け布団のシーツをぎゅっと握りしめ、震える声で言葉を紡いだ彼女は、最後にちらりとボクの方を見た。その初めて見る彼女の弱々しい縋るような視線に、心臓を貫かれたかのように胸が苦しくなる。

そんなことで不安になってたのか、名前さんは。気付けなかった。いや、気付かれないように振舞っていたんだ……!


「っ、そんなわけ、ないだろ……」


声を発するだけでいっぱいいっぱいで、ボクは浅く息を吐いてギリッと歯を食いしばった。一体どう処理すればいいんだ、この胸の痛みは。まるで生傷のように鮮烈に痛んで、ボクの表情は歪んだ。


「……違うんだ、名前さん。最近ボクがキスしてなかったのは……また、あの屋上の時みたいに、自制が効かなくなるのが怖かったからなんだ……」

「…………」

「ドン引きなんてするわけない。むしろ…………」

「…………むしろ?」

「………(しまった、失言だった)」

「…………むしろ、なに?」

「………っ、むしろ、すごく……可愛かったよ。……もっと聞きたいって思うぐらいには……」


ああもう何を口走ってるんだろう、ボクは。

今の発言に何も嘘はないけど、例えばあの時の彼女は「可愛い」だけでは到底言い表すことはできない。もちろん可愛かったけど、それ以上に……扇情的だった。もっと聞きたい、の部分に関してはオブラートに包んでもいない。でも今の名前さん、熱があるし、多分深い意味とか考えてないよな。


「ほんとに引いてないの?」

「ああ、当たり前だろ」

「………そっか………なら、よかった」

「うん……」

「……じゃあさ、……する?」

「えっ?」

「今。キス、する?」

「…………」


―――思わず、耳を疑った。


「いいよ、私。塔一郎くんになら。だから、我慢しないで……?」


「………」


頭をペンチでガンガンと何度も殴打されているような感覚だ。

彼女は何を言ってるんだ? 普段の彼女からは到底出ないような言葉が、容赦なくボクの理性を崩そうとしている。ふわりと、甘い香りが鼻をつく。大好きな彼女の匂い。ここがどういう空間なのか、ボクに思い出させようとするかのように、唐突に香り立つ。勝手に、息が上がってくる。勝手にぞわぞわと、高揚感がせり上がってくる。やめてくれ。こんなの、望んでない。

―――だって、ダメだろう、どう考えても。ダメな理由しかない。まず彼女は病人だ。そして熱があり、正気じゃない。この時点でもう悩む余地なんて無い。完全にアウトだ。



「……あの時のこと、私もう気にしてないから。だから、していいよ。ディープキス」


「……………」



ダメな理由、しかないのに。

ボクの理性が必死に積み上げたそんな正論の塔は、彼女の悪魔のような囁きであっけなく、ガラガラと音を立てて崩壊してしまう。……いや、違う彼女にそんなつもりはない! 発熱のせいでああなってるだけで、彼女にボクを惑わすつもりなんてないんだ。

――そうか。発熱のせいで、こんなことを。

(……だとしたら、)


「名前さんは……寂しかったの? 最近、ボクからキスをされなくて……」

「……う、うん、まあ………」

「そうだったんだね……そうか……」



―――ああ、最低だな、ボクは。

こうして、熱で一時的に嘘がつけなくなってる彼女に付け込んで、普段絶対に聞けない本音を、無理やり引きずり出そうとしてるのだから。



「………、ディープキス……されたいんだ?」



本当に……悪魔はボクの方だな。


聞いてはいけないことを聞いている、その自覚はあった。彼女の答えによっては、ボクは自分で自分の首を締める羽目になるだろう。だけど、聞きたいという欲求にどうしても抗えなかった。

名前さんは、そこで初めて「え……」と答えに詰まった。そして一度横を向いてそわっと身じろぎすると、再びボクの方を向いて―――恥ずかしそうにしながらも、コクンと、はっきり頷いた。


「……ッ!!」


それを見た瞬間、ぞくっと総毛立った。まずい。まずい……! 咄嗟に手で口元を覆って、彼女からすぐさま顔を逸らす。でももう遅い。どうしようもない劣情が込み上げてきて、内側から弾けてしまいそうだった。

ほら、やっぱりこうなった。自分で自分を追い込んで、なんて愚かなんだボクは。


「塔一郎くん………」


か細い声で名前を呼ばれると、自分の意志と反して、彼女の方を見てしまう。

すると名前さんは―――ボクと目が合ったと思うと、ふっと瞼を閉じた。しかも、ほんの少しだけ、唇に隙間が開いている。まるで、誘うように。


「………!!」


それはもう、くらくらしてしまいそうな、情景だった。先程から鼓動がやかましくて、いつもの建設的な思考が働かない。ピントがぼやける。彼女のくちびるにしか、焦点が合わなくなる。

誰かが囁く、キスしてしまえと。本人が望んでるんだ、何を躊躇うことがある?

その囁きに、自分の一番嫌いな、汚い欲望に塗れた自分が乗じてくる。そうだ、いいじゃないか、キスしたって。最近出来てなかったし、しても1回だけとかで、正直フラストレーションはかなり溜まってる。先程スプーンを口に差し込む時に感じたあのおかしな胸の高鳴りも、つまりはそういうことだったんだ。

ああ、あの柔らかそうな唇を食んで、その隙間に舌をねじ込んで、熱い口内を思う存分味わいたい。それはもう、背徳的で―――さぞかし甘美な味がするんだろう。そう、名前さんの言う『変な声』もまた聞けるかもしれない。そしたらもう止まれなくなってしまいそうだ。どこまでなら許してもらえるだろう? ジャージのジッパーは一瞬で下げられる。そうしたらはだけたパジャマから鎖骨が見える。首筋に吸い付いて、そのまま鎖骨まで口付けたい。あの窪んだところに舌を這わせたい。そこまでやったらさすがに抵抗するだろうか。ああ、その前に……頭をぶつけないように注意しながら、ベッドに優しく押し倒してあげなくては……。


(―――ダメだ、)


そう。どれだけ幻想に逃げようと、どれだけ現実から目を背けたくとも、解は一つしかないのだ。


『それは許されない』――絶対に。


ボクは、誇り高き箱根学園自転車競技部の主将だ。常に正しい判断を強いられ、決断を求められる立場にある。そんなボクがここで目先の欲望に飛びついて彼女とキスをした結果、万が一にでも再び風邪を貰ってしまったらどうする? 部員にどう示しを付ける? そんな情けない結末、きっと名前さんだって望んでない。彼女に理性が残ってたらまず間違いなくそう言うはずだ。

そして、1階には彼女のお母さんがいる。先程ボクはお母さんに誓ったばかりだ、『絶対に彼女を傷つける真似はしない』って。風邪を引いてる彼女にディープキスを迫るなんて、そんな余計に熱を上げてしまうような鬼畜な真似、できるわけがない。

ボクは、ブレザーに閉まっておいたケータイを開くと、通話ボタンを押した。

―――なるほどな。こうなることを見越して、向河原さんはこれを寄越したのか。悔しいけど……彼女の方が一枚も二枚も上手だ。全く、男だったら競技部に入れたいぐらいだな。……いや、男だったら名前さんを巡って本格的なライバルになってしまいそうだから、やっぱりそれはご勘弁願いたい。


「………名前さん」


相変わらず、ボクの決心をたやすく揺るがすような顔をしてキスを待っている彼女の頭に優しく手を置くと、彼女は「ん……?」とうっすら目蓋を開けた。


「名前さん、今日は、やめとこう?」

「………」

「風邪を引いて、身体が弱ってる時に、更に熱が上がってしまうようなことは……やっぱりできないよ」

「そっか……」

「………熱が下がったら………その、たくさんしてあげる、から……ね?」

「……うん。……わかったよ。ごめんね、困らせちゃって……」

「そんなことはないよ」


ボクは彼女の頭をゆっくりと撫でると、そのままその手を頬に下ろした。指先で軽く触れた彼女の頬は、乾燥していて熱い。そして、薄く開かれた唇を、親指の腹で優しくなぞると、名前さんはどうしていいか分からないといった風に戸惑った表情を浮かべた。

治ったら、その時は絶対。容赦なくこの唇を奪ってあげるよ。だから、


「―――早く元気になってね、名前さん」


「……う、うん」


そして、外からドタバタと部屋に近づいてくる足音が聞こえたボクは、彼女のベッドから立ち上がって距離を取る。どうやらお迎えが来たようだ。


「大丈夫ッ!?」


バターン! と凄い勢いでドアが開かれたと思うと、向河原さんは息を荒らげながら、部屋に入ってくる。そして、きょとんとしている名前さんとボクを見比べると、


「………お疲れ様、泉田くん」


と、ため息と共に、心から同情したような声でそう言われたので、ボクはこの人に対する認識を少し改める必要があるなと思ったのだった。まあつまり、勝手に対抗意識を燃やしていて申し訳なかった、というか……。


「助かったよ……ありがとう、向河原さん」

「いーえ。ま、あの子さ、熱が出るといっつもあんな感じになるのよ。甘えたっていうか、大胆になるっていうか。まあ私はもう何回か経験済みなんだけどね? ほーんと、可愛いけど参っちゃうわよね〜〜」

「…………」


―――やっぱり撤回だ。勝ち誇った顔でそう言われて、ボクは再び彼女をライバルだと認識した。







(……あれ、二人の間に火花が散って見える………そんな幻覚が見えるなんて、まだ熱が高いのかな私。……早く寝よう……)

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