どこかで花火が上がる、ドオン、という遠鳴りが、接客中にも聞こえていた。
休憩中に一緒になった女の先輩が、どうやらこの辺りの神社でお祭りをやっているらしい、と言っていた。「ま、私達には関係ないけどねー」と、うんざりした声で笑いながら。

「──あ、お疲れ様です」

もうお祭りはとっくに終わった頃だろう。
休憩室でまかないのラーメンを食べ終わり、帰りの準備をあらかた済ませたところで、大井さんが「大井、入ります」と疲れが滲んだヘロヘロな声で入室してきた。
そして私を見て、「苗字さん、お疲れ〜」とへらりと笑う。

「今から帰るとこ?」
「はい。……大井さん、大丈夫ですか?」

明らかに体調が悪そうで、厨房でもいつもなら滅多にしないような凡ミスを連発していた大井さんに、私はリュックを背負いながら声をかける。

「あー……実は昨日寝てないんだよねー」
「え、マジですか」
「うん。……テスト前の追い込みってやつで」
「うわぁ。お疲れ様です」

大学生も高校生とあんまりやること変わらないんだなぁ、と思いながら、一晩寝てないぐらいであのベテランの大井さんがここまでなるのもちょっと不思議だな、なんてちらりと考える。

「苗字さん、今ちょっと失礼なこと考えてない?」
「え!? いやいやいや」
「あのね。君らみたいなピチピチの高校生と、まともな飯も食ってないヒョロガリ大学生が同じ体力だと考えないでくれたまえ」

昨日の晩飯わかる? モヤシだからね。
と、薄く笑いながら言うと、大井さんはエプロンをシュルッと外して、「はーー……」と大きくため息をつきながら椅子に腰掛けた。
その隣を通り過ぎ、「お疲れでしょうし、あんまり無理をしないでくださいね」と労りの言葉をかけて帰ろうとする。

「苗字さんもね」
「え?」
「苗字さんも、今日、動きがぎこちなかったよ」
「……え。マジですか」

ギクリと、扉の前で足が止まる。
まぁ、確かに昨日から今日にかけて色々ありまくったし、現在進行形でこれから遭遇するであろう彼とどう接したもんか、ぐるぐると思考は行ったり来たりしてるけど、球技大会ではほとんど動かなかったし、部室で仮眠もしたから、今日は特に仕事に支障はなかった……はずだ。
でも、自分が気がつかないところで、そういうのって表れちゃうものなのかもしれない。

「……すみません」
「いやいや。今日謝るべきなのは圧倒的俺だから。色々凡ミスしちゃってごめんね?」
「と、とんでもないです! いつも助けていただいてるのは圧倒的私なので!」

恐れ多くて慌てて両手を広げてワタワタする私に、大井さんは「じゃ、おあいこか」とにこりと笑って「急いでるでしょ? 引き止めちゃってごめんね」とわずかに首を傾げた。

「あ、はい。じゃあ、お先に失礼します。お疲れ様です!」
「はーい、お疲れ様。さよなら…苗字さん」





ぷうんととんこつ臭い狭い路地を抜けて、通りに出ると、フッと夏の夜の風が吹いた。いつもの香りと少し違って、どこか懐かしい匂いが鼻をくすぐるのは、お祭りが近くであったからだろうか。
私の目の前には、おそらくお祭り帰りと思われる親子連れ。お母さんに手を引かれて歩く子供の片手には、金魚と透明な水が入ったビニール袋。はっきりとわからないけど、入ってるのは2、3匹かな。少年に掬われて、ひらひらと赤い尾びれを動かして、狭い袋の中で泳いでいる。

(……………)

……掬う、と救う。たくさんある同音異義語の中でも、なんだかシンクロする部分があるな、って思って、それで浮かんだのがあの詩だった。
あれを書いたのは、2月だっけ。あの日も同じようにエロイプをした後で、身体の中を埋め尽くしてしまった泥を掻き出すために、私は必死に言葉を産み落としていた。

──だれかわたしをすくってください

あの一言は、私の心の叫びだったのかな。
私は……掬われたいのかな? 救われたいのかな?

(それとも……巣食われたかったりして……)

そんなことをぼんやりと考えながら、いつものコンビニに辿り着いた。駐車場を抜けていくと、いつものベンチに……彼の姿はなく、代わりに浴衣姿のカップルが密着して座っていた。大学生ぐらいだろうか? 人目を全く気にしてないようなアツアツっぷりで、半径2M以内は近寄れないような二人だけの世界を形成していたので、私は内心(ひえ)と思う。どんだけゲキ強ハートなんだろ。

じゃあ、肝心の彼はどこに……と思って、立ち止まってコンビニ全体を見渡してみたら……いた。巻島くんはコンビニの隅の隅の方で、相棒のTIMEと一緒に居心地悪そうに背を丸めて立っていた。
その様子に、思わずクスッと笑みが溢れてしまう。
どういう感じで接するのがいいんだろ、とか悶々と身構えてたけど、少しだけ落ち着いた。

「……お待たせ」
「……オウ」
「ちょっと待っててね、買ってくる」

そう告げて、コンビニに入る。ブラックスパイダーを持っていけば、ペヤングさんがぐったりした様子で会計してくれた。お祭りでとても忙しかったらしく、10人殺したと言っていた。この時間で二桁は久々だ……マジでお疲れ様です、と言って、私はコンビニを後にする。
巻島くんの元へ再び向かい、私達はいつも通りの速度で歩き出した。……でもやっぱり、私は昨日あった出来事が喉に突っかかって、言葉が出てこない。

『「巻島裕介は苗字名前に恋愛感情を抱いている」……そういうことだよ』

追い討ちをかけるようにモナカ先輩の言葉まで再生されて、こんな風にすぐ隣を歩いていることさえ変に意識しまって、彼と接している身体の左側だけ妙にモゾモゾする。
こんなこと、今まで無かったのに。
と、思っていたら、巻島くんが口を開いた。

「……あの、アカウントなんだけどヨ」
「え、あ、うん」
「……なんで『さよなら』って名前なんだ?」

ずっと気になってたショ……と巻島くんがこちらを見ずに言う。
話題が提供されたことに少しホッとしながら、私はぎこちないながらも言葉を紡ぎ始める。

「えっと、寺山修司の詩の中に、『さよならという名前の猫』ってタイトルのがあるの」

『さよなら』という名前の猫を延々と探し続けるおじいさんの詩だ。
しかし、そもそも『さよなら』なんて猫を見たことがないおじいさんは、当然『さよなら』のことを見つけられない。そして可哀想なおじいさんは筆者の手によって消しゴムで消されてしまった……。

「私にとって、身体の中にある『怪物』も、見たこともないし、見つけられない存在だから。なんとなく……おじいさんと被るなぁって思って」
「……なんで探したいモノの名前に『さよなら』なんて別れの挨拶を持ってくるかね?」
「え?」
「いや……その詩の猫」
「ああ……そうそう。変わってるよね、ネーミングセンス。おじいさんの意図はわかんないけど……私は逆に、怪物に消えて欲しいから、あえて『さよなら』にしてるところもあったね」
「なるほどな」

そういえば、私の中の怪物だが、やっぱり昨日から本当に消息不明になってしまった。
活発期じゃなくたって、大御所芸能人みたいに身体の中に鎮座していたというのに、一体どこへ行ってしまったんだろう。
まぁ、いないならいないで全く問題ないし、ていうか消えてくれたなら万々歳だけども……。

「そういえば、巻島くんのアカウントはなんでkumoだったの? IDの中にもspiderって入ってたし」

timeはわかるけど、蜘蛛と巻島くんが結びつかなくて、そう尋ねてみると、巻島くんは「あー……」と少し困ったように頬を掻いた。

「いや……オレ、の……登り方が、ちょっとフツーの人とは変わってて……クモに似てるらしくて……」
「登り方? ……ああ、ロードバイクの?」

気まずげな表情の巻島くんはコクリ、と頷く。

「妙な二つ名まで付いてんだ。……ピークスパイダ−って」

頂上の蜘蛛男。
巻島くんは相当逡巡したのちにポツリと呟いたが、彼のその様子に反して私の目は輝く。

「え、めっちゃかっこいいじゃん! ピークスパイダー!」
「いやいや、多分実際にオレの登り方見たら引くっショ……キモイとか、コワイとか言われてるし」
「私絶対そんなこと言わないよ! だって巻島くんがただそのロードバイクに乗ってるだけでめっちゃかっこいいって思うもん! 綺麗な髪の毛がたなびいて、風の旅人みたいで。いつか登ってるところも見てみた、……──あ」
「…………」

し、しまった。
なんか……テンションが上がって、すごく恥ずかしいことを言ってしまった気がする。
巻島くんも黙っちゃったし。
どうしよう、違う話題、違う話題、と思って必死に頭を巡らせていると、巻島くんから救いの手が差し伸べられた。

「……さっきの、カップル」
「う、うん」
「スゲーよな。オレが後ろにいんのわかってンだろうに、普通にキスしてた」
「……あ、お、織姫と彦星……」

私の会話能力、ひょっとして幼児レベルまで落っこちたのか?
なんでこんな、上手くコミュニケーションが取れなくなってしまったんだろう。

「あーえっと、ごめん、あの、七夕の時に話した──」
「クハッ。オレも思ったっショ」
「……」
「公共の場であれだけイチャつけんのは、現代版織姫と彦星みたいだって言いたいんだろ?」
「……あ、うん……」

心臓の辺りに妙な違和感。
彼が私と全く一緒のことを思い出していた、それが嬉しいっていう感情だけじゃなく、胸の辺りがキュッと狭まるような、おかしな挙動がくっついてる。
私はそれを誤魔化すように、何か言わなきゃと、早口で言葉を紡ぐ。

「し、しっかしキスはやばいね! ど、どんな感じでしてたの!?」
「へ?」

いや、質問のチョイスミスったっしょ
巻島くんが思わず私の方を見て、目を瞬かせている。

「ど、どんな感じっつわれても、オレもずっと見てたワケじゃねェしな……」
「だ、だよね」
「なんかでも、事あるごとにチュッチュしてたぜ。目が合うたびにだから、30秒に1回ぐらいは……」
「マジで!? 盛ってんなぁ!」

ああだめ、完全に会話がから回ってる。私何言ってんだろ。
頬が熱くなってきて、リュックのベルトをギュッと握りしめ、軽く俯いた。

「クハッ、まァ苗字の言う通りだけど……なんか今のセリフ、オッサン臭かったっショ」
「!? な、なにをう……は、華の女子高生に向かって、オッサンは無いでしょ!」
「華の女子高生って感じかァ? お前」
「ハァー? 華の女子高生……」

言い返そうとして、そういや巻島くんって、あの裏垢の存在も詩を書いていることも全部知ってるんだと思って、急に言葉が引っ込んだ。

「いや、た、確かに華、では無いかも……! あはは、触ると毒があって、匂いも臭い、ラフレシアみたいな……ヤツ、かもしれないけど……」
「…………」

しゅるしゅると言葉尻がしぼんで、口をつぐんでしまう。
やば、話題変えなきゃ、と内心焦っていると、巻島くんが「……そんなことないっショ」と不意に呟いた。

「苗字は……オレにとっては……なんつか、触ったら、壊れちまいそうで、いい匂いもする……エー、色だったら真っ白で、キレーな……一輪の花ショ……」

まじまじと彼の横顔を見つめていると、どんどん頬に赤みが差していき、それは耳の淵の方まで広がっていった。
そして、「あー、ワリ、柄じゃねェこと言った……」と、口元を手で覆って、顔を背けてしまう。

「…………」

な、なんだこれ。
心臓がドキドキして、頬がカッカして、全身がむず痒くて、もう、今すぐここから逃げたい。
儚くて、真っ白くて、綺麗な一輪の花? あの裏垢でどんなことしてたかもう知ってるのに、そんなこと言えちゃうわけ? おかしいでしょ、巻島くん。

「……す、」
「……?」
「す、少なくとも、いい匂いでは無いでしょ、い、今の私、めっちゃとんこつ臭するだろう、し」
「……アー、それだけど、オレ、帰り道にお前からとんこつの匂いがしたこととか無いっショ」

──いつも、同じイイ匂いがする。
ぼそりと呟いた巻島くんの少し照れ臭そうな声が、鼓膜を通して、私の脳をぐらぐら揺らす。
そんなワケないでしょ、別に香水とかつけてるわけでもないのに、って、思うのに。何も言えなくなってしまうくらい、胸の辺りがキュンキュンして、苦しい。

身体の中で何が起こっているのかわからないまま、とうとうアパートまで着いてしまった。彼の顔が見れない私は、「きょ、今日もありがと……」と黄色い電灯の下ではにかんだ。紅潮しているだろう頬を隠したくて、顔を斜め下に逸らしながら。

「ああ。あ、昨日借りたスウェットだけど、今度送る時に返すっショ」
「あ、うん……」
「あと、夏休み中のバイトのシフト表。LIMEで送っといてくれ」
「う、うん……わかった」
「…………じゃァな」

ぽん、と頭の上に手が置かれた。
それはくしゃ、と髪の毛の上でわずかに優しく動いたあと、私から離れていった。

「……………」

しばらく放心してしまったあと、顔を上げれば、もうそこに巻島くんの姿はない。遠くの方に、小さな後ろ姿が見えただけだった。
ふわふわと、味わったことのない浮遊感を覚えながら、私はアパートの階段を登っていく。
巻島くんの大きな掌の感触は、その日一日消えることがなかった。





さて、待ちに待った……というわけでもないけど、夏休みである。
といっても、家に一人でいても暇なので、私はシフトが入っていない時以外、いつも通り学校に行って、大体昼間は文芸部の部室で、課題をしたり、本を読んだりして過ごしている。
モナカ先輩も毎日いるし。

ちなみに巻島くんとだが、毎日会うわけじゃなくなったものの、相変わらず(一方的に私が)気まずい関係が続いている。
この場合、告白した巻島くんの方が気まずかったり、返事を急かしたりするもんじゃない? って思うんだけど、なんでなんだろう。むしろ、告白する前より、巻島くんは落ち着きが増したようにも思える。
いや………おかしくない?

そんな巻島くん、8月になってから会っていない。
そう、自転車競技部にとって最大の大会、インターハイがとうとう始まったのだ。
今ごろ彼は、この炎天下の下、広島で一生懸命走っている。そう考えると、そわそわして落ち着かなくて、課題に取り掛かる手もしょっちゅう止まってしまう。
あのミサンガが、どうにか彼を守ってくれますように、と、文芸部の窓から見える青空を見ながら、心より祈る。

「────苗字」
「え? あ、はい」
「8月なんだけどさ。なんかしたいことある?」

文芸部例年の特別活動、今年もやりたいんだけど。
ソファでゆったりと本を読んでいたモナカ先輩に不意にそう問われて、私は「ああ……」と、そういえばそんなもんもあったな、と思い出す。

文芸部、毎月の文芸部だよりと、年一で冊子を出すぐらいで、ほとんど部費を使わないので、生徒会から割り当てられている部費が割と余るらしい。しかし、それを使わないままでいると、翌年度、生徒会から容赦無く予算を削られてしまうので、無理矢理にでも何かに使い切らないといけないのだ。
それで、去年の夏休みはモナカ先輩と二人でプチ旅行みたいのをした。電車に乗って遠いところまで行って、全く知らない街で降りて、ぶらぶら歩いて発見した野良猫を追跡し、最終的に神社で野良猫の集会に交じってみるなどした。
で、それをいい感じに調査報告としてまとめて、8月の文芸部だよりで発行したのだった。

「んー……したいこと、かぁ」
「なんでもいいよ」
「………じゃあ、学校を貸し切って、泊まってみたいです」
「ほう?」
「完全に学校貸し切って、で、好きなことするんです。ご飯は家庭科室で作って……夜にプール入るとかもいいですね。流行りのナイトプールってやつですよ。で、保健室に泊まるんです!」

保健室に泊まるの、夢なんですよね! と嬉々としながら言えば、モナカ先輩は顎に手を当てて「ふむ……」と思案げな声を出した。

「それ、かなり自由時間ができそうだけど、その間は何するの?」
「個人で完全自由行動です。モナカ先輩はこの部室の中にいてもいいし、私は私で、無人の学校の写真を撮ってまわったり、図書室でまったりしたり、パソコン室でソリティアしたりするので」
「なるほど、決まったイベント以外は完全に単独行動ってことね」

モナカ先輩はフッと笑うと、「なかなか面白いじゃないか」と本をパタンと閉じて立ち上がると、私の向かいのパイプ椅子に腰掛けた。
銀色のパソコンを起動させているのを見ながら、私は口を開く。

「でも、そんなこと実現不可能ですよねー……さすがに」
「…………いや。そうとも限らないかもしれないよ」
「え」
「まあ、若干ずるい手を使わざるを得ないと思うけど……できるかも」

かちゃかちゃとキーボードを弄りながら、モナカ先輩は「苗字。バイトなんだけど、8月のシフトってどうなってる?」と問うので「えっと、結構不規則ですね……」と返す。

「じゃあシフト表、俺にLINEで送ってくんない?」
「あ、はい……」

頷きながらも、私は内心(いやさすがのモナカ先輩でも学校貸し切って泊まるのは、幾ら何でも無理やろ……)と思う。

しかしその夜、先輩から具体的な日付と共に、「学校貸切合宿、予定決まったよ」とブサイクな猫が「やったぜ」と看板を掲げているスタンプと共にLIMEが来て、目が飛び出るほど仰天することになるなんて、その時の私は思いもしないのだった。



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -