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東堂くんと敗北のヴィーナス


スポーツ観戦は、好きじゃなかった。

別に、スポーツ自体が嫌いってわけじゃないし、身体を動かすことも好きだし、勝負事が苦手だなんていう平和主義者でもない。

だったらなぜ好きじゃないか。
話は簡単だ──私が応援すると、絶対そっちが負けるから。だから行きたくないし、観たくないのだ。

小さい頃、年の離れた兄のサッカーの試合を、よく親と一緒に観に行った。幼い私は一生懸命に声を張り上げて応援した。でも、記憶の限り、私が行った試合は全部負けた。
母親のママさんバレーにもついていった。母が勝ったところ、見たことない。
家で日本代表のサッカーや野球の試合を応援していてもそう。私が見てるとからっきしダメなのに、観戦をやめてお風呂に入ったりすると、その間に逆転して勝っていたことなんて日常茶飯事。

こんなのもう、明らかに、なんかやばい力が働いてるって思ってもしょうがないでしょ。しかもたちの悪い事にこの妙な現象、私が絡む勝負事では起こらないのだ。兄貴からはお前は勝利の女神ならぬ敗北の女神だな、なんて嫌味を言われたことがあるけど、どっちかってーとただの疫病神じゃん。


──そういうわけなので、レースは見にいけません。それだけは無理です。


「そうか。苗字がオレのことをそんなに想ってくれているとは知らなかった!」
「待って今の話聞いてた?」

そんなこと一言も言ってないよね!? と、私の席の前に立ってこちらを見下ろす東堂に訴えかければ、ヤツはその余裕な笑顔を一切崩さず、「ああ、聞いていたとも!」と頷いた。

「つまりはオレに勝って欲しいから、本当は観に行きたくてしょうがないけど泣く泣く観にいけない、ということだろう?」
「都合よく解釈しすぎ! 別に特に興味もないわ!」
「ワッハッハ! 苗字は照れ屋だからな。ま、そういうことにしといてやるか」
「はぁ!? アンタね、」

思わず机から身を乗り出して反論しようとした時、東堂は人差し指を一本立てて、私の唇の前にかざした。

「──だが、約束はきちんと守ってもらわねばならんよ。今回の学力調査の総合得点で負けた方が、勝った方の言う事を何でも一つきく。そういうルールでお互い納得していたはずだ」

冷静な瞳に見下ろされて、むぐ、と言葉に詰まる。とりあえず人差し指を跳ね除けて、私は頬杖をついてそっぽを向く。

東堂が今言ったことは実際その通りだった。私と東堂は2年の頃から成績が似たり寄ったりで、総合得点で勝負をすることもこれが初めてじゃない。賭けるものや罰ゲームはその度に違うけど。
だから、3年に上がってすぐに行われた学力調査でも、勝負することになったのは自然な流れだった。勝った方の言うことを何でもきく、って罰ゲームは初めてだったけど。でも、それを飲んだ程度には、今回のテストは割と自信があった。

くっそ〜、まさかここで負けるとは……!

「でも……私が観戦したら東堂負けるよ? いいの?」
「オレが負けるのはオレの実力が及ばなかった時だけだ。お前が来ても来なくても勝敗にはこれっぽっちも影響ない。ま、オレのテンションは大幅に上がるがな!」
「さては信じてないな? 自分で言うのもなんだけど、マジだからね、気のせいとかジンクスとかいうレベルじゃないぐらいマジで負けるの! 私にはそういう……そういう、呪いみたいなのがかかってるんだよ」
「フッ、くだらんな。呪いやら、敗北の女神やら、疫病神やら、それが一体なんだ。オレは山神だ! スリーピングビューティー東堂尽八だ!」
「いや……そこで指差されても……」

自分の言ってることがトンデモだという自覚はあるけど、東堂の言ってることも同じレベルでよく意味がわからない。

「ていうか、何でそんなに私に見せたいのさ、レース」
「敗者にそれを説明する義理はないな」
「……ねえ、お願い。私本当に観に行きたくないの。東堂が負けるかもしれないから、とかじゃなくて。純粋に観たくないの」
「なぜだ。さっき言ってたじゃないか、スポーツ自体が嫌いなわけじゃないと」
「……私、負け試合しか見たことがないんだよ。一生懸命応援して、勝って欲しいと神に祈って、点が入ったりすると叫ぶほど歓喜して、今回は勝てるかもって思って……でも、最終的には絶対負ける。その絶望や、悔しがる選手達の涙を見た時のやり切れなさ……そんなものを何回も味わいたいって思うほど私はマゾじゃない。最初から観ない方がまし」

そう。スポーツの勝敗なんて、後から人づてに聞いたり、翌朝のテレビで知るぐらいで十分だ。そのぐらいの距離感でいれば、もう、あんな思いをしなくて済む。

しょんぼり俯いていると、頭上から「……わかった」という優しい声が降ってきた。


「だったら、勝負は観に来なくていい」

「………」

「だから、オレを観に来い、苗字」

「……………は?」


思わず顔を上げた。


「応援も、オレの勝利を願うことすらしなくていい。お前はただ、オレの走りだけ見ていろ。それだけでいい」

「……………」

「なに、心配するな。退屈も後悔もさせんよ」


来い、そうすればオレがお前の世界を変えてやる。

──東堂は、どこまでも挑戦的な光を宿した瞳を私に向けながらそう言って、口角を不敵に吊り上げてみせた。





澄み切った青空に、5月の新緑はよく映えた。日差しは少々強いものの、爽やかな風が気持ちいい、絶好の山登り日和だ。

……が、私の心持ちはというと、全然爽やかじゃない。

(くそう、東堂のやつ、変な場所指定してきやがって〜〜……!)

疲れた。普通に、疲れた。帰宅部JKの体力のなさ舐めんなよマジで。全く、山登りなんて柄じゃないのだ。なのになんで箱根学園なんて山の中の学校に通ってるんだと言われそうだけど、私は寮暮らしだし、それはそれ。

ロードレース……じゃなくて、ヒルクライムレースだっけ? なんて見にきたことないけど、多分、一番いい観戦スポットって普通に考えてゴール付近だろう。そこならロープウェイでひとっ飛びだったのに、東堂から指定されたのは山中。
まぁでも私は東堂の走りを見に来たわけで、勝負はどうでもいいわけで。こんな中途半端なところを指定してきたのも、決着を見たくないという私の気持ちを配慮してのことだろう。

正直あんまり地図は得意じゃないんだけど、幸いなことに、今日は沿道にちらほらと観客がいたので、今自分がいる場所がわからなくなる度に、道を尋ねることができた。

「──お、これ、ちょうどここだよ。この赤く丸がついてるところ」
「! ほんとですか! ありがとうございます!」
「お嬢さん、ひょっとしてロードレース通? 観戦にここを選ぶなんて渋いね!」
「あ、いや、そーじゃなくて……このレースに出てる友人に、ここで見ろって指定されて。……あの、そんなに通な場所なんですか?」
「ああ。見晴らしがいいから遠くからやってくる選手もよく見えるし、U字カーブのおかげで選手の華麗なハンドルさばきやブレーキ技術もわかる、いい観戦スポットなんだ。レース自体も後半戦に差し掛かるところだし、選手達の熱い駆け引きが見られると思うよ!」
「へ、へえ〜……」

お隣の、ロードレース通のお兄さん二人組に、観戦用の椅子を貸してもらったり色々と親切にして頂きながら、私は東堂をじっと待つ。もう試合は始まってるらしい。

「学生の部は……また箱根学園の東堂が獲るかな」
「あぁ。今回は総北高校の巻島がいないからな」

「!」
東堂の名前が出てきて、自然と聞き耳を立ててしまう。

「だけど、長野中央工業の館林もいるぞ」
「静岡富士川も出てるのか。だったらまあ──東堂が獲る確率は80パーセントてとこかな?」

……ええっ、それでも8割超えるの!?

「──あ、あのっ。東堂尽八選手って、そんなに強いんですか?」

意を決してそう尋ねてみる。
と、お兄さんたちは目をくわって開いて、「お嬢さん、東堂尽八のこと知らないの?」と揃って食いついてきた。
勢いに飲まれ、は、はい、と頷けば、彼らは「そりゃそうか、今日が初めて観戦なんだから」「じゃあお嬢さん、東堂だけは覚えて帰ったほうがいいよ。あいつはスター選手の素質があるからな!」と、何故か上機嫌そうに、ぺらぺらと説明してくれた。

「東堂は強いよ。2年の頃から巻島と並んでヒルクライムレースで優勝しまくってたからな」
「そしてついたあだ名は山神!」
「森の忍者っつうのもあるな。独特の走りをすんだよあいつ」
「しかもルックスがいいんだよなー! ファンクラブまであるって聞いたぜ」
「実力も間違いない。高校生の中じゃ東堂に勝てるのなんて巻島ぐらいだよ」
「(か、語るなぁ〜…)へえ、 そうなんですか……」
「とにかく、あいつの走りを見ればわかるよ。もうじきトップでここ通過してくだろうからさ」
「あ、はい、教えて頂いてありがとうございます。わかりました!」

……すごいなぁ、なんとなく強いってことしか知らなかったけど、東堂ってこんな一般人(…だよね?)にも周知されてるほどの実力者なんだ……。
なら、勝ってくれるかも……よく知らないけど、巻島? って人も出てないらしいし……。

──と、そんな風にほんのちょっと、心に希望の色が滲んだ時だった。


「なに!? 先頭集団で落車多数!?」


突然お兄さんが立ち上がると、電話口に向かってそう叫ぶ。落車……多数? 呆気にとられて見ていると、電話を切ったお兄さんが、隣のお兄さんに「──から連絡が入った、先頭で落車があって何人か巻き込まれたようだ」と話している。「東堂も巻き込まれたらしい」……えっ!?

「ちょ、ちょっと待ってください!」

その一言には、反応せずにはいられなかった。

「落車……って……なんですか……!?」

私の思っているそれと全然違ってくれますように、と震える声でそう尋ねると。お兄さんは深刻そうな面持ちで、すがるように見上げる私を、奈落の底へ突き落とした。


「落車は……転倒、だ。ロードレースじゃ特に珍しくもない。大方、飛び出しが失敗して一人が落車したのに周りが巻き込まれたんだろう」

「…………」


あぁ───やっぱり、来るんじゃなかった。

私のせいだ、私が見にきたから……東堂、転んじゃったんだ。勝ってほしいと思っちゃったから……私の呪いが発動しちゃって、そんなアクシデントが起きたんだ。


「先頭、見えて来たぞ!」


お兄さんが指を差して叫ぶ。人影が一つ、それのちょっと後に二つ、小さかったけどはっきりと確認できた──その人達が、箱根学園のジャージを着てないってことが。

(ごめん……ごめん、東堂……ごめん……!)

目の前が真っ暗になったような絶望に、私は両手で顔を覆ってうなだれた。申し訳ない気持ちで、胸が引きちぎられそうで。

じわりと、目に涙が滲んだその時だ。


「いや、待て!!すごい勢いで後ろから誰か一人追って来たぞ!」
「あれは──東堂だ! 箱根学園の東堂だ!!」


………え?


「なんだあの加速は……!? みるみるうちに差が縮まってくぞ!!」


お兄さんの声を聞いて、私が顔を上げた、その刹那。


一陣の風が吹いた。


私の絶望と後悔をさらっていくような、清々しい風が。


そしてその風が代わりに運んで来たのは、自転車の車輪の音と、血が沸き立つようなレースの熱気と、必死になって走る選手達の荒れた息遣いと、


───それら全てを置き去りにして、一人だけ別次元のように音も無くすり抜けていく、厳かで、冷淡で、この世のものじゃないような美しい見目をした、まさに神の息吹、いや死神の鎌。


「とう、ど……」


その一瞬、私は彼と目が合った。

いつの間にか立ち上がって、瞬きも忘れて、ただ呆然と見守ることしかできない、歴史が生まれる瞬間の証人と化した私をちらりと見やって、微かにだけど、あいつは笑ったのだ。


その笑顔を見て──私は。


「……すげぇ、なんだ今の! なんつう加速だよ!」
「あれが東堂のスリーピングクライム! あいつの登りは動きに全くロスがない! 信じられないほどスムーズで静かなんだ!」
「だから後ろの敵は気づかない! 気付いた時はもう──ヤツは遥か彼方だ!」

……興奮した様子のお兄さん達が、明らかに私に向けてじゃない解説を、なんかいきなり始めたけど。
私はそのまま椅子を畳んで、お兄さん達に「これ、ありがとうございました」と渡す。

「え? まだ選手が来るのはこれからだよ? 応援、いいの?」
「はい。大丈夫です」

もう、わかってしまった。
諦めに似た願望も、泣きそうなほどの祈りも、私が応援をするたびに経てきたそれらの感情は、東堂には一切必要ないものなんだ。

東堂はきっと優勝するだろう。それはもう、私の中で確信になっていた。

さあ、ロープウェイに乗って頂上へ行こう!





私が東堂の優勝を知ったのは、ロープウェイに乗っている最中のことだった。この乗り物と東堂だったらどっちが速かったかな、東堂かな、なんて景色を観ながらぼんやりしていたら、一緒に乗っていたお姉さん二人組が「優勝、東堂くんだってー!」「あー、ゴール間に合わなかったかぁ〜」なんて盛り上がり始めたのだ。

とても不思議な感じだった。長年苦しめられていたジンクスが破られて、初めて応援していた選手が勝ったというのに、劇的な喜びはそこになかったのだ。もちろん嬉しくて、誇らしくて、そこがロープウェイの中じゃなかったらガッツポーズの一つはしてただろうけど。でも、なんだろう、想像していたよりずっと胸中は穏やかで。

……いや、違う、穏やかなんじゃない、そうじゃなくて……。私、さっきの東堂の走りに……心を奪われちゃったんだ。



ロープウェイ乗り場まで迷ってしまったロスがあったので、頂上についたときには、もう表彰式まで終わってしまっていた。太陽も少し落ちて、空の向こうが少しずつオレンジ色に染まり始めている。
人がまばらになってきた特設会場をうろつきながら、とりあえず連絡を取ろうと電話を取り出した時、私は視界の端にある自動販売機のところで、彼を見つけた。


「──今日の主役を差し置いて、随分のんびりとしたご登場だな。お前はVIP待遇のお偉いさんか何かなのか?」


開口一番呆れ顔でそんなことを言われて、「ごめん、ちょっと迷っちゃってさ」と苦笑する。
パッと見た感じ、東堂は元気そうだった。それでも一応、「転倒、大丈夫だった? 怪我とかしてない?」と聞けば、「問題ないな、オレのボディーはいつだってパーフェクトだ」とずれた答えが返ってきて、こりゃ本格的に元気だなと安堵する。

「それより、何か先に言うことがあるんじゃないか?」
「ああ……優勝おめでとう。すごかったよ、東堂の走り」
「ワッハッハ、そーだろうそーだろう!」

東堂は鼻高々に笑うと、「そうだ、少し待ってろ」と言って、自販機の傍らに設置されたベンチの上に置いてあった可愛らしい花束を取ってきて、

「これは、お前にやる」

──と、無造作にそれを私に渡した。

「これ、どうしたの?」
「表彰式で貰ったものだ。この花束を苗字に渡すことは、お前をこのレースに呼んだ時から決めていた」
「え……?」

それってどういう、と目をぱちくりとさせる私に、東堂はふっと優しく微笑んだ。

「おめでとう。これで証明できたな、お前は敗北の女神でも疫病神でもなかった」
「……! いや、でも、落車があったし……」
「ロードレースに落車はつきものだ。お前はなにも関係ないし、大体、それでもオレが勝ったじゃないか」
「そうだけど……」

どこか釈然としない気分で花束に目を落としていると、「……苗字、今日のオレの走りを見てどうだった? 何を思った?」と東堂が聞いてきた。

「なに急に……。そりゃ、……すごいな、速いなぁって、思ったけど……」
「惚れてくれたか?」
「は、はぁ!? 冗談───」

キツいよ、と言おうとして。
顔を上げた私は、ハッと息を飲んだ。


「オレは本気だ。そのために、今日ここに呼んだのだからな」


東堂の瞳はどこまでも真剣で。そこには、射抜かれてしまいそうなほどまっすぐな光が宿っていたのだ。

──と、その瞬間、私は唐突に思い出した。

私の、あの例の呪い。あれは「私が絡む勝負事」では発動しないってことを。


(……そうか、これは、最初から私と東堂の勝負だったんだ……だから、発動しなかったんだ……)


「苗字。そろそろ諦めて、オレのものになってくれ」


お前のことが、好きだ。

一歩私に大きく近づいて、そう、東堂は静かに告げる。告白なんだから、もう少しビビったり恥ずかしそうにしろよってちょっとムカついてしまうぐらい、勝利を確信しきった堂々した声音で。こっちはその一言で、身体の芯が熱くなって、息も苦しいほどなのに、マジで、悔しいったらありゃしない。

たぶん、私はずっとこんな調子で、このままこの男に一生負け続けるのだろう。


「いいよ。もう……好きなようにしてよ」


でも、もうそれで構わない。
私にかかった呪いが解けたか解けてないかは結局わからないけど、この男のかけた甘い魔法に溺れている限り、私はずっと夢を見続けることができるのだから。

あとは私がその二文字を言えれば、おまじないは完成だ。みんなを不幸にしてきた過去を、敗北に慣れきってしまった澱んだ心を、全て上書きするおまじないが。


「私も、東堂のことが、」


さあ、暴れる心臓を宥めて、大きく息を吸って、3、2、1───。



【リクエスト:東堂くんのことを少々鬱陶しがっている同じクラスの夢主が、誘われて見に行ったレースで東堂くんの自転車マジックにかかり恋に落ち、最終的に二人が両思いになるお話】

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