クラス発表の紙が張り出されて、真っ先に探したのが彼女の名前だった。

「…………!!」

──そして、発見した「苗字名前」と同じ列に「巻島裕介」の名前があった時、オレはまず大きく瞠目すると、込み上がる興奮をガス抜きするように息をほうっと吐いて、ワーキャーと盛り上がる大きな貼り幕から、よろよろと一歩、二歩、と退いた。

(マジで……マジで同じクラスになっちまった……)

同じクラスになれればいいな、とは思っていた。思っていたが、まさか本当に8クラスもある中から同じクラスを引き当てるとは思ってなくて、思考が回らない上に、呼吸が浅くなってしまう。

「巻島、お前何クラスだった?」
「え、あ、」

1年の時同じだったクラスのグラビア友達だ。

「×組だった、ショ……」
「マジィ!? 俺もなんだけど!! やったー!!」

ガバッと肩を組まれる。いやおめェもかよ。「運命じゃね? 俺ら」とかほざいてるそいつに苦笑しつつ、オレは未だにざわめく心臓のまま、苗字名前のことでぎゅうぎゅう詰めの頭で、「これからどうしよう」と漠然と思った。





「──え、苗字と同じクラスになった?」

4月の初めての登校日は、実力テストだった。早めに学校に来て、部室で田所っちと金城と簡単にテスト範囲をさらって(それより田所っちが春課題を終わらせてなくて色々大変だった)、その後テストが始まるまでの余ったわずかな時間で、3月号の文芸部だよりを貰いに行くと、モナカ先輩は相変わらずそこにいて、優雅に本を読んでいた。

「それはおめでとう」

よかったね、と相変わらず機微の少ない、まるで元から知ってましたよ、みたいな笑顔を向けられて、内心「反応薄っ」と思ってしまうオレだが、まぁ、この先輩はこれがデフォルトだからな……。

「で、3月号の文芸部だより貰いに来たんでしょ」
「あ、ハイ」
「どーぞ」

モナカ先輩は立ち上がると、の上に積まれていたプリントを一枚取ってオレに渡した。
「春休みがあったから今月の詩も一つだけだよ」と言うのを聞きながら、オレは早速その詩に目を通す。


「瞳」 作:小夜

あなたの瞳の内側で
遠い潮騒 響いてる

あなたの瞳の内側で
夜の踏み切り 赤と青

あなたの瞳の内側で
燃える炎の 蜃気楼

あなたの瞳の内側で
世界は広がる 万華鏡

けれどもあなたの内側に
あなたはいない わたしもいない……



「…………」

今回の詩も、ぎゅ、と胸の奥を掴まれるような内容だ。
小夜にとっての「あなた」は誰なのか、「わたし」は誰なのか、それともモデルはいなくて、心が走るままに綴ったものなのか、それはわからないけど、詩を通して彼女のあのクリアな瞳が浮かんでしまうオレには、黒いインクの向こうから彼女の寂寥感と、空蝉のようなもの悲しさを感じ取ってしまうのだ。

「……巻島くん、そろそろ新しいクラスに向かった方がいいんじゃない?」

モナカ先輩が、詩を見て固まってしまっているオレにそう声をかけてくれて、それでオレはハッとして壁時計を見上げる。確かに、席の確認とかテストの準備とか、することは色々あるだろうから、早めにクラスに入っておいた方がいい。

「ありがとうございます、じゃ、オレはこれで……」
「うん」

こてんと首を傾げて、「苗字によろしく」とふんわり微笑んで手を振るモナカ先輩に軽く頭を下げ、オレは部室を出ると、 足早に近くの階段を下った。2年のクラスは1年の一階下にあるのだ。

2年の階の廊下にはまだのんびりと会話を繰り広げている生徒達が見受けられて、まだ割と時間に余裕があることにホッとしながら、オレは2年×組に、前の入り口から入る。
ドクン、ドクン、と鼓動の音が高鳴っていく。だって今、おそらくこの部屋の中に、いるのだ────苗字名前が。

黒板の中央には、座席表が張り出してあった。おそらく出席番号順だろう。オレは後ろの方から探していく……と、あったあった、「巻島裕介」の文字。
そしてついつい探してしまう、「苗字名前」の文字………………

「!?!?!?」

思わず声を上げそうになってしまって、オレは口を咄嗟に抑え付けた。

(ウソ、だろ…………)

だって、なんと────「苗字名前」の印字は、「巻島裕介」の隣にあったからだ。

いや。いやいやいや。さすがにちょっと待ってくれ、運命の女神さんとやらよ。同じクラスにしてくれたのは素直に嬉しかったけど、隣の席にしろなんて頼んだ覚えはねェぞ……!!
こ、ここここんなの、2年始まってそうそうオレの心が持たねえ、っつかマジで

「おい、ちょっといつまでそこにいるんだよ、見えねぇだろ」
「っあ、すまねっショ……」

ずいっと図体のでかい見知らぬ男子にどかされて、オレはすごすごと引き下がる。そのまま、まだ何も受け入れ態勢が整っていない心と頭で、自分の席に移動する。やべェ、じ、地面がふわふわすんだけど、なんだこれ。

後方にぽっかりと空いているオレの座席の右隣は、男子。ノートを広げて真面目に予習をしている。
そして左隣にいるのは……左隣の席には、前に女子が立っていて、肝心の机の主が見えなかった。

オレはなるべく緊張を悟らせないように、自然を装って着席すると荷物を机に置いた。そして、慎重に、慎重に、頭は動かさないまま、左の席を伺う。ドクン、ドクン、からバクン、バクンと映画のSEみたいに迫真になる心臓の音。

「──や、マジで△□(聞き取れなかった)のヤツ、実力テストの日に寝坊とか草だよね」
「それがアイツのクオリティっしょ。生き様がロックすぎて私は羨ましいよ」

苗字名前の声。
柔らかな中にも凛とした響きのある、聞き取りやすい澄んだ声。

「確かにインパクトは間違いないけど」
「クラス全員が覚えるよね、『登校初日に遅刻した女』って。まあ、お昼までには来るっしょ。その時に散々イジってやろーぜ」

ふふっという笑い声。
笑ってる。苗字名前が。オレの隣で。

でもその声も、繰り広げられている会話も、まるで一般的な女子と何も変わらなくて、オレは少しだけ拍子抜けする。普通に友達とかいんのか、苗字名前……。なんとなくもっと孤独な女子を想像していたが……。

やがて予鈴のベルが鳴り、彼女の前に立っていた女子は自分の席へと戻っていった。あと5分にテストだ。オレは隣の会話に集中しすぎて、自分が何も筆記用具の類を用意していないことに気がつく。慌ててカバンの中から、筆箱を…………

筆箱を……………

(……………あれ?)

……………
……………
……………
……………ない。

「………………え?」

そもそもあまり持ち物が入ってない鞄だ、探せる場所なんてとうに探し切っちまっている。間違いなく、この鞄には筆箱は『ない』。
焦りすぎて一周回って落ち着いてしまった脳内で、改めて考える。筆箱は確かに昨晩鞄に入れたはずだ。そして、今朝部室で────


『あ、やっべ。消しゴム忘れたわ。オイ巻島、二つ持ってねェか?」

『ハァ!? テストの日に消しゴム忘れるとか何やってんショ……ったくしょうがねーな、予備の消しゴム貸してやるヨ』


あの時………鞄から筆箱を取り出して、いつも常備している予備の消しゴムを田所っちに貸した後、そのまま机に筆箱を出しっ放しのまま田所っちの課題を見てやって────


『! そうだ、オレちょっと寄るとこあっから先校舎行くっショ』


そうだ、オレは3月号の文芸部だよりが欲しくて先に部室を出て──


「……………………」


部室だ。
部室に置いてきた。

サアアと顔から血の気が引いていく。
どうしよう。今から部室に取りに行く? いやいや、絶対間に合わねェショ。隣のクラスの金城に借りに行くか? いや、それも時間が────

「巻島くん、どうしたの?」
「!」

ガバッと声のした方を向くと──そこには、オレをじっと見つめる苗字名前がいた。

「え、ア、えと………」

まさかの筆箱忘れに、苗字名前からの問いかけ。
緊急事態に緊急事態が重なって、オレは挙動不審を隠せず、苗字名前から顔を逸らして、「ふ、筆箱、忘れちまって……」としどろもどろになりながら言う。
と、彼女は「えっ!? 大変じゃん!!」と思いの外大きな反応をした。

「待ってね、今貸すから!」
「!! え……」

その言葉に思わず顔を上げて彼女の方を見ると、苗字名前は真剣な顔で、伸び切った長い胴体の猫のペンケースを開けて、その中から黒い鉛筆をジャラジャラ取り出した。いずれにも銀色のキャップがはまっている。

(このご時世に、鉛筆……)

オレが呆けたように見ていると、苗字はチャキチャキとキャップを外して鉛筆の状態を確認すると、2本を「はいこれ」とオレに寄越した。

「え、」
「あと消しゴムだよね、確か2つ入ってたはず……」

ブツブツ呟きながら、ガチャガチャと音を立てて筆箱を漁る。すでに机の上にはよく見たことがある青と黒のパッケージの大きい消しゴムがあるが、「あれ、一つしか入ってない…?」と念入りに確かめているらしい。

「いや、消しゴムは他のヤツに……」

そういや同じクラスにグラビア友達がいたのを思い出したオレは、そう言って苗字を止めようとしたが、それより早く、彼女は「ならいいや」と言って、筆箱から手のひらに収まるサイズぐらいの木製の何かを取り出した。
そして──そこからチキ、と軽い音と飛び出してきたのは、キラッと鋭い光を放つ刃。

「え」

オレが見ていることしかできずにいる間に、なんと苗字は消しゴムをケースから外すと──それを真っ二つに切断してしまった。
切れ味の良さそうなナイフが、真っ白ですべすべしてそうな消しゴムに、まるで肌にメスを入れるようにスッと入っていくのを、オレはぼんやりと見つめていた。

「はい!」

そして、下半分の、綺麗に長方形になった消しゴムを、笑顔でオレの机の上に置いた。

「…………え、」

手際があまりに鮮やかで。
でも、やったことは、一つしかない消しゴムをなんの躊躇いもなく半分に切って差し出すという、なかなか常人では考えつかない行動で。
オレは反応が遅れてしまう。

「あ、ありがと…う……いや、でも、よかったのか……?」

消しゴム……、とぼそぼそ呟く。
べつに消しゴムに同情するワケでもないが、あまりにもあっさり切断されてしまった消しゴムを手に取りながら、そっと苗字に目をやる。
と、彼女は「ん? 全然いいよ」となんでもないように笑った。

「どうせ擦り切れて消えていくものだし、最後まで使い切られることの方が少ないんだから、消しゴムってやつは」
「…………」

言ってる理屈が全くちんぷんかんぷんで、瞬きを何回も繰り返して妙な顔を晒しちまうオレに、「それに、テスト中に消しゴムがないほうがヤバイでしょ」とニッと笑った。
その時、教室のドアがガラガラと開けられて、テスト用紙を持った先生が入ってくる。そこでオレと苗字の初めての会話は中断された。

一気に緊張感に包まれる教室で、テスト用紙が配られるペラペラした音が響く中、オレは確信した。
────ああ、間違いなくこいつは苗字名前だって。





一教科目の数学が終わって、休憩時間に入った教室でハァ……と肩を上げ下げしながら緊張をほぐしていると、「──巻島くん」と隣から声がかかった。苗字名前だ。
ビクリと身体が反応してしまいながらそちらを向いたオレに、苗字名前は机の上に肘を置いて腕を組みながら「鉛筆の具合どうだった?」とくりっとしたアーモンド型の瞳を瞬かせて、小首をかしげた。

「あ……す、すげェ書き心地よかった、……です」

その表情に男心をくすぐられちまって、思わず顔を逸らしてそう言うオレに、苗字名前は「なんで敬語?」とクスッと笑う。頬にカアッと熱が集まる。
でも言ったことは事実で、久しぶりに握る鉛筆の感触は良く、思いの外手に馴染んだ。ついシャーペンの時の癖で、何にもないのにノックしちまったりもしたが。

「ならよかった。じゃあ、没収ね」
「え」
「こっちのに交換」

苗字名前はまたしても鮮やかな犯行で、オレの机にあった二本の鉛筆を取り上げると、そこに新しい鉛筆──といっても種類は全く同じなのだが──を置いた。

「芯、丸くなっちゃったでしょ?」
「あ、や、そんな……」

確かに何回も計算式を書き直しているうちに、線が太くなっちまって、二本めの鉛筆に手を出してしまった。
でも、そんなこと些細な問題で、他のテストも全然この鉛筆でこなせるレベルだったのに、わざわざ新しいものに交換してくれた苗字名前に、オレはうまくお礼が言えない。顔をチラチラ不審者のように見ながら、「あ、ありがとう……」と言葉を紡ぐ。

「で、でも、その……苗字さん、は、大丈夫なの…かい? 鉛筆だって限りがあんだろ……」
「ん? 大丈夫大丈夫」

────削るから。
さらっとそう笑うと、苗字名前は先ほど消しゴムを真っ二つにした飛び出しナイフを取り出した。さらにブレザーからポケットティッシュを出すと、一枚を抜き取って机の上に広げる。
そして、芯が丸くなってしまった鉛筆を、切れ味が良さそうなナイフで、カシュ、カシュ、と削っていく。

「え………」

削る、っつったから、てっきり、小型の鉛筆削りでもあんのかと思ったら、まさかのナイフで削るという原始的(?)なその行いに、思わず凝視してしまうオレ。
そういや、貸してもらった鉛筆は、確かに芯はピンと尖っていたが、その周囲の木材の表面には一般の鉛筆削りではできないような、小さな角が付いていたことを思い出した。

鉛筆を削っていくその手は小さく、爪も綺麗で、柔らかそうな、間違いなく女子の手なのに、そこに収まっているのは持ち手が木製の無骨なナイフで。
大体鉛筆をナイフで削っているところなんて見るのが初めてで(それも女子が)、オレはまじまじと見てしまう。
でも、その手つきはスムーズで、相当慣れているようだった。

オレはおそるおそる視線を上げていく。横髪が耳にかけられているせいで、その表情はよく伺えた。
苗字名前の横顔には何の色も滲んでなく、淡々と職人のように、鉛筆とナイフと彼女だけの世界を作り上げていた。雑然とする教室の中で、そこだけが何だか神聖な空間に見えた。
オレはぼうっとそれに見惚れながら、自然に口を開いていた。

「──どうして」
「ん?」
「どうして、エンピツなんだ………?」

シャープペンじゃなくて、とか、このご時世に、とか。そういう言葉は付属できなくて、ポツンとシンプルな疑問だけ吐き出したオレに、苗字名前は手を止めてこちらを見ると、瞬きを一回してから、ふ、と微笑んだ。

それはオレを見ているようで、見ていないような、遥か遠くの海を眺めているような、朧げな眼差しで。
潮風が吹いたら飛ばされてしまいそうな儚い笑みを唇に滲ませて、苗字名前は口ずさむように言った。


「鉛筆の方が、物語があるから」


────すとん、と。

木に実ったリンゴが重力に従って落下するように、その瞬間、オレは苗字名前に恋に落ちた。

何が起きたのかがわからないけど、まるで身体の中がいっぺんに塗り替えられちまったような。
革命が起きたような、パチンと弾けるような衝撃。
その時、ふと耳元で蘇ったのは、今月号の彼女の「瞳」という詩だった。


──“あなたの瞳の内側で/遠い潮騒 響いてる


今日初めて知った苗字名前の声で、歌うように紡がれるその詩。
吸い込まれるように、オレは彼女の瞳に釘付けになる。
ザザン、海の遠鳴りが聞こえた気がした。


──“あなたの瞳の内側で/夜の踏み切り 赤と青


チカチカと、電車が通過する時のカンカンという音が脳内に鳴り響く。
星も見えない真っ暗な夜の下、赤と青の信号が点滅するその下に立っているのは、苗字名前。
危うげに、ゆらゆらと、ポールの向こう側に行ってしまいそうで、思わず手を伸ばしたくなる。


──“あなたの瞳の内側で/燃える炎の 蜃気楼


『うかつにあいつに近寄らないほうがいい』
『火傷するよ』

いつかのモナカ先輩の言葉が蘇る。
でも、もうそんなの、どうでもよかった。

火傷するだって? いいっショ。
むしろ────火傷、したい。

その業火に触れて、煮え繰り返る激情に炙られて、身体の芯まで燃やされ尽くしたい。


──“あなたの瞳の内側で/世界は広がる 万華鏡


クラクラする。
その瞳はどこまでも澄んでいて、綺麗なのに。
なぜかその奥に海が見える、夜のネオンが見える、踏切が見える、灼けつくような炎が見える、おぞましい怪物の姿もちらつく。
こんな感覚、初めてだった。


──“けれどもあなたの内側に/あなたはいない わたしもいない……


「…………」
「よし、いっちょ完了!」
「…………、巻島くん? どうしたの? 私の顔になんか付いてる?」

「!!」

いつの間にか別世界にトリップしていたらしい。
苗字名前はもうとっくに鉛筆を削り終えて、ぼうっとするオレの方を見て、苦笑している。

「あ………だ、大丈夫、ショ、あ、いや、大丈夫、だ……」

その顔に改めて焦点をうつした瞬間、キュン、と心臓を鷲みにされたようになって、オレはたまらず机に目を落とした。
苗字は「そう? ならいいけど」と言うと、席を立った。ちら、と伺えば、鉛筆を削ったカスを包んだティッシュをゴミ箱に捨てにいくらしい。

苗字名前が隣から姿を消した瞬間、オレは思わず机の上に手を組んで、ガクッと突っ伏した。目を閉じると、自分の荒くなっている息と、遅刻して慌ててやって来たような心臓の高鳴りがうるさい。

1年間ずっと彼女の詩を見守ってきた。
最初は純粋な興味だった。
でも次第に情が湧いて、それは自分の中で見過ごせないほど大きくなっていった。
いつしか情は、ただの情じゃないもっと熱烈なものになっていて、彼女をすくってやりたいと、傲慢にもそう思うようになった。
顔を知ったら、思ってたより可愛くて、それから意識しちまうようになったら、それは恋だと揶揄られた。
でも、オレは恋というものがピンとこなくて。彼女に抱えるこの質量のある情に、その名前を付けるのはなんか違う気がしていて。

だけど、どうだ、実際に少し会話しただけなのに。
トン、と背中を押されて、崖に突き落とされたように、オレは「恋」の本当の意味を知った。知って、しまった。

彼女に対する「情」が「恋」なのか未だにはわからない。違う気もするし、でもそれが無ければこんなことにはならなかった、とは思う。

(ヤバイ…………)

目眩がしそうだ。
身体の芯が猛烈に熱くて、どうすればいいのかわからない。
これが恋の正体だとしたら、巷に溢れているロマンチックな歌も陳腐な恋愛ドラマも全部虚構だ、とすら思う。だって、込み上げてくるのはおかしな衝動だ。イカれた欲求だ。


────欲しい。

苗字名前が、欲しい、と。
頭が、身体が、心が渇望していた。





実力テストが終わって、文芸部の部室に寄って、相変わらずそこで優雅にくつろいでいた主に「苗字名前と席が隣でした」と報告すると、彼はいつもは眠たげな目を珍しく開いて「マジで!?」と驚いていた。同じクラスだった時は全然反応しなかったのに……この人の感情を動かすラインがわからねェショ……。

「すごいね。さすがにそれは読めなかったよ。やっぱり苗字と巻島くんには運命が味方してくれてるんだね」
「…………。あの、あと、もう一つ報告があって」
「ん?」
「オレ、苗字名前に…………惚れました」

そう言うと、モナカ先輩は少しぽかんとしたあと、プハッと吹き出した。

「なるほど、だからそんなに──物盗りに遭って全財産無くしたような、途方にくれた顔をしてるわけか」
「…………」
「よかったよかった。それはナイスな報告だ」

──じゃあ、ここからがスタートラインだね。
モナカ先輩は立ち上がると、オレの肩をポン、と叩いてふわりと微笑んだ。

「…………」

苗字名前の儚い笑顔が脳裏にちらつく。
一体ここから何が始まるんだろう。
ここがスタートラインだとしたら、ゴールラインはどこにあるんだろう。

モナカ先輩の言葉を聞いてぼうっとそう思うオレは、まさかその一週間後にそのスターターピストルを引くのが苗字名前自身だということを知らない。
しかもそれが、「エッチしない?」という、あまりにセンセーショナルな内容だということも。


珍しく窓が開け放たれて、文芸部部室には春の柔らかな風が流れ込んでいる。彼女に恋に落ちてから五感が一新されたようなオレには、その匂いがとても芳しく思えた。



【Past Story.sideM Fin】



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