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真夏の残像


「インターハイが終わったら話があるんだ」


緊張した面持ちで、泉田くんがそう言ったのを昨日のことのように覚えている。
頬は少し赤くて、熱を帯びたような真っ直ぐで真剣な瞳に見つめられると、私の指先もまた、彼の緊張が移ったように小さく震えた。
いつもよりも速く脈を打つ心臓の音を誤魔化すように頷けば、彼は安心したように頬を緩めた。
深く腰を折った彼の背中が離れていくのを私は甘いような切ないようなそんな気持ちで見送った。
私はあの時、とても、幸せだったんだ。
でも、私の気持ちも、泉田くんの想いも、ぜんぶ、あの日あの暑い夏の箱根の山に置き去りにしてきてしまったんだ。





インターハイ三日目、ゴールの瞬間をその目で見ようと、沿道につめかける人、人、人。
その熱気は、真夏の箱根の温度を確かに上げていた。きっと、あの瞬間、この場所が世界中で一番熱く燃えていたはずだ。
蝉の声を掻き消すほどの声援が、自転車に乗った二人に注がれる。
叫びのような、祈りのような、声。
私はいつも無力さを感じていた。
今だって、ただ叫ぶしかできない。
でも、声が力になるというなら、背中を押すというのなら、喉が潰れてもいいから、もう喋れなくなってもかまわないから、どうか。どうか。彼らに、箱根学園に勝利を!!!
私はただ、一心にそう願っていた。
わっと一際大きな歓声に包まれるゴール前。
空を仰いだのは、黄色いジャージ。
顔を伏せたのは、青い箱根学園のジャージを着た真波山岳だった。疲労と悔しさがボロボロになった背中に滲んでいる。
その姿に目頭が熱くなる。
目元に溜まった熱いものが溢れないようにと、見上げた空は綺麗で、どこまでも青く澄んでいた。









「タイム2秒落ちてるよー!もっとふくらはぎ使ってー!!」
「フォーム崩れてる!力逃げてるよ!」


外周から戻ってくるなり、競輪場の方から苗字の大きな声が聞こえてくる。
トラック練習に付き合いながらストップウォッチを片手に激を飛ばす姿は、最近ではもう見馴れた光景になりつつある。


「マネージャー気合い入ってんなぁ」


とか呑気な声が聞こえてくるが、オレからしてみりゃあんなもん無理してるようにようにしか見えねぇ。
来年のインターハイに向けて今からできることを準備しておくのは当然だ。
しかも今年、箱根学園は負けた。なら、今までよりももっと練習内容を濃くするしかねぇ。
気合いも入るだろう。
けど、アイツのはそれもあるが、それだけじゃないような気がしてる。
そして、オレはもう一人アイツと同じような状態のヤツを知っている。
ローラーに乗りながら、指示を出す塔一郎を横目で見て、オレは人知れずため息を吐いた。
傍目から見りゃ、次期キャプテンとしての貫禄が出てきて、自覚と責任をもって部員たちをまとめてる。良いリーダーだ。
でも、気負いすぎてやいないか。そうすることで、別のことを忘れようとしているようにも見える。
オレは親指で眉間の間を引っ掻くようにして掻いた。
アイツらの間に何かがあったのは間違いねぇ。アイツは、塔一郎はインターハイの前に、苗字に告白すると言っていた。苗字は苗字で、塔一郎のことが好きだったはずだ。
それなのに、箱を開けてみりゃ、どうだ。アイツらの空気は恋人同士のそれには程遠い。
インハイの時か、その後で何かがあったのは間違いねぇ。
他のヤツならこんな面倒くせぇこと放っておくんだが、アイツらのことだ……そうもいかねぇだろう。
部活が終わり、苗字が一人になったのを見計らって、オレはその小さな背中に声をかけた。


「今、話いいか?」
「なに?」


振り向いた苗字の手には洗濯かごが抱えられていて、アイツはかごの中の洗濯物に目を落としてから「干しながらでいいなら聞くけど?」と言った。
仕事を手伝おうと洗い立てのタオルに手を伸ばすと、ペダル回して疲れてるんだから座っていろとベンチを指差されてしまい、オレは大人しくそれに従っている。
塔一郎はどうしてこんな怖い女がいいのかわかんねぇが、今はそんなことは問題じゃねぇ。
真っ白なタオルを手早く干しながら


「なに?」


とオレの言葉を促すアイツに、オレは重い口を開いた。


「このままでいいのかよ?」
「いいって、なにが?」


遠回しな言い方をしたのはオレなのに、この意味のないやり取りに、少しの苛立ちを感じる。
その間も苗字の手は淀みなく動き続けている。


「塔一郎のことだよ」


名前を出すと、今まで迷いなく動いていた手が止まり、かわりに丸みを帯びた小さな肩がピクリと動く。
けど、それも一瞬のことで、次の瞬間には、また新しいタオルを洗濯かごから取り出し、一振りしてハンガーにかけていた。


「お前ら最近変だぞ!」


なにも言わずに黙々とタオルを干し続けている苗字の背中に「おい!」と声をかければ、空になった洗濯かごを持ったアイツがオレの方へと振り向いた。


「言ってる意味がわからない。私、まだ仕事が残ってるから」


そう言って立ち去ろうとする細い手首を掴んで引き止める。


「塔一郎と何かあったんだろ!?」


言えば、普段よりつり上がった双眸がオレを見つめた。


「なにもない」
「なにもないわけねェだろ!」
「なにもないのよっ!!」


苗字が声を荒らげる。
激情を孕んでつり上がった目には、心なしか涙が滲んでいるように見えた。


「泉田くんに、インターハイが終わったら話があるって言われた。ほんの少し、期待してた。でも、今年の夏、私たちは負けた!負けて、全部……なかったことになった」


睨むようにこちらを向いていた痛々しくも真っ直ぐな視線が逸らされて、苦しげに眉が寄る。


「私は、自転車が好き。自転車に一生懸命な泉田くんが好き。だから、泉田くんが自転車を選ぶなら、それを応援する。したいの!でも……どこかでまだ割りきれてなくて……だから……ごめん。もうその話しないで」


悲痛な声だった。
そこからはもう何も言えなくて、オレは「悪かった」と掴んでいた手を離した。


「心配してくれてるのはわかってる。でも、ごめん……」


横をすり抜けて部屋から出ていった苗字がオレを見ることはなかった。
パタンとドアが閉まる音が部屋に響いて、オレは深くため息を吐いた。
どうすりゃいいんだよ。
つか、なにやってんだよ。
独りごちるが、言ったところで何が変わるでもない。
確かにこの夏オレたちは負けた。
だが、それが告白を取り止める理由になんのか?わかんねぇ。
アイツは真面目で真っ直ぐで不器用で、強情だ。
苗字の涙で滲んだ双眸を何かに堪えるように噛み締められて歪んだ唇を思い出す。
お前は、苗字にこんな顔させてもいいのかよ。塔一郎。

そして、問題ってのは重なるもんだ。









黒田くんが私のことを心配して言ってくれたのはわかっていたはずなのに、声を荒らげて……黒田くんは何も悪くないじゃないか。全部、私の気持ちの問題なのに……。
私は閉めた扉に背中を預けて、深いため息を吐いた。
まだ仕事がある。
かぶりを振ってスイッチを入れる。
今は立ち止まったって、泥のような思考に溺れるだけだ。
私は洗濯かごを抱えて、一歩踏み出した。




****




部の空気がピリピリとしていることに気が付いていなかったわけじゃない。
部員たちが何を不満に思っていて、何を求めているかに気を配るのもマネージャーの大切な役割だ。
けれどもこれを誰に報告すればいい?
コーチか、泉田くんか……言えるはずがない。しかし、私が言わなくてもきっと数日中には彼の耳に入ってしまうだろう。そう考えると、胃がキリリと痛んだ。

ミーティング中、入室禁止と書かれたホワイトボードがかけられたロッカールームの前を通った時、中から怒鳴り声が聞こえて思わず立ち止まる。
後輩たちの不安が彼らの耳に入ってしまったのだと理解するまでに、そう時間はかからなかった。
息苦しい。
もやもやとした煙が身体中を駆け巡って私の中に充満していくようだった。
やめて、やめて。これ以上、あの人を苦しめるのはやめて……。
気が付けば私の足はその場所から逃げるように動き出していた。









あの日塔一郎はキャプテンを降りると言った。だが、その後しばらくしてから部室で見た塔一郎の目は、吹っ切れたように直ぐで強い光を宿していた。
なにがあったのか詳しいことは聞いてねぇが、葦木場に何か言われたらしい。
ここのところご無沙汰だったアブという掛け声がトレーニングルームに響いている。
完全復活ってわけかよ。
なら、あの問題にもさっさと決着をつけろよ。
オレはそんな気持ちでインターバル中の塔一郎に声をかけた。


「塔一郎、苗字のことはどうするんだ」
「拓斗にも言われたよ。最近苗字さんが笑っているのを見ていないってね。」


一瞬、影を落とした塔一郎の伏せた顔が持ち上がり、今度は強い意思を持って瞼が開かれる。


「ボクはね、ユキ。今のままじゃ彼女の横に立てないと思ったんだ。けどそれは逃げだ。いつまでも彼女が待っていてくれるだなんて、それこそ思い上がりだ。ボクは今度こそ、覚悟決めるよ」


どうやらこっちの問題にも決着がつきそうだ。









泉田くんに呼び出されるのは、インターハイも直前に迫った、あの夏の日以来だ。
あのときは少し湿り気を帯びた風が、半袖から伸びた腕を撫でてもまだ暑いくらいだったが、今では長袖のジャージを着ていても肌寒い。
混じりけのない無色透明な風が、二人の間をすり抜ける。
久しぶりに正面から見た泉田くんは、インターハイの前よりもずいぶんと顔付きが大人っぽくなった気がした。


「以前、インターハイが終わったら話があるって言ったのは覚えているかい?」


優しい声色が私の胸に落ちて、深いところをギュッと締め付ける。
忘れてしまいたかった。あの日の記憶をこの頭から取り除けたなら、どんなに良かっただろうか。
期待したぶん、痛みを伴った。
だけど、それでもあの日の記憶は、キラキラと輝いていて、今も、私の胸を甘く焦がす。
忘れたことなんて、ない。


「さぁ。そんな昔の話、忘れたわ」
「なら、もう一度言おう。ボクはインターハイが終わったら話があるとキミに言った。そしてそれは、今だ」


長い睫毛に縁取られた目が、真っ直ぐに私を見つめた。
その眼差しに、胸が大きく音を立てる。
ドクドクと忙しなく響く心拍が脳を揺さぶり、全身を駆け抜けていく。
もう、肌寒さなんか忘れていた。

「遅くなってすまない」

真摯な瞳に私が映る。
泉田くんの唇が形を変えるのを瞬きもできずに見つめていた。


「ボクは、苗字さんのことが好きだ」


吐息が漏れた。
ずっと待ち望んでいた言葉だ。
喉元が熱く、泣いてしまいそうだと思った。
すぐにでも頷いて、その厚い胸元に飛び込みたい。そして、私もあなたが好きだと告げたい。どれだけ泉田くんのことが好きか、言葉を連ねたい。
私は今にも溢れだしそうな想いを狭い胸の中に押し込めて、唇を噛んだ。


「でも自転車が……」
「自転車とキミ、どちらかじゃない。どちらもだ。ボクはどちらも手に入れる。そう決めたんだ。だから、返事を聞かせてくれるかい?」


決壊するように、溢れだす気持ち。


「私も、私も泉田くんのことが、好き」


そう言ったはずだけれど、ちゃんと言葉にできていたのかはわからない。
熱を持った喉元から嗚咽が漏れて、拭っても拭っても、熱い気持ちが溢れだしてくる。
視界はぼやけていてなにも見えないが、泉田くんが困惑しているのを肌で感じた。


「今は拭くものを持ち合わせていないんだ。だから、すまない……」


泉田くんの手が遠慮がちに私の肩口に触れた。そっと引き寄せられて、額が彼の胸元にくっつく。
その逞しくて優しい暖かさに、涙は止まるどころか、さらに溢れだす。
私は泉田くんのジャージに顔を埋めて、わんわんと子どもみたいに泣いた。
泉田くんのジャージに涙が染み込むたびに、夏が遠くなるような気がした。


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