マナミ・サンガク・マナミ?(2)


男の嫉妬は国をも滅ぼすという言葉を聞いたのは、どこだっただろう。

なにかのテレビ番組だったかもしれない。しっかり見ていたわけではないから、前後の話も思い出せないし、聞いた当時もさして何も感じなかった。まだ、恋なんてものを知らなかった時代。女性に全く興味がなかったわけではないが、それ以上にそういう浮ついた話に縁がなかった自分。だからだろうか、日がな女子の下卑た話で盛り上がるクラスメイトや、交際を始めてうつつを抜かしている友人達を、どこか冷ややかに見ている節すらあった。

(昔のボクが今のボクを見たら、きっと驚くだろうな……)

授業中、斜め前方に座る名前の背中を見ながら、泉田はそんなことを考える。驚くどころか、落胆ぐらいされてもおかしくない。結局お前もそうなってしまうのかと。女に骨抜きにされている暇があれば練習しろと。昔の自分はそれぐらい言いそうだ。

―――知らないからそんなことが言える。

知らないから。片思い中の身を焦がすような慕情も、笑顔を向けられた時の高揚感も。獲られたくないと、自分のものになってほしいという独占欲も、想いが通じ合った時の全能感も。柔らかく甘い唇も。抑えているのに湧き上がってしまう情欲も。全部知らないから、そんなことが言えるのだ。

「じゃあ教科書の33ページから苗字、読んで」

今ちょうど考えていた想い人の名前が教科担任から出てきて、泉田ははっとした。はい、返事をして立ち上がった名前が、たどたどしくも英文を朗読し始める。発音はお世辞にもいいとは言えない。泉田は名前の声を聞きながら、再び、そっと目を閉じる。

(……ああ、好きだな)

そうしてまた、彼女に想いを馳せる。まるで片思いをしていたころに逆戻りしたようだ、と薄く自嘲しながら。


名前が弦楽器部の部長に就任してから、会う時間は前よりずっと少なくなった。もとより、その覚悟はしていた。彼女は一年前から努力の人だったから、おそらく部長の仕事が増えても自分自身の練習をおろそかにすることはないだろう。そういうところを泉田は心から尊敬していたし、素直に応援しようと思っていた。

だが、二人きりで会える時間が少なくなってきて、少しずつ、殻にひびが入るように、そう思うことに無理が生じてきた。部長になり、日中も慌ただしく奔走している名前の顔は大変そうだったが、とても充実感に満ちていて、寂しく感じている自分とは対照的で、それも泉田の心に影を落とした。


『私達は、会えなくなっても繋がってるから!』


まっすぐな瞳を向けて、そう言い切る名前の笑顔が胸をよぎる。二人の間の魔法の言葉。キラキラ輝く、美しい思い出。


……そう。そうだ。その通りだ。

だから、ボクが、〈間違っている〉。

会いたいだなんて、そんなのは、〈我慢しなくちゃいけない〉。

だって〈彼女は望んでいない〉から、そんなこと。


泉田は思う。


嫉妬で国を滅ぼすだなんて、馬鹿げている。そもそもそれを表に出すことが愚かだ。
男だったら、相手に悟られることなく、自分の中で処理するぐらいの器の広さがないとダメだろう。

―――例え、それで自分の身が滅ぼうとも。

一生懸命頑張っている、彼女の邪魔だけはしたくない。





「一応、今月はこんな感じで予定を組んでみたのですが、どうでしょうか」
「……ああ。ざっと見た分だと問題はなさそうだな。これはオレから三年に回しておこう。部長の仕事が板に付いてきたようだな、泉田」

福富が大きく頷くのを見て、泉田は「ありがとうございます!」と頭を下げる。昼休み、彼は定期的に福富の元に出向いて、こうして業務の報告をしていた。

「あと、毎年恒例の追い出しファンライドなのですが、そろそろ先輩方で日取りの相談をしておいてもらいたいです」
「わかった。来週中には候補を出しておく」
「了解です。それでは、ボクはこれで失礼します」

もう一度きっかり礼をして、泉田はその場をあとにする。学校の先生より、福富と話す方が緊張感があるのは何故だろう。ふう、と泉田は息をついた。

新開とばったり遭遇でもしないかと期待しながら歩いていたが、どうやらそううまくもいかず、そのまま3年のクラスがある校舎から2年のクラスがある校舎へ、彼はまっすぐ進んでいく。

そして、渡り廊下を超えた、その時だ。彼の目はあるものを捉えた。


(……あれは、苗字さんと………真波か?)


渡り廊下を抜けた先の、自動販売機などが置かれている少々広がったスペース。その先に自分達の教室などがあるのだが、その隅の方で、窓に寄りかかりながら、彼の恋人と後輩が喋っている。

異様な組み合わせに、なにか不穏なものを感じたのか、彼の左大胸筋のフランクがどくんと震えた。泉田の脳内にフラッシュバックしたのは、以前食堂であった騒動だ。あの時の相手は、銅橋だった。

落ち着け、塔一郎。平常心だ。もうあんな醜態を晒すわけにはいかない。

ごくりと唾を飲み込み、泉田は彼らに近づいていく。

「苗字さん、真波、こんなところで何を話してるんだい?」
「あ、泉田くん!」

努めて冷静に、穏やかに、笑顔を浮かべて声をかける。名前に続いて、真波が「あ、泉田さんだ」とのほほんと反応した。

「何の話してたんですっけ?」
「いやいや、忘れるの早いよ。あんまり宮原さんを困らしちゃダメだよってことだよ」

もー、と名前は呆れたように笑う。「あはは、すいません」と答える真波もなんだか楽しそうだ。思いのほか親しげな二人の様子に、泉田の焦燥感は募りだした。あと、宮原さんとは誰だ、宮原さんとは。

「……あの、聞きたいんだけど、二人はどこで知り合ったんだ?」
「あ、そうだ、言おうと思って言ってなかったっけ。つい最近、コンビニでちょっとねー。色々あって、仲良くなったんだよね」
「あれはかなり面白かったですね」

色々? 色々とはなんだ。二人の歯がゆい物言いに、苛立ちすら感じ始めた。だがそれを悟られないように、ぐっと押さえつける。

しかし、そんな泉田の努力も、真波の次の一言で、その全てが水泡に帰した。



「だって名前さん、初対面でいきなり肉まん半分こにしようとか言ってくるんだもんなぁ」



(………。……は?)



「ちょっ、ちょっと山岳くん、その話泉田くんの前でやめてくれない!? 約束したよね!?」
「え、しましたっけ?」
「したよ!!」


「………………………」


(名前さん、そして、山岳くん…………)


どくん、と大きく心臓が震える。


落ち着け、落ち着け。聞き間違いかもしれない。だってそうだ、つい最近知り合ったばかりの二人がお互いに名前呼びなんて不自然だ。真波はともかく、苗字さんが男子生徒を下の名前で呼んでいるなんて、そんなの聞いたことないぞ。だから聞き間違いだ。……聞き間違いであってくれ。

暴れだす鼓動を宥めるように、泉田は必死にそう自分に言い聞かせる。そんな聞き間違いなんて滅多に起こらないということにうすうす気がつきながら。それでも認めるわけにはいかない、認めてしまったら、最近感じていた寂しさや物足りなさを巻き込んで、いろいろなものが崩壊してしまいそうだった。


しかし。

 
「なんていうか、名前さんって、怒るとちょっと子供っぽくなりますよね」
「ほーう山岳くんはナチュラルに人を煽るのが上手だね。そんなこと言うともう匿ってあげないぞ。即宮原さんにつき出しに行くから」
「それは勘弁してほしいなぁ」
「いやあのね、あなた今勘弁してほしいなぁって顔全然してないんですけど」


追い打ちをかけるような二人の会話に、あ、これはまずい、これはダメだ―――刹那、泉田は他人事のようにそう思った。


視界がちかちかして、揺れている。全ての音が遠ざかっていく。その代わり、うるさいぐらいの鼓動の音が全身に響いている。


泉田はゆっくりとした動きで額に手を当てた。


(名前さん、か。一度もそんな風に名前で呼んだことがないな。ボクは恋人なのに。1年前からの知り合いなのに。なんで真波にはそう呼ばせてるんだい?)


泉田は、押しとどめていた息を、こわごわと吐き出した。


(山岳くん。一度もそんな風に名前で呼ばれたことがない。ボクは……ボクは、恋人のはずだ。なのに何故……会ったばかりの真波のことは名前で呼ぶんだ)


―――それは、紛れもなく嫉妬だった。今まで経験したことのないような、脳の神経を焼き切ってしまいそうなほどの燃え盛る嫉妬の炎が、泉田を包んでいた。別に恋人同士だろうがそうでなかろうが、名前の呼び方は自由だ。それに、いつか名前で呼び合う仲にはなりたいとは考えていたが、それは泉田の心の中だけに留めていた願望で、名前に打ち明けたことは一度もない。だからここでこの二人に嫉妬するのは、お門違いだ。

しかし、泉田はそんなこととっくにわかっていた。わかっているからこそ、そんな風に嫉妬してしまう自分が許せなくて、余計に醜い感情に溺れる。


「もー、ほんとにさー。泉田くんはどう思う!?」


唐突に呼びかけられ、泉田の意識はすうっと浮上した。目を開けると、さすがに名前も泉田の様子がおかしいことに気がついたようで、「泉田くん…?」と心配げに声をかけられる。


「……ああ、少し聞いてなかったよ。なんだっけ?」

「え? えっと、そう、泉田くん聞いてよ、山岳くんがね―――――」



……その時、泉田は、何かがぷつんと切れる音を聞いた気がした。



「苗字さんごめん、ちょっと来てくれ」



気が付くと体が勝手に動いて、名前の腕を掴んでいた。そして名前が驚きの声を上げるのも構わず、無理やり手を引いて歩きだした。





「……やべ、やりすぎちゃったかも。あとで怒られるかな」
「山岳―――!! やっぱりここにいた!」
「あ、委員長。やっと来てくれたぁ」
「やっと来てくれたーじゃないわよ。あんたまた名前先輩のところにいたのね、先輩にご迷惑だって何回言えば―――あれ? 名前先輩は?」
「あはは、王子様が連れてっちゃった。じゃ、クラスに戻ろっかー委員長」
「……え? ちょ、ちょっと待ちなさいって!」



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