青に刻まれる涙


真っ青な空を見ながら。
考えていた、彼女って何なんだろうなぁ、と。

空を見上げていると、地上の喧噪が別の世界の出来事のように聞こえてくる。夏の空はものすごく青くて、それだけだったらずっと見ていられそうだったけど、そこには当たり前のように太陽が存在していて、ギラギラと容赦ない日差しをこちらに向けてくる。日焼け止めを念入りに塗ってきたけど、肌がヒリヒリする。眩しくて、私は目を落とした。どこへ行くでもなく、とぼとぼと重い足を動かして歩く。




インターハイ三日目。途中道に迷ったり電車を間違えたりして、予定到着時刻からは大幅に遅れてしまったものの、なんとか会場にたどり着いた私は、先回りして場所取りしようと頂上のゴールに向かおうとしたところで、誰かの会話で「それ」を聞いてしまった。この誰か、は観客だったかもしれないし、箱学の人だったかもしれないし、覚えてない。とにかく、泉田くんが途中リタイアしてしまったという、その事実だけが、嫌にしっかりと耳に飛び込んできた。

聞いた瞬間、心臓が凍り付いた。頭の中で、自転車競技は一歩間違えれば命さえ落としかねないそういう危ない側面をもつスポーツだって、大きい大会では死亡者が出たこともあるって、ネットで見たことを思い出した。

ゴールとか言ってる場合じゃなかった。大会の人に道を聞きまくって、救護テントがあるその場所に向かった。泉田くん、大丈夫だよね。大きな怪我とかじゃないよね? 無事で帰ってきてって言ったもんね私。大丈夫だよね?
不安と焦りで足をもつれさせながら救護所の近くまで来ると、箱根学園のジャージを着た人を見つけた。慌てて近寄って、その勢いのまま、泉田くんは大丈夫ですか、とか、多分そんなようなことを私はまくしたてた。その人は相当面喰っていた。そりゃそうだと思う、言葉の勢いだけじゃなくて、私汗だくですんごい顔してたと思うし。ちょっと申し訳ないことをしたと今更ながら思う。

そして、その彼から聞いたのは、泉田くんは別に事故で怪我をしてリタイアしたわけではないということ、力尽きるまで全力で走って役目を果たしてリタイアしたってこと、そしてもうだいぶ回復しているということだった。私が死ぬほど安心したのは言うまでもない。

泉田くんが無事だとわかってやっと心に余裕ができた私は、その救護所の辺りをうろうろと落ち着きなく彷徨った。大会はまだ終わったわけじゃないから大っぴらに会うってわけにもいかないだろうし、だいたいここ部外者立ち入り禁止だったりしない? とか色々考えていた。今からゴールへ向かっても間に合わないだろうしなぁ。

そして、そんなことをしているうちに、結局私は、そこでインターハイの終わりを迎えてしまったのだ。


―――箱根学園は、敗れてしまった。







泉田くんがリタイアしたっていうのを聞いた時とはまた違う、思いっきり顔をひっぱたかれたような衝撃に、私はただただその場に立ち尽くしていた。

―――え? 箱根学園が1位じゃないの? なんかの間違いじゃないの?

でも、繰り返される放送で、それがまぎれもない事実だってはっきりして。そしたら、今度は自分の意識とは関係なく、足が勝手に動き出した。どこへ行くでもなく。ただふらふらと。足を動かしていないと、色んな感情に押しつぶされてしまいそうだった。泉田くんの顔が浮かんだ。あのトレーニングルームの汗と努力のニオイを思い出した。鼻のあたりがツーンとした。

なんとなく、箱根学園が優勝するもんだと思ってた。去年も優勝してたし、「王者」だし、今年のメンバーは強いって聞いてた。なにより、あんな血の滲むような努力を積み重ねていた彼らに勝るチームなんて無いと思ってた。

その、全ての認識が甘かったんだなぁと、この会場で―――もう全部終わってしまったこの会場で思い知った。

太陽の日差しを一身に受けて歩きながら思うことは、大会のことから少しずつシフトしていって、泉田くんのことと、そして私自身のことになっていた。
泉田くんに会いたくてたまらなかったけど、会ったところで彼に何を言えばいいのかが全然わからない。泉田くんのためを考えるなら、こういう時、彼女としてなんて声をかけてあげるのが正しいんだろう。逆に何も言わないほうがいいのかな。模範的な彼女になるための参考書があればいいのに、なんて馬鹿なことを考える。
わかってる、正解なんてないよね。多分、彼のことを信頼して、自分が言いたいことを言うのが一番いいんだろう。

でも………もう頭の中がぐちゃぐちゃで、彼に言いたいことすらわからない。こんなので彼女って言えるのかな、私。彼女ってなんなんだろう。

そんなことをうだうだと考えながら、結局また、私は箱根学園の救護テントの近くまで寄ってきていた。箱学の人が出入りしたりしてるから、多分そうなんだと思う。お邪魔することなんてできる雰囲気じゃないし、まず泉田くんがそこにいるかどうかも怪しい。

しばらくそこを見つめて……私は息を落とした。帰ろう。そんでもって、冷静になってからまた色々考え直そう。

と、思って踵を返そうとした時だった。


「―――苗字チャン?」


聞き覚えのある声に名前を呼ばれて、足が止まった。はっとして振り返ると、そこには首にタオルをかけた荒北さんが立っていた。

「あ………らきた、さん」

声が強張ってしまった。荒北さん、何でこの救護所にいるんだ? ゴールは山の頂上のはずで……もしかして荒北さんも途中でリタイアしたの? 突然のことにうろたえながらも、頭の隅で必死にそんなことを考える。

「やっぱ苗字チャンか。制服じゃねーから人違いかと思ったァ」

と、荒北さんは近づいてくる。どこか頼りない足取りから、全身の疲労感がこちらまで伝わってくる。そんな彼を見て、鼓動が速くなる。なんか言わなくちゃ。でもなんて言えばいい?

「あ……え、えっと……」

開いた口からは何も出てこない。『お疲れ様でした』とか、私がそんなことを言っていいのか? 何も言えずにただあぐあぐしていると、「……ハッ」と荒北さんが急に口元を緩めた。

「苗字チャンは、いいコだネ」

そして、続けられた言葉に固まる。え? 私が、なんだって??

「ンな気ィ遣わなくたっていいっつの。泉田だろ? ちょっと待ってな、呼んできてやっからァ」

と言うと、荒北さんは引き返していく。「あ、ちょっ、」と慌てて呼び止めようとしたけど、彼はもうテントに姿を消してしまった。

え………え、っと……。

とんでもない事態になってしまった。今さっき彼になんて言えばわかんないって悩んでたばっかりなのに。困る困る、困るってこんなの。焦ったところでもうどうしようもなく、私は慌ててタオルを出すと、汗を拭って、髪の毛を必死で整えた。


―――そして、結局なにひとつ考えがまとまらないうちに、その人はテントから出てきた。


姿を目にした瞬間、その時頭の中にあったものが全て吹っ飛んだ。焦りも、不安も、迷いも。どこか行ってしまった。


「苗字さん………」


近づいてきて、名前を呼ばれる。逆光で、暗くてはっきりとはわからなかったけど、彼の目元はほんの少し赤いような気がした。

何を言えばいいのかとか、何を言いたいとか、もうそんなんじゃなくて。

頭が、真っ白になっていた。

は、と浅く息をついた。泉田くん、と言おうとして口を開いても、喉はもうカラカラで、声すら出ない。

「苗字さん、その………」

何も言えない私を見て、泉田くんはぐっと目線を下げた。眉は歪んでいて、苦しそうだ。声が震えている。そんな彼が、再び口を開くのを見て、私ははっとした。

――言わせてはいけない。

そう、身体に電流が走ったように直感した。


「泉田くんっ!!」


そしてその瞬間、私は声を張り上げて彼の名を叫んでいた。さっきまでガチガチに固まってた声帯から無理して大声を出したので、思いっきり変な声になる。

泉田くんは肩をビクリとさせて、また目線を上げて私を見た。そりゃ驚くよね。

「………い、泉田くん……! 泉田くん、あの、あのっ………!!」

相変わらず頭は真っ白だった。でももう後戻りはできない。何か言わなきゃ。

「あのね……私、い……泉田くんのこと、―――そ、尊敬してるっ!!!!」

は?

「えっ?」

「……………い。泉田くんは、すごいよっ、ほんとに!! あ、あんな努力、誰にでもできることじゃないもん……!! 私には到底ムリ、並の人じゃ叶わないよあんなの!! 私、真面目で、努力家な泉田くんのこと、心の底から尊敬してる……!!」

思いっきりずれたことを口にしている自覚はあったけれど、一度言ってしまったらもう突っ走るしかなかった。

「インハイ行って、泉田くん走ってるとことか見て、ますますそう思ったの…!! すっごく速いんだもん!! 泉田くんは私が知ってる人の中で一番すごいよ……あ、聡美もなかなかすごいけどね! あの子はあの子ですごいけどね! でも泉田くんもすごくて……」

言語中枢がオーバーヒートし始める。家にある低スペックの古いパソコンみたい。起動するだけで10分かかって、湯気出そうなぐらいに熱を発するアレだ。ねえ、私、今何度「すごい」って言ったの?

「―――だから、私ね……! 私自転車には乗れないし一緒に戦ったわけじゃないから、泉田くんの気持ちが全部わかるわけじゃない……でも私、一番泉田くんのこと尊敬してるしね、一番ファンだし……一番の……み、味方だから……!!! 結果がどうであれそれは絶対に変わらなくて………」

「………苗字さん……」

「つまり、今までの話をまとめると―――泉田くん、ありがとう! 私との約束、守ってくれて!」

「え? や……約束?」

「言ったじゃん、私、泉田くんを送り出す時に! 怪我とか気を付けて、無事で帰ってきてって……。ほんと私、それだけは心配してたから。よかったよ、大きい怪我とか無くて。泉田くん、本当に、本当に、お疲れ様……!」

空回りに空回りを重ねた末に、結局はそこに行きついた。『今までの話をまとめると』ってね、私、何もまとまってないから。真っ白な状態から喋り始めたとはいえ、これはひどい。日本語って難しい。

「―――苗字さん、ありがとう」

唐突に突拍子もないことを喚かれたっていうのに、私に微笑みかける彼の顔は、いつもと同じように、すごくすごく優しかった。眉を少し下げて、『苗字さん、本当にチョコレートが好きなんだね』って言う時と同じ笑顔だ。

………でも、なんだか………。

「お……お礼を言われることじゃないよ」
「ううん。……少しだけ、楽になった。心配かけてごめんね」
「あ………」

あっさりと、謝られてしまった。
どんな形であれ、それだけは言わせたくなかったのに。

泉田くんがテントの方に目をやった。箱学の部員の動きを確認しているみたいだ。何やら皆忙しなく動いている。

「ああ……もうすぐゴールにいる部員と合流するために移動するみたいだ」
「! そっか、ごめんね、忙しいのに会いにきちゃって」
「大丈夫。今日は遥々ここまで応援しにきてくれてありがとう。帰りは一人?」
「うん」
「そうか……気を付けて帰ってね。また、連絡するよ」

そう笑いかけて、泉田くんが去っていく。彼との距離がちょっとずつ開いていく。そして泉田くんは、テントの中に消えてしまった。私は、どうしたらいいのか分からないような、漠然とした寂しさを持て余しながら、そこに立っていた。

遠かった。泉田くんの笑顔が、とても、遠かった。

『ありがとう』って微笑んでくれた、泉田くんのあの言葉は間違いなく本物だ。でもあの感謝の言葉は、きっと、その前の私の言葉に対してのものではない。私の言葉は多分、全然彼の心に届いてないんだ。その表面をするりと撫でただけで、心の奥の本当に辛い部分にはかすりもしていないんだ。彼の柔らかい、慈しむような笑顔を見て、そう確信した。

忙しなく、私の周りを色んな人が通り過ぎて行く。……私も、箱学のテントに背を向けて、歩き始めた。

今、彼の心に寄り添ってあげられるのは、私ではない。泉田くんは絶対に、私にそんな部分をさらけ出してくれない。部員の人とか、先輩とか、多分そういう一緒に闘ってきた人じゃないとダメなんだ。きっと今一番辛くて悔しいだろうに、泣きたいだろうに、私はそんな時に何もできない。

彼女ってなんなんだろうな。

吸い込まれてしまいそうな青い空を見上げて。
せめて、彼の心の傷が早く癒えますように、と。私は、祈った。



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