怪道との遭遇


苗字名前は、悩んでいた。


(ううむ、どーしよっかなー……)


水道にて手を洗うその顔はいつになく真剣だ。彼女が今何を考えているのかというと――今日のお昼ご飯についてだった。空腹を訴える胃袋と相談しながら、彼女は水気を払ってタオルハンカチで手を拭った。

毎週水曜日と金曜日は生徒会役員の会議が開かれるため、聡美とはお昼を共にできない。今日は水曜日だった。というわけで、一人でお昼を食べるしかないのだが、これにあたって彼女の中には3つ選択肢があった。

ひとつ、クラスの他の女子グループの仲間に入れてもらう。
ふたつ、昼練をかねて部室で食べる。
みっつ、学食。

(……久しぶりに学食とか行きたいけど、一人っていうのもなあ……)

相変わらず手洗い場の前でうーむと名前が思案していると、大きな影が自分を覆った。そしてちょんちょんと、控えめに肩をつつかれる。振り向くと、そこには一人の男子生徒が立っていた。自分を覆った影は、この男子生徒の巨体のものだったのだ。

「あの……スイマセン、苗字名前さん……だよな」
「! は、ハイ、何でしょう」

名前は、その鮮やかなグリーンの髪色に覚えがあった。

(この子は確か、文化祭の設営の係で一緒だった……)

名前が必死で記憶を辿りよせていると、その男子生徒――銅橋正清は、名前のそんな姿を見て、慌てて口を開いた。

「あ、オレ、文化祭準備の係で一緒だった、1年の銅橋……って、覚えてねェよな……」
「――ああ! 思い出した、銅橋くんね!」

遡ること数か月前、箱根学園の文化祭。様々な係が全校生徒に割り振りされる中で、名前と銅橋は同じ係としてほんのわずかな時間、行動を共にした。初めて見た時、1年生とは思えないその体躯に驚いたことを名前は思い出した。そして、ステージの来賓席などに使われる長机を共に運んだことも―――その際、彼が非常に力持ちであるため名前が力をいれる必要はほとんど無く、結果的に自分だけ楽をしてしまった気分になり、彼とその他の生徒達に若干申し訳なく感じたことも、思い出した。

「一緒に机運んだもんね、覚えてる覚えてる! それで……何か私に用かな?」
「ああ……えーと、その………」

口ごもってしまう銅橋を見て、名前は少し不安になった。もしかしたら、例の彼のことについて、また何か聞かれるのかもしれない。1年生にまで噂が広まっているなんて思いたくは無いけれど。……ちなみに、名前は銅橋が自転車競技部であることは知らない。

しかし、銅橋の用件はそれとは全く無関係のことだった。

「その、苗字さんって……生徒会の向河原聡美さんと仲良かったよな?」
「……聡美? うん、そうだね」
「少し、その向河原さんについて聞きてェことがあって来たんだ。突然で申し訳ねぇんだが……」

銅橋はそう言って、居づらそうに身を縮こまらせた。彼の用件とは、彼の先輩――泉田と向河原聡美の関係を聞くことであった。銅橋は、泉田の彼女が聡美であると思いっきり勘違いをしていた。
銅橋のそんな様子を見て、名前は何か察したように「…ああ!」と少し目を見開いたあと、口元をニヤリと歪めてみせた。「成る程〜そういうことか〜」となにやら楽しげな様子である。

「――わかった! 話を聞こう! あっそだ、銅橋くんお昼まだ?」
「え? ああ、まだだけど……」
「ならさ、一緒に学食行かない?」
「えっ??」
「私もー腹ペコでさー。いつもは聡美と一緒に食べるんだけどね、あの子今日生徒会の会議だから一人なの。学食行きたかったんだけど、一人じゃ行き辛いし。ね、話はそこで聞くからさ、お願い!」

名前が切なげな表情でお腹をさする。先程とは一変して、何故か一気にノリが良くなった名前に銅橋はついていけなかったが、彼はとりあえずそんな彼女の提案を承諾した。まさかこんなにスムーズに話を聞いてもらえるとは思っていなかったので少々驚いてしまったが、こちらとしては願ってもない申し出だ。







「久しぶりに食べたかったんだよね〜〜このハムカツ定食!」

食堂の一番隅っこのテーブルに向かい合わせになり、名前と銅橋は座っていた。この座席を指定したのは名前だ。「やっぱり、こういう話はなるべく隅の方がいいでしょ?」と言いながら、ずんずんと歩いていってしまう名前に、その言葉の意味が理解できないまま銅橋はついてきてしまった。先程からこの人は何か勘違いしているような気がしてならない。

「しかし銅橋くんまたすっごい量だね。私漫画でしか見たことないよ、そんな山盛りご飯」
「ああ……こんぐらい食べとかないと午後持たねェからな……」
「なるほど、銅橋くん身体でっかいもんね」

何の部活に入ってるんだろう、ラグビー部とかかな? と見当はずれなことを思いつつ、名前は「いただきまーす」とパチンと手を合わせた。そして、ハムカツを頬張り「やっぱり学食のハムカツ美味しいなあ…!」と顔を綻ばせる。マイペースな人だなと思いつつも、銅橋もそれに続いて「いただきます」と箸を取った。

「うーん、しっかし聡美もすごいなあ……。同級生や先輩はしょっちゅう相談に来るけど、1年生は初めてだもんなあ……」
「えっ。……何のことすか?」
「え? なにって、銅橋くんは聡美のことが好きで、その相談をするために私のところに来たんでしょ?」
「…………ちっ、違ェよ!!……あ、違いますよ!!」

さすがに先輩女子に対して使うには乱暴な言葉になりすぎて、慌てて敬語で言い直す。銅橋は理解した。そうか、先程からこの人が妙に生き生きとしていたのはこんな勘違いをしていたからだったのか。

「え? じゃあ銅橋くん、私に何を聞きにきたの?」
「………いや、その……実は、いず……じゃなくて、オレの先輩が向河原さんと付き合ってるみてェなんだけどよ……」

「―――へっ?」

名前はハムカツを箸で掴んだまま、ポカンと口を開けた。

「……聡美、誰とも付き合ってないけど」
「………えっ?」

今度は銅橋が口を開ける番だった。その間に、名前はハムカツを頬張りご飯を口にし咀嚼してごくんと飲み込むと、依然瞬きを繰り返している銅橋に向かって、「何かの勘違いじゃないかなぁ。聡美は今誰とも付き合ってないよ」と、言った。

「そ…っ、そんなわけねェ! だってオレ聞いたぞ、先輩と向河原さんが一緒にお祭りに行ったって……!」
「お祭り? ……夏休みの?」
「おう、浴衣姿で二人っきりでいるところを見たって聞いたんだ……!」
「…………あ〜〜!! 分かった! はいはい、あの、『5組の彼さん』ね!」

なるほどなるほど。と、名前はすっきりした表情で頷いた。思い出していたのは、以前聡美と交わした会話である。あの、うまくいきそうでいかなかった名前も知らない5組の彼さん。そういえば彼に誘われて2人でお祭りに行ったって聞いたな、銅橋くんが言っているのはこの人のことか、と名前は理解した。実はそれが全くの勘違いであることを彼女は知らない。

銅橋は銅橋で、彼は泉田のクラスまで把握しきっていなかったため、名前が言ったその『5組の彼さん』というのが泉田であることだと思ってしまった。名前の勘違いに勘違いを塗り返してしまう形になってしまったのだ。

「あの人ねえー。なんか聡美にしては珍しく好感触っぽかったけど、結局ダメだったみたいだね。私も詳しいことはあんまり聞いてないんだけどさ」
「!! そ、そうなのか……もうフラれちまったのかあの人……やっぱりそうだよな……」

泉田さん、可哀想に……と銅橋は心の中で思ったが、まずそれは根底からして全て間違っている。そして後半の一言は泉田に対し若干失礼である。

「……でも銅橋くん、もし聡美とその先輩が付き合ってたとしたら、私に何を聞こうと思って来たの?」
「あ、いや……その……」

今となっては聡美の噂について聞くのは意味の無いことだったが、銅橋はほんの少しためらった後、正直にそれを名前に打ち明けた。わざわざ自分のために時間を取ってもらったというのに、このまま何でもねェよ、で終わらせるのも失礼だと思ったのだ。

と、名前はその聡美についての噂を聞くと、あっはっはっは! とあっけらかんと笑い飛ばした。

「今でもそんな噂回ってるんだ! 銅橋くん、それ信じちゃだめだよ、ぜーんぶ嘘だからね」
「嘘……なのか」
「全部嘘だよ。聡美は万能美少女だから、やっぱりいつでも女子のやっかみが付いて回っちゃうんだよね。多分銅橋くんが聞いたそれもねー、聡美にフラれた男の子のことが好きだった女の子が流した噂なんじゃないかなー。前にもひどい噂が出回ったことがあったよ、元中で男百人斬りしたとか。先生と関係持っちゃって他県から飛ばされてきたとか。よく考えつくよね。でも大体がすぐに消えちゃうんだよ、あの子自身がすごくいい子だから」

と、着々と食べ進めながらも、名前はその合間合間にぽつぽつと聡美について語った。そして、「ね? 分かってくれた?」と銅橋に笑いかける。銅橋はハッとして、名前に対し深く頭を下げた。

「――すまねェ!! 適当な噂信じて、苗字さんの友達のことを疑っちまった……」
「え、いいよいいよ! 銅橋くんは悪くないんだし、誤解が解けてよかったもん! ほら、顔上げて。唐揚げ冷めちゃうよー」

言われた通りに顔を上げると、名前はケロリとしている。銅橋は、今聞いた聡美についての話と、そして部内の噂で聞いた泉田の話を思い返した。

「向河原さん……本当にいい人なんだな……」
「うん。時々キツイこというし時々おっさんくさいけど、いい子だよ」
「オレ、聞いたんだ。その先輩、向河原さんにゾッコンなんだって。1年前からずっと想いつづけてきたって……」
「1年前から!? そりゃそうとうゾッコンだねえ……」

銅橋が勘違いしているせいで、今言われている、1年前から想われ続けている「彼女」がまさに自分であることを名前は分かっていない。呑気に水なんて飲んでいる。コップを置くと、しみじみと言った感じで名前は語りだした。

「聡美はさ、外見がいいから……外見だけで判断して、ろくに喋ったこともないような人からアプローチされることもよくあるんだけど……1年前からずっと想われてきたってことは、その人はきっと聡美の内面もよく知ってる人なんだね」
「ああ、多分……」
「その先輩、すっごく見どころあるよ。うん」

名前が確信を持ったように引き締まった顔で頷いた。銅橋はそんな名前を見て少し考え込むと、コップの水を飲んでから口を開いた。ちなみに、彼の目の前にあった山盛りご飯と唐揚げが乗ったプレートの中身はとっくにすっからかんになっている。米粒のひとつも残っていない。

「いず……じゃねェ、きっと先輩、すげぇ落ち込んでるんだろうな……なんてったって1年前から片想いしてた人だもんな……」

彼がかたくなに泉田の名前を出さないのは、名前が泉田のことを『5組の彼さん』である以上のことを知らない様子だったからだ。……まあ、その前に泉田は『5組の彼さん』では無いのだが。ともかく、泉田のプライバシーは守らなくては。銅橋は真面目で義理堅い男だった。

彼は、少し前に名前が口にしていた言葉を思い出していた。

「苗字さん……さっき、同級生や上級生に頼まれて、向河原さんのことで恋愛相談に乗ったことがあるって言ってたよな」
「ああ……うん、そうだね。恋愛相談って言うほどのもんでもないけど……」
「あと、先輩のこと、『珍しく好感触っぽかった』……とも言ってたよな」
「……言った……っけ?」
「言った」
「じゃあ言ったんだね」
「なんとかならねェかな」
「えっ?」
「先輩と、向河原さん。なんとかくっつけることってできねェか?」
「………えええっ!」

銅橋の顔が至って真面目なので、冗談とも受け取れず、名前は面喰ってしまった。

「くっつけるって……どういうこと? 私達が恋のキューピッド的な役割になるってこと?」
「いや、恋のキューピッド……っつうのは、なんかしっくりこねェけど……」

主に自分がである。

「なんとかしてやりてぇって思っちまうんだよな……」
「うーん………」

名前は両肘をテーブルにつき、手を組んでその上に顎を乗っけた。巷でいうところのゲンドウポーズというヤツである。難しい顔でため息をついたあと、彼女はその険しい顔を解いて、ふっと柔らかく微笑んだ。

「銅橋くん、すっごい先輩思いなんだね」
「え……いや別に、そんな……」
「聡美の噂について聞きにきてくれたのだって、その先輩のことが心配だったからでしょ。いいなあ、その5組の彼さん。私も後輩からそんな風に慕われてみたいなー」
「………」

銅橋の頬がほんのり赤く染まった。巨体に似合わないそんな素振りが可愛いなあと思ったが、それは口に出さないでおいた。

「銅橋くんが先輩想いなのとおんなじで、私も聡美のことがすっごく大事なの。だから、聡美の気持ちを一番に考えてあげたい。けど、銅橋くんがそこまで慕ってる先輩ならきっといい人なんだろうし………私も、ちょっとだけなら協力できるかも」

そう言うと、銅橋の顔が輝いた。「ありがとうございます…!」と頭を下げられて、名前は慌てて「でもあんまり期待しないでね?」と付け加えた。身体の大きさや言葉のぶっきらぼうさとは裏腹に、彼は律儀でしっかりした子なんだな……と名前は感じた。

「あ! 私次の時間体育だから、そろそろ準備しなくっちゃ……。えっと、じゃあ銅橋くん、金曜日にまた食堂に来れる? 金曜日も生徒会の仕事で聡美とお昼別々だから。そこでまたちょっと相談しよう」
「分かった。この場所でいいか?」
「うん、そうしよう」
「すまねェ、恩に着る」
「いえいえ。……そうだ! ねえ銅橋くん、甘いものって好き?」
「え? ああ、好きだけど……」

名前の顔がパアア…と華やいだ。「じゃあじゃあ!」と、彼女はワントーン高い弾んだ声でそう言いながらスカートのポケットをまさぐったかと思うと、キャンディー状のチョコレートを二つ取り出した。

「はいこれ! チョコレート! あげる! 銅橋くん、手ぇ出して!」
「……えっと、……ありがとうございます」

その勢いに圧倒されつつも、手を出すと、彼の大きく無骨な手のひらに可愛らしいピンク色のフィルムにラッピングされたチョコレートが乗せられた。しげしげとそれを眺めていると、名前はフフンと鼻を鳴らして得意げに説明し始める。

「そのチョコはね、なんと! 夏だっていうのに溶けないの! 一度焼かれることによって溶けなくなるんだって。表面がカリッとしててね、美味しいんだよー」
「………」
「銅橋くん? 食べないの?」
「あ、ああ、いただきます」

大きな両手でその小さな包みを引っ張って開ける様子は、やはり可愛らしかった。そう言われるのは嫌かなあと思ったので、それも口に出さずにおいた。

「美味しい?」
「……ん。うめェ」
「よかったぁ! じゃー私も!」

いただきまーす! とチョコを口に放り込むと、その甘さに頬が溶けそうになるぐらいの幸せを覚える。「はあ〜…美味しい…」と、そのまま昇天してしまいそうな力の抜けた声でそう言う名前が面白くて、銅橋はプッと吹き出した。「あっ、なーに笑ってんのさ!」と名前が怒っても、やはりその可笑しさは続いて、銅橋は緩めた口元を隠すように斜め下に視線を逸らしたまま、「いや、すまねぇ」と言った。


口の中で溶けたチョコレートの甘さは、その日一日中彼の舌に残った。


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