銅橋くんと高嶺の花
立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花。
……そんな言葉、あの人に出会うまでは知らなかった。知った時、意味はよくわからなかったが、少なくとも「女神」とか「天使」とか「自転車競技部の姫」とかいう、本気で言ってんのかふざけてんのかよくわかんねー馬鹿みてェな言葉よりも、あの人にふさわしいと思ったのを覚えている。
苗字名前先輩は、オレの一学年上、3年のマネージャーだ。黒田さんの幼馴染で、その繋がりからマネージャーとして入部したらしい。
男臭い自転車競技部の中で、女のマネージャーは彼女ただ一人だけ。そして文句無しの美人。部活外の連中に「掃き溜めに鶴」なんて揶揄されたこともあるが、それはもはやオレらへの悪口じゃねェか喧嘩売ってんのかと思う一方で、そう言われるのも理解できてしまうぐらい、あの人は綺麗だ。女の美醜の感覚がイマイチ分からねぇオレでも、あの人が相当な美貌の持ち主であることは分かる。
ここまで美人だとそれを鼻にかけたりしそうなもんだが、苗字先輩にそんな性格の悪いところは一切見受けられない。レギュラー外のメンバー、後輩のひとりひとりを気にかけて優しく接してくれるし、時には部長に変わって厳しいことを言って指導することもある。この飴と鞭にやられる部員は多い。(らしい。)
そして何より、仕事ができる。練習日程、メニュー、記録の管理から、洗濯やドリンク作り、タイム計測まであらゆることを完璧にこなす。棒っきれみてーなほっせェ身体で力仕事や汚れ仕事も進んでやる。
……と、ここまで書いたのが苗字さんの、一般的な部員からの印象だ。なんつーか、これほど完璧だと完璧超えてむしろ超人だな。
ただ。
ただ、オレの彼女に対する印象は、実は、ちょっと違うんだ。
いや、美人なのも性格いいのもその通りだと思ってるんだが……。
……苗字さんは、ドジだ。
何もねェところで転ぶし、そこで噛むか? みたいなところで噛む。シャープペンを逆にした状態でノックして、芯先が親指に刺さってオレの目の前で痛みのあまり蹲ってしまったこともある。あとは、校内で見かけて、こちらから挨拶した瞬間、その時持っていた持ち物を全部落としてしまい、おまけに筆箱の中身をぶちまけてしまったこともあった。
まだまだ苗字さんのドジエピソードは絶えない。彼女の名誉を思って、ここで紹介するのはこの辺にしとくが、あまりにも絶えないので、ひょっとしてオレが個人的に嫌われてるのかと思って、彼女に思い切って尋ねたことがあった。
『苗字さんは、ひょっとして、オレが嫌いなのか?』
……その時の彼女の顔は、忘れることができない。
『え………』
なんて言えばいいんだろうな。母親に裏切られた子供、っつうか、捨てられた子猫っつーか……その丸いくりくりした目をさらにまんまるにして、一瞬呆然としたあと、
『──そ、そんなワケない!! なんで!? だっ、誰かに言われたの!?』
ぶるぶる首を横に振って、オレに食いかかる勢いで全力で否定してみせた。
『なんか、私のこと変な風に言ってる輩とか、私が誰それのことが好きとか誰それのことが嫌いとか、勝手に推測して触れ回ってる奴がいるらしいけど、それ全部信じないでね! 私そういうの無いから!』
別に誰にもそんなこと言われたこと無かったんだが、あまりにも苗字さんが必死だったもんだから、オレは黙って頷くしかなかった。
……それからかな。オレが苗字さんのことを特別目で追ってしまうようになったのは。
なんかこう、ほっとけねェ…んだよな。年上の女、しかもマネージャーに向かってこんなこと口聞くのも失礼だし、誰にも言ったことねーんだが。
だけど結局、どうして苗字さんがオレの前だとミスばかりするのかは分かってない。嫌われてるワケじゃないらしいし、とするとこの身体のせいだろうか。191cm、敵校のロードレーサーですらビビるんだ、あんなか弱い女にとっちゃ恐怖以外の何者でもないだろう。だとすると、それはどうしようもねェ。苗字さんの前だけ縮むこともできねーし。
……しょうがない、苗字さんのために、オレの方から苗字さんを避けることにすっか。
そう考えて、オレができうる限り全力で苗字さんのことを避けはじめて数日経った時、その事件は起こった。
*
規定の練習時間が終わって、さらに自主練も終えて、オレが部室の方に戻ってくると、入口の前に苗字さんが立っていた。
それがまさに仁王立ちっつーか、ここは鼠一匹足りとも通さん! みたいな物々しいオーラすら伝わってくるもんだから、何事かと思った。
「──あっ! 銅橋くん発見!!」
そしてオレはあっさり見つかってしまった。
何も悪いことしてねぇのに、なんだか自主をする犯人みたいな気持ちになりながら近づいていく。
「銅橋くん……まずは練習お疲れ様」
「っす。(……まずは?)……苗字さん、こんなとこで何やってんだ?」
「何をやってると思う?」
「いや……それはちょっとわかんねェけど…」
正直に答えると、苗字さんは「ふーん…」と呟いて、拗ねたように顔を逸らした。
「え? あの……苗字さん?」
「銅橋くんを待ってたんだよ」
「……え?」
「だから! 銅橋くんを待ってたの!」
そう言って、苗字さんはオレに大きく一歩近付いて、
「なんで! 最近私のこと避けてるの!?」
オレを見上げてそう言った。
そして、ギクリと固まってしまったオレに、彼女はその形の良い眉を吊り上げて、まくし立てる。
「洗濯物やドリンク取りに来るのも人づてだし、いつのまに記録は泉田くんにまわすことになってるし、体調管理表なんて持ってきてもないじゃない!」
「あ……! い、いやすまねェ、体調管理表は朝出すの忘れて、今から出しに行こうと……」
「……それだって、私に会わないために時間ずらしたんでしょ?」
苗字さんの綺麗な顔が、くしゃっと歪んでしまう。
「銅橋くん、私のこと……嫌いになっちゃったの?」
「!!」
その表情を見て、心臓がギュッと掴まれたみてェに痛くなった。この人にこんな悲しそうな顔させちゃダメだと思って、「違ェんだ、そんなワケねーだろ!」と勢いよく否定する。弾みで肩を掴んでしまいそうになって、すんでのところで堪えた。(オレがそんなことしたらこの人折れる!)
「え……ち、違うの?」
「たりめーだろ、苗字さんを嫌ってるヤツなんてこの部にいねーよ」
「…………じゃあ、なんで避けてたの?」
「そ、それは……」
「銅橋くん、何でも言って。私に気を遣わなくていい。何か理由があるんでしょ?」
困ってることがあるなら力になりたいの。
そう言って、彼女はオレをまっすぐに見つめた。辺りは薄暗かったが、部室から漏れる光が差し込んだその瞳はキラキラしてて、綺麗で、この目の前では何も嘘をつけねェと感じた。
「……わかった。話すよ」
……なんつうか、名奉行の前で申し開きをする武士になった気持ちだ。
オレはひとつ深呼吸をして覚悟を決めると、切り出した。
「その……苗字さんって、部員から、完璧だとか女神だとか散々言われてっけどよ……オレの前だと結構、抜けてるとこ、あるだろ」
「……え……」
「や、まず勝手にセンパイのことを女神だとかって馬鹿みてェに持て囃す方がオレはどうかと思うけどよ……」
「…………」
「前にオレのこと嫌ってるワケじゃねェって言ってたけど、やっぱりオレの前ではミスばっかしてっから……なんか悪影響を与えてんだと思って、だからオレがそばにいねェ方がいいなって思って………避けてた」
そう、全てを白状すると。
苗字さんは、ぱちぱちと目を瞬かせて、泉田さんにも負けないフサフサの睫毛を震わせてオレを呆然と見つめたあと、
「わ………わたし………!」
片手で口元を覆って、一歩退いた。
明らかに、ただならぬショックを受けている様子だったので、オレは慌てて口を開く。
「す、すまねェ!! 違うんだ、別に責めてるとか文句つけてる訳じゃなくて、その、」
むしろ苗字さんのそういう一面を見て、なんだか守ってやりたくなるだとか、ほっとけねぇな……とか、そういうむず痒いことを考えちまってるんだが、そんなこと口が裂けても言えねぇし。
オレが言葉を必死に探していると、苗字さんがぽつりと呟いた。
「私……マネージャー失格だね」
「! そんなこと」
「だって……恋にうつつを抜かして、仕事ができなくなるなんて……」
「………え?」
ふう、と一度息をついて、彼女はオレを見上げた。
「………銅橋くんあのね、私が銅橋くんの前でミスばっかりしちゃうのは……銅橋くんの前だと、緊張しちゃうからなの」
「緊張………」
……ってことはやっぱり、オレが知らず知らずのうちに威圧しちまってんのか。
そう思ったその時、オレの沈んだ表情を見てか、「違う! 違うの! そういう緊張じゃなくて!」と彼女が首を横に振った。
「い、良い意味で! 良い意味で緊張しちゃうの……! 銅橋くん見てると、そのっ、ドキドキするの! ど、ドキドキだけじゃなくてキュンキュン、いやいっそのことギュンギュンしちゃうの!」
「ぎゅ……ギュンギュン……?」
全ッ然わかんねェ。
「そう、だからつまり……乙女心なの……!!」
「おとめごころ……」
「つまりはなんていうか私、銅橋くんのことがす…………………」
「………?」
苗字さんはそこで固まって、スー、ハー、と何度か深呼吸をしてから、一大決心をしたみたいにぐっと拳を握ってオレを見上げて、
「……………………………。」
「……………」
「……………」
「……………」
「──いやなんだよッ!?」
結局言わねェのかよ!
ずっこけそうになった時、苗字さんが何か呟いた。
「……………なの」
「……え?」
「キ、………なの」
「…………」
き……なの?
キナノ?
…………地名か? 食いもんの名前か?
いや、「樹なの」か? オレが……樹なのか? やべぇ全然わかんねェ、これが噂の『JK語』ってヤツなのか!?
オレが無い頭を絞り出して必死に考えていると、苗字さんは「言っちゃった……言っちゃった……」とぷるぷる震えて、そのまま一歩、二歩と後ずさって、
「言っちゃったあああああああ!!!」
……そう叫んで、オレから脱兎のごとく逃げ出した。
「!?」
マジで何事だよ!?
一体どうしちゃったんだよ苗字さんは!
と焦りつつも、オレは即座に逃げる彼女のことを追いかけて、
「──苗字さんッ!」
あっさりと追い越したので、先を塞ぐように立ち塞がると、「うひゃあっ!」と声を上げて、彼女はそのまま座り込んでしまった。
「……だ、大丈夫か?」
声をかけると、彼女は息を荒げながらオレを恨めしそうな目つきで見上げる。
「はや……速いよっ!」
「はぁ……」
「速いし早いよタイミングが! ッハァ、なんでそんな、ノータイムで追ってくるの……!? こう、追ってくるにしても普通もうちょっとためるでしょうよ、ハァ、普通そういうもんでしょ、」
そんな『普通』16年間生きてきて聞いたことねーんだが…。
まァオレが知らないだけか。
「いや……わりィ。なんつうか、逃げられると捕まえたくなっちまう性分なんだよな……」
「なに、それ……ハァ、」
これほど追いかけがいが無い獲物は初めてだが。
……いやいやこんな可憐な人のこと『獲物』とか言っちゃいけねェな。
「……で、返事は……?」
「え?」
「……え? って……さっきの、返事が、決まったから追いかけてきたんでしょ?」
さっきの返事……って。
『キナノ』のことか?
「苗字さん、すげェいいにくいんだが……」
「!! い、いいよ別に、ひと思いにはっきり言って……!」
「さっき、オレに何を伝えたかったんだ?」
と、そのタイミングでサァ……と風が吹いて、一瞬後「えぇぇーーーーーっ!?!?!?」という彼女の叫び声が辺りに響き渡った。
練習中でも聞いたことねェ絶叫で、近くからパタパタと鳥が飛び去っていく音が聞こえた。
「──こ、ここ告白したじゃん私!! その返事だよ!?」
「告白……って、オレを見るとギュンギュンするってやつか?」
「いやっ、まぁそれもそうだけどそのあと! 言ったじゃん私!」
「あぁ……『キナノ』か? ちょっとよくオレには意味がわからないんだが」
「嘘でしょ!?!? そんな……そんなのってある!? 私の一世一代の告白が、そんな……夢小説の逆ハーヒロインか! 鈍すぎて天然通り越して難聴なヤツか!」
なんだそのツッコミ。
めちゃくちゃオーバーに嘆いているが、オレには縁の無い世界の例えすぎてそれすら分からねェ。ここまで分からないと本気で申し訳なくなってくる。(つーかさすが黒田さんと幼馴染だな……ツッコミの質が同じだ……。)
「……す、すまねぇ……」
「うっ……もういいよ別に……もういいや今日は……」
「なァ、蒸し返すようで悪いんだが、オレは苗字さんを避ける必要はないんだな?」
念の為に確認すると、彼女は弾かれたように顔を上げて、「うんっ、避けないで! 絶対避けちゃだめ!」と大きく頷いた。
「私も、なるべく銅橋くんの前だと平常心でいるようにするから……! もう失敗しないように頑張るから!」
「いや……苗字さんは普段から全力で頑張ってるんだし、そのまんまでいいだろ」
「! 銅橋くん……」
「オレの前だけで失敗するってのも、別に迷惑だなんて感じたこと一回もねーし、苗字さんになら迷惑かけられたって全然………」
と、そこでオレはあることに思い当たった。
──そうか。苗字さんのこんな一面、オレしか知らねェのか。
こんな風に顔真っ赤にしてテンパってる苗字さんも、困った顔ですがりついてくる苗字さんも、あたふたしながら謝ってくる苗字さんも、オレしか……。
そう思った時、唐突に「このまま苗字さんをどっか遠くに攫っちまいたい」というよく分かんねェ衝動が、オレの全身を電撃みたいに駆け巡った。
「? 銅橋くん…? どうしたの?」
「──っ! い、いや、なんでもねェよ!」
きょとんとした表情で下から見上げられて、何故かドキッとして、オレは咄嗟に顔を背ける。
ヤベェ、んだ今の……!!
攫っちまいたいとか……オレはおとぎ話に出てくる野獣かよ。先輩マネになんつーこと考えてんだ。
「つ、つうか苗字さん、大丈夫か? 立てるか?」
「え? ……あれ、うそ、」
……苗字さんはすっかり腰が抜けてしまったらしく、生まれたてのバンビみてェになっている。
まぁこんな折れそうな足してんだもんな、無理もない気がした。
「──へ? ちょっ、ど、銅橋くんっ!?」
だから、オレが運んでやることにした。
具体的に言うと、へなへなと尻餅をついてる苗字さんの横にしゃがみ、膝の裏に手を回して持ち上げた。
「軽っ!」
軽すぎてドン引きなんだが。
初めて泉田さんの『死の大胸筋スクワット』を見た時よりも衝撃がでかい。この人普段何食って生きてんだよ…。霞か?
「──どどとどどうばしくんっ! ちょっと!」
「うおっ、なんだよ」
「これっ、このっ、この体勢……この体勢はヤバイよ……!!」
「? ンだよ、なら違う抱え方にするか?」
さすがに米俵みたいに担ぐのはどうかと思ってこうしたんだが。
オレの問いに、「いや! 変えなくていいけどむしろ夢みたいだけど……いやでも……ああああ!」と苗字さんは顔を真っ赤にして呻いている。何が伝えたいんだか全然わかんねーし、とりあえずそのまま運ぶことにした。つうか苗字さんって、意外に愉快なキャラしてんな。
……そしてその後、オレの抱え方が『お姫様だっこ』というこっ恥ずかしい代物だったと発覚し、見つかった先輩たちから散々からかわれることになるのだが、それはまァいいとして。
先程感じた『攫ってしまいたい』という衝動が恋──それに伴う独占欲だと気が付いてオレが頭を抱えることになったのは、更にもうちょっと後の話だ。
【リクエスト:黒田くんの幼馴染で容姿端麗なマネージャーの夢主が密かに銅橋くんに想いを寄せるお話】
*
〜オマケ〜
「──ってことがあってさぁ! 私は言ってやったよね、『夢小説の逆ハーヒロインか! 鈍すぎて天然通り越して難聴なヤツか!』って」
「いや、それ……話聞いた限りどっちもどっちっつうか、7:3ぐらいの割合でお前が悪いぞ」
「ええ!?」
「しかもなんだよそのツッコミ。おめーはオレかよ! オレ気取ってツッコミ失敗してんじゃねーよ! 例えが難しくて伝わってねぇじゃねーか! そこは少女漫画とかで代用できるだろ! やるならもっとリスペクトしろ! オレを!」
「ほ、本家だ…………」
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