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1M


今日、オレ、鏑木一差は一世一代のダイブをする。

苗字名前という6歳年上の女と、一緒に花火大会に行くためにだ。そのためだけに、高さ10Mの飛び込み台から、下のプールにめがけてダイブをする。
営業時間が終了し、人気が消えたプールで、オレは彼女と向き合っている。8月も後半、夕方になれば日中の暑さは和らいで、生温い風が二人の間を吹き抜けた。

「いいっすね! そこでちゃんと見といてくださいよ! 片時もオレから目を離さず!」

挑みかかるように指を差してそう言えば、名前さんは「マジで飛ぶのかー…」と困ったように後頭部を掻いた。それからはぁ、とため息をついて「わーったよ。ま、頑張りたまえ」と諦めを滲ませた声色で言う。
その世界一適当なエールに不満がないわけでもなかったが、「じゃあ行ってきます!」と言って、オレは彼女に背を向け、飛び込み台の螺旋階段へと向かう。でかくて、迫力あって、映画に出てくる怪獣みてぇな形をした飛び込み台。その背中にギザギザんなってトサカのようにくっついた階段に、足を踏み出す。
一歩一歩慎重に、噛みしめるように、オレはトサカを登っていく。隣接している公園から子供達の声が遠く響いてくるぐらいで、この周辺はとても静かで、だからかもしれない、自分の心音がこんなに大きく聞こえるのは。緊張、してんのか、やっぱり。
ちらりとプールサイドを見やると、名前さんは飛び込み台の逆方向に足を進めていた。ダイブを見やすい位置に移動しているようだ。白いポロシャツに紺のハーフパンツ。高い位置に括られたポニーテールが控えめに揺れている。初めて会った時から、何も変わらないその姿。

オレはぼんやりと、彼女との思い出を喚び起こしていた。





その屋外プールは上総プールと呼ばれていて、オレの家の近所にあった。入場料無料で、かかるのはロッカーの値段だけだったが、そんなもん利用したことがない。だからタダで行き放題で、夏休みになると子供達の格好の溜まり場だった。
お世辞にも綺麗とは言えないし、正直ボロいししょぼい。プールの種類も、子供用の浅いプールと大人用の25mプール、そして飛び込み用のプールだけ。飛び込み用のプールは基本的に立ち入り禁止だったので、実質2種類しかない。ウォータースライダーも、流れるプールもない。でも、友達と一緒ならそんなの関係なかった。
とにかく、めちゃくちゃ遊んだ。遊び尽くした。中学に入ってからは、チームSSの練習で小学生の頃より行く時間はぐっと減ったが、練習終わりのシャワーの代わりに、段竹と一緒に泳いでいくことも多かった。

だから彼女のことを思い出すと、肌を焼くような夏の日差しと、ツンとした塩素の匂いと、子供らのはしゃぐ声もセットでついてくる。必ず。



「こぉら!! そこの坊主!! 止まれー!!!」

ピピーッ! という鋭い警笛の音と、拡声器から発せられたひび割れた怒声。今まで何回聞いたか分からない。
やがて、ドスドスと大股で歩きながら女が近づいてくる。白いポロシャツにハーフパンツというラフな格好。小柄なはずなのに、怒る時だけはやたらと怖くて、人影の頭に二本の角が見えるようだった。

「まーたお前かオレンジ頭! プールサイドは走っちゃダメだって何回言ったらわかるんだ? そんなに早死にしたい?」
「すぁせんしたァ!」
「あはは〜マジで謝罪だけは一丁前だよね。で? 今日で何回目よ?」
「三回目す!!」
「元気に言うな! はい、レッドカード」

女がハーフパンツから真っ赤なカードを取り出して、空にまっすぐ掲げる。と、周囲からおお〜と声が上がる。口笛を吹いてるヤツもいる。クソ、なんだよ、見せもんじゃねーんだよ。「管理人室にご案内〜〜」と悪魔の笑みをみせたソイツが、オレの腕をむんずと掴んだ。

「段竹! 助けてくれ!」
「行ってこい」

とうとう段竹にまで見放されたので、オレはしぶしぶ彼女に連行されていく。目の前でブンブン揺れるポニーテールを見ながら、オレは頭の中で謝罪の言葉を組み立てる。





管理人の爺さんからの説教は、ねちっこくて長かった。名前と学校を書かされた挙句やっと解放されて、管理人室から出る。
建物の中は日が差さなくて、薄暗い。モスグリーン色の廊下をペタペタと素足で歩いて、プールに戻ろうとしたところで、女に遭遇した。

「お、その様子じゃこってり絞られたみたいだなー」

にししと笑うと、白い歯が浮かび上がる。「誰のせいだと思ってんすか!」と歯向かえば、「全部お前のせいじゃい」と頭を軽くはたかれた。

「君、名前なんていうの?」
「……鏑木一差す」
「そっか、鏑木ねー。いつも一緒にいる子は?」
「段竹竜包」
「へー、かっこいい名前〜」

人懐っこい笑みを見せた女は、壁に寄りかかって、持っていたオレンジビーナの蓋をプシュッと開けると、それを目の前で飲み始めた。……美味そうだ。そういや、さっきから何も飲んでないから、喉が渇いている。クソ、見せつけやがって。
じっと見つめるオレの視線の意味に気がついたのか、女は「ちょっと待ってな」と言うと、その場を離れていった。
しばらくして戻ってきた女の片手に握られていたのは……アクエリアス。はい、私の奢り、と手渡されて、オレはつい口走っていた。

「オレンジビーナじゃないのか」
「あったりまえでしょー。水分補給には適さないし、あれ」

自分はオレンジビーナ飲んでるじゃないすか、と口答えすれば、「私は大人だからいいのだ」とふふんと大人気なく笑う。
大人ってずりぃ。そう思いながら、キャップを開けてアクエリを飲む。……たしかに、身体が求めていた味という感じがする。

「ね、今何年なの?」
「中1っす」
「おー、もう中学生か! でっかくなったなー」

私も年を取るわけだ、と女は感慨深そうに呟いて笑う。そんなに年取ってるようにも見えねーけど。細められた瞳の奥の光が優しくて、妙にむず痒くて、オレは「なんか、おばあちゃんみたいっすね」と悪態をついていた。……こってり締められた。大人は横暴だ。


それ以来、オレ達はその女とちょくちょく会話を交わすようになった。彼女の名前は苗字名前さんと言って、高校生のころから8月だけ、祖父が管理人をしているこの上総プールでバイトしているという。今大学生らしい。やっぱり、そんな大人でもないじゃないか。
名前さんからしてみれば、オレ達は小学生のころからずっと見てきている馴染みの顔。だからか、馴れ馴れしく話しかけられることが多かった。と言っても、特別親しかったわけでもないし、会話するのは大体段竹で、オレは叱られる方が多かったと思う。別に仲良くしたいとも思ってねぇし、いいけど。

と、そんな風に考えていた中学2年の夏だった。
オレの中の彼女の心象がガラリと変わる出来事があったのは。

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