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5M


中学3年の夏は、上総プールに行っても名前さんに会えないことが多かった。オレもチームSSの練習や自分の練習で忙しかったけど、でもやっぱりあの飛び込みを見ないと夏が始まらない気がして、無理して足を運んだのに、そこにいるのは違うバイトか爺さんだけ。がっかりして、ろくに泳がずにすぐ帰ることもあった。
そんな8月も半ばを過ぎたある日。ようやく名前さんとこの夏最初の遭遇を果たしたオレが、最近なんでバイトをサボってるのか問い詰めると、彼女は「サボってるわけじゃないよ」と呆れたように笑った。

「練習で忙しいの。ちょっと間近に大きな大会控えててねー」
「練習ならここの飛び込み台でもできるじゃないですか」
「監視員のバイトしてる時はできないでしょうが」

いつもと同じ軽い調子でそう言う名前さんだったが、その瞳はどこか遠くを映しているようだった。多分、彼女は今厳しい戦いに身を投じているのだとわかるような、静かな覚悟が滲む横顔。関係ないけど、睫毛が長いなと、何故かそんなことを思った。

「……監視しながら、飛び込めばいいじゃないっすか!」
「アホか? そんなん背中に目がないと無理に決まってるでしょ」

それでも、監視員のバイトとしてプールに来る日は、閉館後練習を見学させてくれた。大会前ということもあって、演技の一つ一つにピリピリとした緊張感があって、練習なのに、見ているこちらが固唾を飲んだ。集中しているところに声をかけるのも悪くて、練習の触りの方だけ見学すると、何も言わずこっそりと帰るようになった。

──そして、その日は唐突に訪れた。





「オレンジくん、今日も練習見てく?」

プールに現れたオレに、いつになく晴れやかな笑顔で、名前さんはそう問いかけた。こんなスッキリとした表情を見せる彼女は久しぶりだったし、いつもはこんな風に訊かれないから、ちょっと戸惑った。

その後の飛び込みも、最近のそれとは少し違った。ひりつくような緊張感が消えている。いつものように、華麗でダイナミックですげぇダイブだったけど、どこか解き放たれたように自由な印象を受けた。
名前さんは、違う種類の演技を立て続けに何回か飛ぶと、最後、オレがかつて失敗した101Aと呼ばれる、ただ前に飛び込むだけのシンプルなダイブをした。ただ前に飛び込むだけなのに、最初の姿勢から、最後の入水まで、とことん技術と美しさが追求されていて、オレはほうっとため息をついた。やっぱ名前さんは何を飛んでもすげぇ。

それが終わると、プールから上がった彼女がオレの元へとやってきた。

「今日はこれで終わり!」
「え? もう?」
「うん。オレンジくん、このあと時間ある?」

ご飯食べに行こうぜ、と彼女はニッと笑う。唐突な誘いに驚きながら「えっ、いやでもオレ、金無いす」と口ごもれば、「いーよ、私が全部奢るから」とあっけらかんと言われて「え!?」とますますビビる。

「いいんすか!?」
「うん。この近くに美味い中華があるからさ。そこ行こ」
「……わ。わかりました」

ぎこちなく頷けば、彼女は「そうこなくっちゃ!」と嬉しそうに笑った。その笑顔が眩しくて、目をそらす。
なんで唐突に、メシ……。しかも奢ってくれるなんて。ていうか、年上の女と二人きりで飯とか、なんか……やばくないか?
二人で更衣室まで戻る道すがら、オレはふわふわした高揚感を持て余しながら、やけにテンションが高い彼女の隣を歩いた。





プールの入り口で、先に着替え終わったオレがプールバックを蹴りながら彼女を待っていると、そこに「おっまたせ!」という明るい声が響いた。やっと来たか。
彼女に目を向けて、遅いっスよ、と苦言を呈そうと開きかけた口が止まる。そこに立っていた名前さんが、いつもとは違う服を着ていたからだ。
黒くて無地の、Tシャツの袖がないやつみたいな上半身に、長めのモスグリーンのヒラヒラしたスカート。いつもはポニーテールの髪の毛は下ろしていた。白いタオルを首にかけていて、そこだけちょっと農家のおばさんみたいで、浮いていた。
でも、こんだけ長い間の知り合いなのに、名前さんの私服、初めて見た……。
監視員の時の服より、水着より、露出度はずっと低いのに。一番大人っぽく映って、この人がオレよりずっと年上なのだと改めて思い知らされた。

「ごめんごめん、お爺ちゃんに引き止められちゃってさー」

顔の前に手のひらを立てて、すまなそうにこちらに近づいてくる名前さんが、固まったオレを見て、不思議そうに「オレンジくん?」と首をひねる。それまでまじまじ見つめてしまっていたが、その声ではっとして、慌てて顔を背けた。

「ほ、ほら、早く行きますよ!! 名前さんの着替えが遅いから、オレ腹減りました!!」
「? 急に乗り気だなー」
「で、どこすか!! 案内してください!!」
「はいはい」

なんでこんなに頬が熱いんだろう。


プールから5分ほど歩いたところにある中華料理屋は、チェーン店ではなく、いかにも町の中華屋といった感じの店構えだった。入口横のショーケースの中にある食品サンプルは古ぼけていたが、中にはたくさん客がいて、賑わっていたから安心した。
バイトと思われる若くて無愛想な男の店員に案内されたのは、座敷席だった。ビール片手にしこたま盛り上がっている隣のサラリーマン席を横目に、「よく来るんすか? ここ」と問えば、彼女は「たまにね。プールから近いし。意外とおいしいよ?」と答えた。女一人で、こんなオシャレでもなんでもない店に入れる名前さんすげぇなと思ったが、言わないでおいた。

「何食べる? 何でも好きなの言いな?」
「じゃあ……このホイコーローってやつで」
「オッケ!」

その時、ちょうどお冷やが運ばれてきた。名前さんが「すみません、注文いいですか?」と口を開く。

「えーっと……まずホイコーロー、あとこのにんにくチャーハンに、胡麻担々麺、酢豚とー……あ、餃子は三人前で。はい、以上で」
「ちょ、ちょちょちょっと!? オレそんな食べられないすよ!?」
「ん? オレンジくんの分じゃないよ、私が食べるの」
「え!?」

当たり前のような声色で言われたから、オレは面食らった。ぶっきらぼうに注文を繰り返した無愛想な店員が去っていくと、名前さんは、けろりとした笑顔で「今日はパーティーだからね」と続けた。

「パーティー? なんかめでたいことでもあったんすか」

そう訊くと、彼女は考えこむように上方に視線をやってから、「めでたい……そうだね」とゆっくり頷いてみせる。
そして平然と続けられた言葉に、オレはあんぐりと口を開けた。

「今日で飛び込みから解放されると思えば、おめでたいかもね」
「え」

私、飛び込みやめるの。

おしぼりで手を吹きながら、彼女はなんでもないことのように言った。
一瞬、言われたことが理解できなかった。

「え……は!? 飛び込みやめるて……何言ってんすか!?」
「声大きいなぁ」

思わず声を荒らげるオレに、名前さんは眉を下げて微笑んだ。

「前も言ったかな? 大きな大会が終わったの。全日本。表彰台どころか入賞すらできなかった。この大会で結果が出なかったらやめようって決めてたんだ」

ものすごい重大な決断を話しているだろうに、名前さんの口調は穏やかで、それに安堵しているようにすら聞こえたから、ますます混乱する。
オレが何も言えなくなっているところに、店員が餃子を運んできた。鈍色の歪な長方形の皿に、焼き目を上にして並んだ五つの餃子。焼きたてなのか湯気が出ていて、食欲をそそる匂いが立ち込めた。名前さんは店員に愛想よく「ありがとうございますー」と受け答えし、「さ、食べよ」と割り箸を取っている。
目の前に置かれた「おてもと」を見ながら、オレは腹から絞りだすようにして声を出した。

「……なんで、っすか」
「え?」
「なんで、笑ってるんすか!? もっとあるでしょ! 悔しいとか! 悲しいとか! ずっと追いかけてきたものを諦めるんですよね!? なのに、さっきから、なんで……」

胸ん中がぐちゃぐちゃになって、考えなしに張り上げた言葉が萎んでいく。
名前さんの、いつもと変わらない笑顔が、その時は無性に腹正しかった。なんでそう思ったのかは、わからねぇけど。
名前さんは、そんなオレを見て、あはっと息を零すように笑った。

「ね、オレンジくんはさ、自転車楽しい?」
「は? なんすかいきなり」
「いいじゃん、ね、楽しい?」
「……楽しいっていうか、今のオレの全てです。本気で上へ行きたいって思ってるから、楽しんでる余裕とかないっス」
「……、そっかぁ……」

割り箸を置いた名前さんは、オレの答えを聞いてぼんやりとお冷に目を落としている。ややあってから、「私はさ……分からなくなっちゃったの」とポツンと呟いて、グラスの結露を細い指でなぞった。爪の形が綺麗だと、そんなことをぼんやり思った。

「どうして飛び込みを続けてるか、って。最初は楽しかったはずだし、好きだったはずなんだよね。でも、最近は、飛んでも飛んでも気持ちが乗らなくて……」

その時、店員が酢豚を運んできた。どーもー、と名前さんは店員に向かって軽く頭を下げる。そして「さ、冷めちゃう前に食べよー?」と言って、「いただきまーす」と割り箸を割ると、勝手にもりもり食べ始めた。「ん、うま!」と声を弾ませている。
テーブルの中央に置かれた酢豚の白い大きな器には、餡を纏った野菜や大きな肉がゴロゴロしていて、文句無しにうまそうだ。だが、オレは、到底食べる気になんてなれなかった。腹は減ってる。なのに、餃子も、酢豚も、食品サンプルを目の前に並べられてるみたいで、ウマそうという情報以外まるで現実味がない。

こういう時、なんて言うのが正解なんだろう。
こういう時、なんて言えば「大人」の答えなんだろう。
オレがこの場にいるのは、多分行きずりみたいなもので、名前さんにとって深い意味はない。オレの意見なんて、必要とされてない。わかってるけど。黙って置物になって聞いてりゃいいのかもしんねェけど。
目の前の名前さんが、ものすごく遠く感じて、それが歯がゆい。彼女の気持ちに寄り添ってあげられる、ベストの発言をしたい。そう思ってしまう。

名前さんは、黙り込んだままのオレに、ちょっと困ったように微笑みかける。軽く息をついて、再び話し始める。

「わかってたの。自分には才能なんてない、ってさ。もう、ずっとずっと前からね」

だからかな、今笑ってられるのは。
名前さんはそう遠い目をしながら言って、グラスの水に口を付ける。

「それでもやり続けたのは、私には飛び込みしかないから。飛び込みを無くしたら、あとにはなんにも残らない気がして。思考停止だよね。だから馬鹿みたいに頑張ったよ。筋トレとか走り込みとか、夜までのかかりの練習に、食事制限だって……」

指折り数えながら語って、その後、自嘲するみたいに、ふっ、と鼻で笑った。
その、自分で自分を突き刺すみたいな、毒のある笑顔を見た時、ぐちゃぐちゃでよくわからなかった胸ん中に、一つはっきりした色の感情が浮かび上がった。

「大学の友達がみんな彼氏作って、遊んでる中、私はずっと飛び込みだけで。他の色んなこと、なんも知らないで来ちゃったよ。ばかだよね。笑っちゃうよね。才能なんてないのに。無駄なあがきだってこと、わかってるのに、こんな──」
「笑いません」

名前さんが、突然口を開いたオレに、驚いたように目を瞬かせる。

「ばかじゃない。無駄でもないです」

オレは知ってる。名前さんが人生を賭けて飛び込みをしていたこと。今、笑顔で語ってるけど。血を吐きながら、泥を啜りながら、途方もない努力を積み重ねてきたんだろう。
それを、人生を賭けて費やしてきた夢を、諦める。どんなに苦しくて辛い決断なのか。オレも人生を賭けてやってるから、わかる。いや、分かんねぇけど。でも、そんなこと想像するだけで、身が千切れそうだったから、実際そうした彼女を襲ったのはもっとどでかい苦痛だっただろう。

なんて言えばいいのか、正解なんて知らねェ。彼女の決断に、口を出せる筋合いもない。
だけど、それでも。彼女自身が、自分のしてきた努力に砂をかけるのは見過ごせなかったし、嫌だ。


「──オレ、名前さんのダイブ、好きです」


ぜってぇ嫌だ、と強く思った。


「名前さんは、嫌々だったかもしれねーけど、オレはそう映らなかったっす! いつだって生き生きしてて、水と一体化してて。楽しそうでした! オレにはそう、見えました!」

「オレンジくん……」

「オレ……オレ、名前さんの飛び込み、好きです。ダイナミックで、なのに綺麗で、見てるとワァーって血が沸くんです!」


届け、届け!
吐き出す言葉に熱が篭もる。それはがむしゃらで、子供じみてて、でも多分オレが今ここにいる意味は、きっとこの瞬間にある。
この人の努力を、この人のダイブを肯定できるのは、今オレしかいない。

名前さんのダイブを見ていると、時間を忘れた。チームSSの過酷な練習で、嫌というほど現実をすり込まれた心に、もう一度夢を見させてくれるような、そんな力に満ちた華のある演技だった。オレは彼女のダイブに、何回も魅せられた。熱くなって、夢中になった。

きっとこの世の誰よりも、名前さんのファンだった!


「他の飛び込み見たことねぇし、オレの中では名前さんが世界一です。世界一、好きです!!!」

「──!」


ダン! とテーブルを叩いて、身を乗り出す勢いでそう叫んだ数秒後。
オレはあれ? と思う。後半部分だけ切り取れば、これ……告白じゃないか? しかも、すげぇこっ恥ずかしいやつ。

しまった、と思った時にはもう遅い。どこからかヒュ〜! と沸き上がる指笛や、生暖かい視線、「若いっていいわねぇ」的なムード。おあつらえ向きに後半部分だけ音量がでかかったから、店中に勘違いされてしまった。
思わず立ち上がって「ちがっ、そういう意味じゃ……ていうかじろじろ見んじゃねーよ!」と吠えていたら、正面からブッと勢い良く噴き出す音が聞こえた。

「っふふ、ふふふっ、あは、」

見ると、名前さんが、お腹を抱えて笑っている。

「待って、もう、おかしい、あっはっはっはっ、むり、っふふ、あはは!」

抑え気味だった笑い声が次第に大きくなっていき、手を叩いて大爆笑し始めた。目尻には涙まで浮かんでいる。

「な…なんすか! 笑いすぎでしょ! そんな面白いすか!?」
「うん、おかしくて、涙出てきた……っ」

文句を言おうとしたその時、オレはハッと息を飲んだ。名前さんの瞳から、大粒の雫がぽろぽろと零れ落ちていくのが見えたからだ。
名前さんは、泣いていた。笑い声はしゃくり上げる音に変わり、上がっていた口角は変な形に崩れて。えぐえぐと、肩を震わせて泣いていた。
大の大人に、こんな風に目の前で泣かれることなんて、今までなかったから。見事に狼狽えてしまったオレは、とりあえず、テーブルに置いてあった紙ナプキンを何枚も抜き取って、「だ、大丈夫すか!?」と彼女の前に積み上げる。
ごめん、と切れ切れに言いながら、山盛りになった紙ナプキンから一枚とって、彼女はチーーーン!!と勢い良く鼻をかんだ。恥じらいもクソもない音。その後、もう一枚使って涙を拭うと、改めてオレを見た。


「ありがとう……一差」


瞳は泣き濡れて、目元と鼻は真っ赤で。
お世辞にも綺麗とは言えない、ぐちゃぐちゃの笑顔だったのに。
オレはその涙と笑顔に、一瞬、悔しいほど見惚れた。

「………!」

ガツンとぶん殴られたような衝撃が身体に走って、呼吸が止まった。どくりと大きく心臓が鳴って、世界の輪郭が、彼女を残してすべてぼやける。
うわ、んだこれ、やべぇ。ていうか、名前で初めて呼ばれた。何でこのタイミングで。

「……一差?」
「!! っちょ、やめろ! 見るな! オレを見るな!!」
「はぁ?」

頬がカッと熱を持つ。それを悟られたくなくて、オレは前腕をクロスして顔に翳す。
なんだこれ、なんなんだこれ! さっきの名前さんの笑顔が、脳裏に焼き付いて消えてくれない。
ばかみたいに速くなる心拍数に、急き立てられるようにしてオレは立ち上がって、叫んだ。

「オレ、ちょっとその辺走ってきます!!」
「えっ!?」
「腹ごなしです、すぐに戻ります!! 先食べてて下さい!! じゃ!!」

駆け足で店を飛び出して、ロードに跨って、オレは衝動のままに、薄暗い夏の夜を猛然と走る。
風を切る音も、自分の息遣いも、何も聞こえなかった。ただ、鼓動の音だけが、夕闇の中で浮き彫りになるように、全身にこだましていた。

一体この、居ても立っても居られなくなるような、ふつふつと湧き上がってくるエネルギーはどこから来たのか。何で名前さんの笑顔が、涙が、頭の中で延々とリフレインしているのか。結局その謎が解けるのは、来年の夏まで持ち越しとなる。

その後、衝動が鎮まるまでひたすら走っていたらかなり時間が経ってしまっていて、慌てて戻った中華屋で早くも根を上げつつあった名前さんにぐちぐち文句を言われながら、オレはフードファイトに挑むことになるのだった。

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