06


1人でトレーニングを終えた後、ロードバイクに乗った他の部員達が山からくたくたになって帰ってくるのと入れ替えに、自転車にまたがって学園を出る。これにまたがるのは何週間ぶりだろう。もちろん全力で漕ぐことはしない。軽く、感覚を確かめるために走る。

ボクが自転車に乗ってない間に、だいぶ箱根の山も様変わりをした。と言っても、辺りは薄暗く、外灯の灯りでぼんやりとした景色がわかる程度だったけれど。箱根の山々はもう夏を迎え入れる準備をしている。もうすぐ、選考レースがある6月がやってくる。

インターハイに合わせて身体づくりをしているということは、選考レースの段階ではまだ万全ではないということだ。おそらく、インハイで自分が理想としているフィジカルの8割ほどだろう。でも、構わない。選考レースで求めるのは圧倒的な勝利だけ。8割の身体で、ボクは圧倒してみせよう。そこで苦戦しているようでは、もともとインターハイで通用などしないのだ。
 
微調整しながら流し気味に走っていると、学園から唯一近いコンビニが見えた。普段の自分ならまず寄らない場所だ。日用品や文房具を買うときはたいてい寮の購買だし、菓子や飲料も自分にはほとんど縁のないものだったからだ。
ただ、気が付いた時には自転車を止めていた。シャープペンシルの芯が切れていたから、と、速攻で建前の目的を作る。だから、そういうのは購買で買えるんだってば、と、理性的な自分がその穴だらけの建前に文句を垂れる。いいじゃないか別に、建前なのだから。
 
中に入ると、やる気のなさそうな店員がいらっしゃいませ、と声をかける。人はまばらだ。ふと、ジャージのまま入ると目立つだろうか、と思ったが、どうやら大丈夫だろう。
文房具のコーナーでシャープペンシルの芯を選ぶと、ボクは菓子の陳列棚へと向かった。本来ならまず訪れないところ。アンディが怖気づくようにトクン、と震える。大丈夫だよ、別にボクは別にとち狂ったわけじゃない。
 
「……あった」

小さい長方形の、チョコが入ったケース。苗字さんがいつも携帯しているお菓子。コンビニで買ってるんだ、と言っていた。これだ。
この前、彼女がボクにくれたイチゴ味のものは、すでに無くなって久しい。春の季節限定フレーバーなんだよね、と残念がる顔が思い出される。
そういえば、もうチョコを持ち歩くには気温が高くなってきた季節だけど、大丈夫なのかな。気を使わないでいいと言ったはずなのに、彼女はボクが隣にいる時は絶対にそれを口にしない。でも、こっそり食べてるのはバレバレだ。

同シリーズのチョコレートは3種類あって、一つはプレーンのチョコ、もう一つがブラック。
そしてもう一つが新発売らしい抹茶味だった。抹茶味のケースを手に取る。パッケージには季節限定の文字。裏返して栄養表示を見ると、思わず顔をしかめてしまうようなカロリーが目に入った。

(これ、苗字さんもう食べたのかな……)

あるかどうかを確認して満足するだけのはずで、買うつもりはなかったのだけど、少し心が揺らぐ。なんとなく、手に入れたくなってしまった。買ったところでどうせ食べることはないのに…。

新発売の季節限定フレーバー。彼女のことだ、もう手にしている可能性は充分ある。それに、あげる、とこれをまるごと渡されても、さすがに戸惑うだろうし怪しまれる気がする。不信に思われるぐらいなら、彼女にあげるのはよしたほうがいいだろう。

だからといって、ユキや友達にあげる気にもならなかった。

掌におさまったケースをしばらく持て余すと、ボクはシャープペンシルの芯とそれをレジに運んだ。精算をして、コンビニを出ると、辺りはだいぶ暗くなっていた。入れてもらった袋をロードのハンドルに引っ掛ける。さあ、寮へと戻ろうか、アンディ・フランク。






 
寮へ帰り、食事を済ませ、自室に戻り汗を流す。鏡を見ると、脂肪はだいぶ削られつつあった。それに取って代わる筋肉も、形になってきている。見た目はほとんど太る前に戻ったが、まだまだこれからだ。
楽な恰好に着替え、さて課題に取り掛からなくてはと机に向かうと、先ほどコンビニで買ったシャープペンシルの芯とチョコレートが置かれているのが目に入る。…課題はもう少し休息してからにしよう。仰向けにベッドに寝そべって、片手でケースを掲げる。軽く揺すると、中のチョコがカタカタと音を立てる。

誰にあげるでもなく、自分で食べるわけでもないのに、結局買ってしまった。なんでそんなことしたのかと聞かれても、はっきりと言葉にはできそうになかった。後悔も、していない。――処分には困るだろうけど。

ただ、これから先――もうすでに持っている可能性もあるけど――入手するであろう、苗字さんの大好物のチョコレート…と同じものが今自分の手の中にあって、そして、それは、彼女の口に入って、溶けて――――


(…………ダメだ塔一郎、それ以上は)


思わず、ケースを掲げていた腕で目を塞ぐ。
 
意識してはだめだ、気づいてはだめだ、と、自分の中でうずきだした得体のしれないものを、必死で押さえつける。それが何か、見ない振りをしながら。

1年前とは違う、強い肉体と、強い心を手に入れて、ボクはようやく彼女と再会できた。

1年生の時、会おうと思えばいつでも会えた。それをしなかったのは、弱い自分では会いたくなかったからだ。だからインターハイのゼッケンを勝ち取るまでは会わない、と決めていた。
そして―――2年生になって、幸運なことに同じクラスになった。遠くから見ているだけだった彼女が、今、自分の隣にいる。

それだけで、ボクは十分なんだ。それ以上を、望んだりしてはいけない。自分の欲望に気づいては、それを意識してはいけない。苗字さんをそういう目で見てはいけない。苗字さんはあくまでも恩人で、聖域にいる人なんだ。認めてしまったら崩れてしまうだろう。澄ました顔で隣にいることなんて、できなくなる。

しばらくそのままじっとしていたら、次第にざわついていた心が鎮まっていった。ふう、と軽く息をつき、起き上がってチョコレートを備え付けられている小さな冷蔵庫の、奥の方へしまう。正しい保存方法かはわからないが、とりあえずこれで溶けることはない。そして、これであまり目にすることも無くなるだろう。

これでいい。ボクはこのスタンスを貫く。苗字さんのことは好きだけど、でも、その好きは、違うんだ。下心も欲望もなく、感謝と、尊敬の、まっさらな「好き」なんだ。そう、彼女がボクに向ける、あの太陽みたいな、純度百パーセントの笑顔のように……。




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