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なんでこんなことになっているんだろう、と。
トレーニングルームの更衣室で1人、インハイのジャージに着替えながら思う。
思考は未だにふわふわと地に足がつかなくて、相変わらず胸の鼓動は制御不可能なほどに暴れている。

脱いで、と言われて脱ぐよ、と返したその後。ボクは先ほど着替えを済ませてしまっていたので、タンクトップの上にTシャツという出で立ちだった。これでは、脱ぐということになった場合、どうしても上半身裸になってしまう。そのことを苗字さんに伝えたところ、彼女は、『上半身裸は、ちょっとキツイかな……』と、かなりためらいを見せていた。聞くと、彼女の中でどういう基準があるのかわからないが、どうやらジャージの前を全開にするのなら大丈夫らしい。ということでボクは彼女をあのトレーニングルームに残し、こうして今、トレーニングルームの更衣室に置きっぱなしにしておいたインターハイ用のジャージに着替えているわけだ。………現状をうまく説明できただろうか。
しかし、上半身裸とジャージの前を開くのって、別にたいして変わらなくないか? よくわからない………。


というか。

ボクは本当に、彼女にこの身体を晒すのか…。


先ほどは自分から晒したじゃないかと、そういう風に苗字さんは言っていたけど、状況が大分違う。あの時は冷静さを欠いていたし……まあ今も冷静ではないけど、それでも全然違うよ…。大体、脱いで、なにをするんだ。

脱いでほしいの、に続けて言った、彼女の、『泉田くんの全部、受け止めたいから……』が不意に頭の中で再生される。


「…………っ!!」


―――思わず頭をロッカーに叩きつける。ガンッ……という鈍い音。結構痛い。


彼女は多分わかってないんだろう。というか、絶対わかってない。
その一連のセリフの流れは、確実にまずい。
閉めきられた部屋に二人きりとか苗字さんは夏服で白い手足が出てるとか、そういうシチュエーションも加味されて、そんなつもりはないのに嫌でも意識してしまう。

って、想いが通じ合った途端にこれだ…! 最悪だ、ボクという男は本当になんて浅ましいのだろう。彼女は純粋にボクのことを想ってくれているというのに……!
でも、正直、ボクのことを知りたいと、耳まで赤くしながら脱ぐことを催促してる苗字さんは、今思い返してもいじらしくて死ぬほど可愛い。可愛すぎて心臓が痛い。キュンキュンとかいうレベルではない、ギュンギュンする。えげつないほど可愛い。
いや、前から苗字さんは可愛かった。けどその時は、その苗字さんと両想いだなんて思ってなかった。今は違う、彼女はボクのことが好きなんだ、ボクが苗字さんのことを好きであるのと同じように。
つまり。―――彼女の合意さえ得れば、ボクは彼女に………


「―――なんてこと考えてるんだ塔一郎いい加減にしろ!!!! 頭を冷やせ!!!!!」


思わず叫んで、もう一度頭をロッカーに打ち付ける。先ほどよりも大きい音がした。痛い、涙がにじむ。けど、そのぐらいでいなくちゃ、この後とても耐えられそうにない。だって今、ジャージを着ているんだぞ、ボクは。上だけじゃかっこつかないから、下も着替えてしまったんだぞ……。

(落ち着け塔一郎………こういう時こそ自分を制御しなければ………そう、平常心だ…‥)

ジャージのジッパーをじりじりと上まであげる。呪文のように「アブ、アブ……」を繰り返す。これから彼女と対面するアンディとフランクは、先ほどから何も答えてくれない。……多分、アンディとフランクも、怖気づいてるんだろうな。でも頼むよ、君達がバックアップしてくれなくては、ボクはどうすればいい。

その時、コン、コン、と更衣室の扉が控えめにノックされた。その後、「泉田くーん、なにかあったのー?」と彼女の声。はっとする。ボクがもだもだやってる間に、結構時間が経っていたのかもしれない。慌てて扉を開けると、そこには心配げな顔をした苗字さんが立っていた。

「ごめん……何か物音とか声とか聞こえて、心配になっちゃって」
「いや! その、全然大丈夫だよ…!」
「……何かあったの?」
「………蚊、がいて。仕留めるのに、少しバタバタしてしまったんだ」
「そうなんだ……? そうだね、もうそういう季節だもんね。平気?」

明らかに挙動不審なボクを、なおも心配そうに見上げてくる彼女。罪悪感でいっぱいになる。

「さ…刺されていないから、平気だよ!」
「そっか、ならいいんだけど。…………へえー、更衣室、こんな風になってるんだ」

彼女は、扉を開けた状態のままのボクに近づいて、そのまま部屋の中を物珍しそうに覗き込んだ。………近い。

「…そんな、たいした更衣室じゃないよ」
「ううん、文化部だと運動部のこういう場所全然わからないし、興味あるよ。案外狭いねー…」
「そういうものなんだ。………入ってもいいよ?」
「ホント!?」

嬉しそうに反応した苗字さんは「お邪魔しまーす」と言って、おずおずと更衣室の中へと入っていった。……ボクはその様子を見て、自分のとんでもない失言に気づく。

更衣室……思いっきり、密室じゃないか…!

いや、トレーニングルームも、誰も入ってこないという点では密室っぽいけど……。かなりの広さがあるからそんな印象は受けない。でも、でも更衣室は………。

ボクは、扉を開けた状態のまま、入口に立っていることしかできない。この扉を閉めてしまったら。狭い更衣室だ、当然何もしないけれど、彼女に勘違いされてしまうかもしれない。というか、彼女は現時点でそれに気づいていないんだろうか。

「ねえ泉田くん、これなに?」
「……ん?」

彼女が何かを手にしてそれを指差している。目をこらしても、蛍光灯の光が当たってよく見えない。支えている扉を限界まで開いたら、手を離してもそこで止まったので、ボクも中に入って彼女に近づく。

「ああ……これ、去年のツール・ド・フランスのDVDだね」
「つーるど…フランス?」
「うん。有名なロードレースの大会のDVDだよ。誰が置いてったんだろう……」

と、そこまで言った時、背後でバタン! とドアが閉まる音がした。一気に肝が冷える。おい、何で閉まったんだ…! おそるおそる苗字さんを見ると、彼女はDVDのパッケージ裏を見ていて、それに気づいた様子はない。

「なんだか面白そう」
「あ……ボクも持っているから、今度一緒に見てみるかい?」
「うん! ありがとう! 泉田くん、解説頼むよ。あ、でもその前に、普通に泉田くんが走ってるところの方がみたいや」

ふふっとボクに微笑みかけてから、彼女はDVDを小さな棚の中に戻した。なんというか、なんてことないこんな会話が、身体に染みるほど嬉しくて、幸せだ。
でも、今それに浸っている場合ではない。

「じゃあ苗字さん、その、出ようか」
「あ………えっと、泉田くん、その、ここじゃダメかな?」
「……え?」
「その……するの」
「…………」
「ほら、向こう、なんかただっぴろくて、こう……誰もいないのはわかってても、なんか気になっちゃう気がして。だから、こっちでしたいなぁって……」
「…………」

ボクは何も言わずに再びロッカーに頭を打ち付けた。ガァン!という音がした。

「いっ、泉田くん!? どうしたの!?!?」

苗字さんが駆け寄ってくる。ああ、塔一郎、これは乗り越えるべき試練なんだ。苗字さんはボクに全幅の信頼を寄せている。彼女の信頼に答えなくてはならない。
痛みに耐えて、目を閉じて息を整えて、ボクは苗字さんに向き直った。

「ごめん……もう大丈夫」
「う…うん、その、もしかして脱ぐのそんなに嫌?」
「大丈夫。任せて!」

何をだ。

「それじゃ……えっと、泉田くんは、そこにそうやって立ってて。何もしなくていいから」

「え」

彼女はボクの正面にまわると、そのままぐいっとボクに近づいた。驚いて後退しようとしたら、何かにぶつかった。振り返ると、そこにはずらりと並んだロッカーが。
焦って顔を前に戻したら、もう苗字さんは目と鼻の先にまでボクに近づいてきている。完全に追い詰められてしまった。

「ちょ、苗字さん、」
「泉田くん……あの、私がジッパー下ろしてもいい?」
「え、」
「じ…自分のタイミングで、行きたいの」


――――頭を打ち付けられる壁は、もうどこにも存在しない。

ボクの胸元を見つめる苗字さんの顔は真剣そのもので、頬は赤く上気している。視線を下ろすとすぐそこには彼女の頭があって、そのあまりの近さに頭が爆発しそうだ。ごくり、と唾を飲み込む音でさえ聞こえているかもしれない。


「いい? 泉田くん、いくよ…っ」
「! 苗字さ、――――っ!」


彼女の白い腕が首元にのびて、タグをつまんだ。ボクは軽くあごを上げてぎゅっと目をつぶる。ええい、もう、どうにでもなれ!!




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