top

3M


ある日の夕方、チームSSの練習を終えて、16時を少し回ったぐらい。オレと段竹はいつものように上総プールにやってきていた。閉館間際の今は、プールが程良く空いていて、思いっきり泳ぎ回るには最適の時間帯だ。

「ハハッ、段竹聞いて驚け、なんとオレは新種の泳ぎ方を開発したんだ! 名づけてクワガタロール! マジでカッコよくて速いからきっとビビるぞ!」
「そうか、それは楽しみだな」

大急ぎで水着に着替えて、入場ゲートのシャワー(水が親の仇ように冷たいことで有名)を駆け足で通り過ぎ、そのまま大プールへ───

「はいストップーーー!!!」

……飛び込もう、としたところで浴びせられる、拡声器越しのひび割れた怒声。
足を止めて声のした方を向くと、いつもと同じ格好をした名前さんがキビキビとやってくる。「やあオレンジくん。元気なのはいいことだけど、プール入る前は準備体操しような?」と威圧感のある笑顔と共に言われ、オレはついカッとなって開口していた。

「準備体操もなにも、今運動してきたばっかだっつの!」
「え?」
「なぁ段竹!」

一足遅くやってきた段竹に話を振ると、名前さんは「ほんと? 仮面ライダーくん」と怒りの抜け落ちた顔をヤツに向ける。仮面ライダーくん、もとい段竹はこくりと頷いた。

「オレ達、ロードバイクの社会人チームに入ってるんです。だから、閉園間際に来る時は大体練習上がりです」
「そ! だからもう身体は十分過ぎるほどあったまってるんですよ! ……あとその呼び方やめてくれって何度も言ってるでしょ!」

オレはオレンジくん呼びなのに、段竹だけ仮面ライダーくんとかいうかっこいい呼び名(本人曰く、カラーリングが現行ライダーに似ているらしいが、見てねぇから知らない)なのが、なんか腹立つ。ていうか、もう名前知ってるだろ。
だが、そのオレの何回目かも知れぬ訴えを無視し、名前さんは「ロードバイク!?」と無邪気に目を輝かせた。オイ。

「表に時々止まってるロードバイク、キミらのだったんだ!?」
「ああ、はい」
「わーすごい! 私ジロとかツールとかよく観るよ」
「そうなんですね」

段竹と名前さんが込み入った話をし始める。それが気に入らないオレは、ぶすっとしながら「おい段竹、早くプール入ろうぜ」と腕を引っ張って段竹を連れ戻そうとする。
と、名前さんが、「ちょっと待ちなさい」とオレらの前に立ちはだかる。

「いくら運動してきたからって、もう今は身体冷えちゃってるだろうし、自転車と水泳じゃ使う筋肉も全然違うから。準備運動はしっかりしような」

名前さんは、オレ達をプールに背を向ける形で並ばせると、その前に立って意気揚々と「じゃあお姉さんと一緒に、元気よく声を出していくよ!」と、勝手に準備体操を始めた。正直恥ずかしかったが、逆らうとまた注意カードをくらいそうだから、渋々彼女の声と動きに従って、身体を動かす。

と、しばらく体操を続けた時だ。
急に彼女の動きがピタリと止まったのは。

「……?」

その食い入るような視線は、オレ達を通り越して、プールに注がれているから、なんかあるのかと思ってオレも振り返った。
あるのは人も少ない静かなプールだ。真ん中に浮き輪だけがポツンと浮いている。一体何があるって……

──その一瞬、だった。
目の前をすごい勢いで、何かがすり抜けていったのは。

「……は?」

そして、それはまっすぐにプールへ向かうと、勢い良く飛び込んだ。勢い良く飛び込んだ、のに、ほとんど水飛沫は上がらない。まるで水面に吸い込まれていくようだった。
慌ててオレ達もプールに駆け寄る。と、それは息継ぎなしでプールの中央まで泳いでいって、何かをすくい上げる。……幼女だ。抱きかかえられた彼女の腕の中で、わんわん声を上げて泣いてる。
名前さんは、その幼女を「よしよし」と笑顔であやしながら向こう岸まで泳いで行って、プールサイドのベンチで本を読んでいたその子供の父親らしき男の元まで連れて行く。軽く話したあと、父親のほうがぺこぺこと何度も頭を下げているのが確認できた。

その光景を呆然と見ながら、オレは口を開いた。

「……段竹、今の見たか!?」
「……ああ。名前さん……すごかったな」

なんだったんだ今の。
さっきから、名前さんが水の中に吸い込まれていったあの一瞬が、頭に焼き付いちまって、離れねェ。
いつも着ているポロシャツとハーフパンツではなく、黒字に赤いラインが入った競泳水着を着た名前さん。背中の部分だけぽっかり穴が開いていて、肌が見えていて。そんな彼女が、両手をまっすぐに伸ばして、綺麗に弧を描いて落下していく様は、色合いも相まって、昔好きでよく見てたアニメに出てくる、スタイリッシュな主人公のロボを連想させた。そんでもって、音もなく水面に吸い込まれていったんだ。まるで水が意思を持って、彼女を迎え入れたみたいに。新種の生き物を見ているようだった。でも、動きに一切の無駄がなくて、溺れていた幼女を助け出したのもあっという間だったから、やっぱりメカみたいだと思った。

「かっけぇ……」

呆然と呟く。なんだ今の、マジですげぇ! 鳥肌が立って、どくんどくんと心臓がうるさい。名前さん、何者なんだ!?
しばらくして、「ごめんねー待たせちゃったねー」と何事もなかったかのように戻ってくる名前さんに、オレはその疑問をぶつけた。
すると彼女は、ああ、と笑って言った。

「私、飛び込みの選手なの。ほら、向こうのプールにあるでしょ、飛び込み台。バイト終わった後、あそこで練習してるんだ」

飛び込み台……。
長年通ってるけど、あそこに人がいるの、見たことねえ。

「よかったらこの後練習見てく?」

あんた達なら特別に見せてやってもいいよ、と彼女がにこりと歯を見せる。
オレは一も二もなく頷いていた。





段竹は夕飯の手伝いがあるとか言って帰ってしまったので、オレは一人で名前さんの練習を見ることになった。
誰もいなくなって、陽も落ち始めたプールに、二人きり。練習が見たいと食いついたのはオレだったが、なんだか妙に居心地が悪くて、早く帰りたい気持ちにかられる。
……だが、そんな気持ちも、飛び込み台があるプールまで来たら、吹っ飛んだ。

「でけぇ!」

飛び込み台を根本の部分から見上げて、そう声を上げるオレに、名前さんは「そーでしょー」と、得意げに笑って説明をしてくれる。
一番高いところから順に、10M、7.5M、5M、そして弾力性のある飛び込み板の3Mと1M。一本のでかい支柱のてっぺんに10Mの飛び込み台が、その支柱に生えるようにして、7.5M、5Mの飛び込み台が左右にニョキニョキと出っ張っている。3Mと1Mの飛び込み台は独立して、支柱の脇に。灰色のコンクリート製だったけど、これが真っ黒だったら、ちょっと前に連れてかれた映画に出てくる怪獣そっくりだと思った。それぐらい、今にものしかかってきそうな程の迫力があった。
飛び込みは点数競技。技の難易度とか、完成度とか、美しさで争うらしい。基本、高いところから飛んだほうが点数が高いのだという。

「説明するより実際飛んで見せた方が早いか。じゃあちょっとそこにいてね」

そう言うと、名前さんは螺旋階段をスタスタと登って行く。とうとうてっぺんまで行き着くと、オレに向かって「行きます!」と叫んだ。
落ちるんじゃないかと思うぐらい、板のギリギリに立った名前さんが、スッと手を横に伸ばす。ピタリと静止して、その刹那、糸を張り詰めたような緊張感が辺り一体に振りかかった。その堂々たる姿はまるで、夏に散々再放送をしているジブリか何かで見た、荒ぶる神獣を制する神々しくて強いヒロイン。固唾を呑んだその時、彼女が空に高く飛翔した。
時間にして、多分2秒もしないぐらい。その間に、名前さんは目が追いつかないぐらいくるくると回転して、最後大きく伸びると、飛沫を高く残して入水していった。
目を奪われた。瞬きをしている間に終わってしまうような、一瞬の演技。でも、それは深くオレの心に刻みつけられた。

「す……すげぇ……!!!」

なんだ今の、人間じゃないだろ。神か!? やっぱりロボなのか!? それとも…新種の生き物!? 人魚とか!?
拳を開いてみれば、握りしめすぎていたのか白くなっていた。おまけにかすかに震えていて、興奮を物語っているようだった。

「今のダイブは105B、前ニ回半えび型」

プールから上がった名前さんが、髪をかき上げながら近づいてきて、そう教えてくれる。全く意味が分からなかったけど、とにかくオレは興奮を声に乗せて彼女にまくしたてる。
と、名前さんは朗らかに笑った。

「あはは、そんだけリアクションしてもらえると私も演技しがいがあるよ。他のも見る?」
「見る!!!」

その後の飛び込みもすごかった。なんと飛び込み台の縁ギリギリで、彼女は逆立ちをしてみせたのだ。
え!? と目ん玉が飛び出た瞬間、その身体がゆらりと前へ倒れて、空へと投げ出される。そこから、膝を抱えた状態でまたくるくる何回も回って、着水した。

「今のは626B。逆立ち後宙返りえび型」

すごいっしょ、と悪戯成功したガキみてぇに歯を見せてにししと笑う。
そんな名前さんに、オレは身を乗り出して叫んでいた。

「オレもやりたい!!!」
「え?」
「オレも飛んでみたい!! やる!!」
「おー、いいけど、初心者だし子供だし、飛ぶなら3mからだな」
「10Mから飛ぶ!」
「いやいや、だめよ危ないから」
「嫌だ!! 10Mから飛ぶ!!」
「……んー……わかった。じゃあ、まず5Mで身体を慣らそう。私の言うとおりにして飛ぶの。それでできるようになったら、10Mから飛ばせてあげる」

そう言って名前さんが教えてくれたのは、手をピタリと横につけて、直立したまま縦に着水する飛び方。こうすれば着水の時の衝撃が少ないのだという。お手本を何回か見せてくれた。
でも、オレは……。
5Mの飛びこみ台からプールを見下ろす。下から見上げる分には大したことない高さに見えるが、こうして台の先端に立つと、意外と距離があるように思えた。ビビってるワケじゃねぇけど。

(やっぱ、ただ飛び降りるだけじゃ……つまんねェよな!)

まだ脳裏に焼き付いている、人間離れした名前さんの飛び込み。さすがにあんなダイブはできないが、オレもカッコよくダイブしてみたかった。
名前さんの真似をして、手を横にまっすぐ伸ばして。大きな声で「行きます!」と叫ぶと、オレは思い切りジャンプして、頭から突っ込むようにして飛び込んだ。視界の隅っこで名前さんが慌てるのが映り込んだ。
猛スピードで落下するオレの身体。重力の感覚がなくなって、身体の軸が勝手にぶれる。迫る水面。しまっ、

バシャーン!!!!!

一瞬後、オレは水の中にいた。より青が深まっていく方へ、体が勝手に沈んでいく。
着水の瞬間、何が起きたのかわからなかった。わかるのは、多分オレは失敗したんだろうということだけ。空中で身体がばらけて、バランスを崩して、思い切り打ち付けた腹が痛い。やべ、力が入んねぇ……。思考が虚ろになって、ごぽりと口から空気が漏れたその時、ぐん、と強い力で腕を引っ張られた。
気がつくと、オレの頭は水中を脱していた。肺が酸素を求めていて、大きく噎せながら、堰を切ったように呼吸を繰り返す。苦しい。
肩を組むようにして、オレの腕は名前さんの首に回っていた。物凄く近い距離で、名前さんがオレの顔を覗き込む。

「大丈夫……じゃないね」

ばかだなぁ〜と、名前さんは呆れたように眉を下げて笑う。

「あんたが今やろうとしたのはね、101A。前飛び込み伸び型っていうれっきとした技の一つなの。だから初心者がいきなり挑んだってできるわけないんだよ」

ゆっくりと立泳ぎしながら名前さんはそう説明して、岸までたどり着くと、先に上がってオレに「はい」と手を差し伸べた。
彼女の向こうで、たった今太陽が落ちようとしている。その逆光で、影が差した笑顔から、際立つような白い歯が溢れる。しなやかな身体を滑り落ちる水滴に西日が反射して、その刹那、彼女がものすごく輝いて見えて、目が奪われた。

「──っ、ひ、一人で上がれるっつうの! ガキ扱いすんな!」

ハッとして、彼女から慌てて視線を外す。「あはは、ごめんごめん」と笑う名前さんのからりとした声を聞きながら、オレはざぶんと勢いよくプールから上がった。頭がズキンと痛んで顔が歪んだ。

「さて、私は残って練習してくけど、あんたはどうする?」
「…………」
「……オレンジくん?」

「…………。お腹いたい……」


(クソッ、あの女、散々笑い飛ばしやがって……!)

数分前、「思いっきり腹打ってたもんなわかるわかる!(笑)」と手を叩いて面白がっていた名前さんの笑顔を思い出してムカつきながら、オレはトイレへと急いでいた。
飛び込みは失敗するし、腹は痛いし、鼻から水が入って頭も痛いし、身体もじんじんするし、名前さんには笑われるし、ことごとく最悪だ。飛び込みなんて一生やるか、と思いながら、入場ゲートのシャワーをくぐった。

(……でも、あの時……)

思いっきり水に体を打ち付けた衝撃で、水の中で朦朧とするオレを、力強く引きずり上げてくれた名前さんの引き締まった横顔。そのあと、プールサイドで差し伸べられた手と、向けられた笑顔の奥の瞳が、呆れた色を映しながらも、柔らかい光を宿していたこと。まるで出来の悪い弟を見守るような……。
心臓の音と呼応するみたいに、頭がガンガンと鈍痛を発していて、オレは顔をしかめる。他のところもきゅうと痛んだ気がしたが、どこかは分からなかった。

(ていうか、今思えば身体当たってたよな……)

あの時はオレもぼんやりしていて気にしてなかったが、ものすごい距離の近さだった。彼女の首に回された腕の先で、手はぎゅっと握り締められていたし、彼女のもう片方の手はオレの腰に回されていた。距離が近いというか、ほぼ密着していた。冷たい水の中、彼女と当たっている部分だけ暖かくて。そのぬくもりと、身体の感触を思い出した瞬間、頬がカッと熱くなった気がした。

「あーもーなんなんだよ……! クソッ!」

振り払うように大きな声を出せば、そこは管理人室の前で、管理人のじいさんがのっそり顔を出してしまったので、オレは逃げるようにダッシュでその先のトイレへ駆け込んだ。





それから、オレはよく名前さんの練習を見学していくようになった。子供が戦隊ヒーローに夢中になるような感覚で、オレは名前さんの華麗で鮮やかでダイナミックな飛び込みに、どんどん引き込まれた。
今から思えば、ひとりきりで集中したいであろう練習にオレみたいなガキが紛れ込んでいたのは、相当邪魔だったに違いない。でも、名前さんは一回もオレを邪険に扱わず、どんな時も「どーだった?」「なんか見たいのある?」と笑顔で訊ねてきてくれた。それがまた嬉しくて、彼女のダイブを見るためだけに、プールに行くこともあった。

名前さんとの距離は、この年を境に一気に縮まることになった。

back
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -