新開さんと天使なご主人様
つい数ヶ月前まで毎日足を運んでいた馴染みのある場所だというのに、制服を着ていないだけで随分と居心地が悪く感じられるのだから、学校という空間は不思議だ。まるで自分が異物になってしまったような気分だった。
入学式、オリエンテーリング、入部に新歓、講義にバイト探し。初めてだらけの4月は目まぐるしく過ぎていき、今は5月。GWを迎え、ようやく一息つける連休にありつけたオレは、実家に帰る前に、母校・箱根学園へと足を運んでいた。遠回りもいいとこだったが、どうしてもここに寄りたい理由があったんだ。
「──あ、新開さーん!」
「よう、名前ちゃん」
「すみません、ちょっと寝坊しちゃって……お待たせしちゃいましたね」
「いや、こっちこそわざわざ休み中にすまないな」
「そんな、全然ですよ!」
久しぶりにお会いできて嬉しいです、と名前ちゃんはオレを見上げてはにかむ。その拍子に、高い位置でくくられたポニーテールが揺れる。
「……ああ、オレもだよ」
素朴でまっさらな笑顔は、純粋に、染みた。良くも悪くも都会の空気に慣れつつあった身体には、少々効き過ぎる消毒液だった。抱きしめたら太陽の香りがするんだろう、そんなことがぼんやり浮かんだ。
「じゃあ、早速行きましょうか」
「ああ」
並んで歩き出す。5月の新緑の爽やかな風を受けながら、今この瞬間、オレも彼女と同じ制服を着ていたらどんなによかっただろうと思った。
*
苗字名前ちゃんはオレの3つ下の女の子で、今悠人と同級生の高校一年生だ。なんでそんな年下の女の子と面識があるかというと、彼女が地元の動物病院の一人娘さんだから、だった。
数年前、オレがうさぎをひき殺してしまったあの日。母親を埋葬し終わったあと、オレは子うさぎを抱えて地元の動物病院に向かった。見た目は元気そうだったけど、何かあるといけないし、飼うにあたって色々調べてもらうこともあるだろう。ただ、予約をしている精神的な余裕はなく、オレは病院で長い時間待たされることになった。その時、オレは彼女に出会ったんだ。
当時名前ちゃんはまだ中学生だったけど、もうその頃から彼女は獣医を志し、頻繁に病院に顔を出していた。来院する動物一匹一匹と真摯に向き合い、その飼い主と積極的にコミュニケーションを図り、大学で専門的な知識を身に付ける前に、まず医師としての対人的な素養を培おうとしていたらしい。本当に立派だと思う。
見るからに憔悴していたのだろう、名前ちゃんは子うさぎよりまず先にオレのことを心配して、話しかけてきてくれた。オレはそんな彼女の優しさに甘えて、その日あった出来事を全て話した。懺悔、したかったんだ。会ったばかりの中学生の女の子にそんな重い話をぶちまけるなんて、今考えてみればありえない行動だ。でも彼女はオレの告解を黙って聞き入れて、そっと、オレの手を握ってくれたんだ。あの時の温もりと、注がれた慈愛に満ちた眼差しは、今でも鮮明に思い出せる。
その後、オレにうさぎの飼育方法を一から教えてくれたのも彼女だった。わざわざ箱根学園まで足を運んでくれて、ウサ吉の飼育小屋を作ることにも協力してくれた。そんな中で、オレ達は自然と親しくなっていき、いつかのレースでは父親の院長先生と共に見にきてくれたこともあった。
オレはあの日、彼女に心を救われた。その後も、彼女の優しさや明るさや素直な言葉に、何度も何度も元気をもらった。
──彼女のことが好きなんだ、と気が付いた時にはもう、手が付けられないほどその気持ちは膨れ上がってた。
*
「ウサ吉ー、ご主人様が来ましたよー」
「はは、もうオレのことなんて忘れてんじゃねェかな」
「そんなことないですよ!」
飼育小屋の前にしゃがみこんで中を覗き込めば、赤いつぶらな瞳がオレを見つめる。久しぶり、なんていってもたかだか1ヶ月とそこらだったのに、その姿や小屋の匂いがなんだかとても懐かしい。
「元気そうだな」
「ええ、とっても元気ですよ。ほら、ウサ吉、おいで」
小屋の鍵を開けると、彼女は手慣れた動きでウサ吉を抱え、オレの元へと連れてくる。「ほうら、新開さんですよ〜」と話しかける姿は、手の中のウサギと合間ってとても可愛らしい。
名前ちゃんからウサ吉を受け渡してもらい、抱っこする。久しぶりに感じる、小さないのちの重さと温もりに、心が癒されていくのを感じた。
「………本当に、名前ちゃんがウサ吉の世話を引き継いでくれて助かったよ」
「あはは、ちょうど入れ替わりでしたからね〜」
あと3年間は安泰ですね、とウサギの頭を撫でながら彼女が言う。
「でも、やっぱり新開さんに会えなくなって寂しかったと思いますよ、ウサ吉。その証拠に今日すっごく喜んでます」
「そうか?」
「なんとなくわかりますよ。わざわざ遠いところから会いに来てくれるなんて、ウサ吉は愛されてるね」
会いたかったのはウサ吉だけじゃなくて、おめさんもだよ、なんて言葉は当然飲み込んだ。
その後ウサ吉を飼育小屋に戻し、小屋越しに餌をやりながら、彼女と他愛もない話をした。担任の話、クラスの話、高校生活の話。
「あ、そういえば新開さんに制服の感想聞くの忘れてた! どうですか、箱根学園の制服。似合ってますか?」
そう言って、彼女は立ち上がるとその場でくるりと一回転してみせた。膝丈のプリーツスカートがふわりと控えめに舞い上がる。思わず、目を細めた。
「……よく似合ってるよ。似合いすぎて、なんだか眩しいな」
「なんですかそれ。ちょっとおじさんくさいですよ」
「もうオレも名前ちゃんから見たら薄汚れた大人の世界の住人だからな」
「大げさだなー」
クスクスと笑って再びオレの隣にしゃがんだ彼女は、「……あの、私も聞きたいんですけど」と言いづらそうに少し身じろぎをすると、「どうですか? 大学生活は」とおずおずと聞いてきた。
「ん? そうだな……まだ入って一ヶ月だからな、始まったばかりで特に面白い話はないよ」
「とか言って、大学生の綺麗なお姉さんたちと合コンしたり、連絡先交換とかいっぱいして、パリピな感じで過ごしてるんでしょ」
「なんだそりゃ」
思わず吹き出してしまったオレに、彼女は「だ、だって大学ってそういうイメージありますし…!」と顔を赤くしながら言い繕う。また極端なイメージだな。でも確かにオレも高校の時そんなふうに思ってたかもしれない。
「確かに華やかな場所ではあるし、女の子も華やかな子達が多いけど、残念ながらパリピとは程遠い生活を送ってるよ」
「えー嘘だ! 新開さんみたいなイケメン、女子がほっとくとは思えません」
「はは、そう思ってくれるのはありがたいけど、本当だよ。それにオレ、彼女とか作る気ないしね」
「えっ!? そうなんですか?」
「うん」
好きな人がいるからな。……隣に。
「まあ、相変わらず自転車が恋人って感じになりそうだな」
「ふーん……」
「それより、名前ちゃんはどうなんだ? 男子に誰かいいやつでもいたか?」
そう尋ねると、彼女はなぜか拗ねたように口を尖らせて、「いませんよ、そんなの」とぶっきらぼうに言い捨てた。
「ていうかそういうの興味ないですし、私」
「なんだよ、素っ気無いな。名前ちゃんなら選び放題だろうに」
「どういうイメージなんですか私……。とにかく私、この3年間は勉強に捧げるつもりなんで。獣医学部に入らなくちゃだし、遊んでられませんよ」
「ヒュウ、固いな。貴重な高校生活なんだし、勉強の邪魔にならない程度に好きなヤツ作って、青春するぐらい許されるだろ」
本心からの言葉だった。
どうせ、この想いを彼女に伝えることはない。伝えたところで困らせてしまうことが目に見えてたから。だったら彼女に想い人ができて、そいつと幸せになってくれる方が、すっぱり諦められていい。
と、餌のにんじんをウサ吉にやりながら更に言葉を続けようとした時、オレはようやく隣の彼女の様子がおかしいことに気が付いた。
「なんで、そんなこと言うんですか」
ハッと隣を見ると、地面に目を落としたその表情が、今にも泣きそうに歪んでいる。
そして、意を決したようにぐっと顔を上げた彼女が、オレを見つめて、こわごわと口を開いた。
「さっきの、嘘です。私、好きな人、もういるんです」
「え………」
「その人、3つも年上で。これまでもそんなに接点がなかったけど、今年の春からとうとう遠距離になっちゃって、でも、一方的な片思いでしかないことなんて分かってたから、告白もできなくて……」
「………」
どんなに鈍いやつでも、さすがにここまで言われてしまっては察するだろう。
彼女の小さい唇は震えている。今、どれだけ勇気を振り絞って言葉を紡いでいるのだろうと思うと、心臓がぎゅっと痛くなった。
「だから諦めようとしたけど、諦められなくて……私……」
「名前ちゃん……」
「──っ、ご、ごめんなさい! わ、私こんなこと言うつもりじゃなかったのに……! すいません、今の忘れてくださいっ!」
急にそう叫んだ彼女は、慌てて立ち上がると「わ、私なんか飲み物買ってきますね!」とえらい勢いでその場を走り去ってしまった。
「………」
あまりにも突然の出来事で。引き止めることもできず、オレは小さくなる彼女の背中を呆然と見送る。
そしてとうとうその姿が見えなくなってから、その場で大きく息をついて、両手で顔を覆った。
「ウサ吉……オレ、どうすればいいと思う……?」
答えなんて返ってくるわけがない。
……正直に言えば。
これまでの彼女の、オレを見つめる視線に、そういう感情を少しも感じ取れなかったのかといえば、嘘になる。
でも、中学生の女の子だ。年上の高校生に対し、無条件にそういう憧れを抱く年頃だろう。オレが彼女に抱いている、ひどく重くて生々しい欲求が纏わり付いたそれとは全く別物だ。
だから、もし、もしそういう告白をされても、彼女のこれからを想うなら、断ってあげたほうがいい。
……そう、思ってたのに。
「ダメだ、オレ……やっぱり、諦めらんねぇ……」
いざ想いを告げられてみれば、そんな過去の決意なんてもはや無いに等しかった。
一度封を切られてしまえば、蓋を開けられてしまえば、もう溢れ出したその気持ちを止めることなんてできない。突き動かされるように立ち上がって、覚悟を決めた。
「ウサ吉、ちょっといってくるよ」
声をかけると、もそもそと餌を食べていたウサギの耳がピクリと動く。いってらっしゃいと言ってくれたのだと都合よく解釈して、オレは走り出した。
*
GW中とはいえど、部活動はある。時折すれ違う生徒達が、私服姿のオレにもの珍しそうな視線を向けてくるけど、そんなこと気にしてられなかった。心が急いて、空回りしそうな身体をなんとか制御して、オレは慣れ親しんだ母校を探し回る。自転車じゃ色んなヤツを追いかけてきたけど、好きな女の子を追いかけるなんてのは初めてで、なんだかむず痒い感じだった。
そして、数分後。ウサギ小屋から一番離れた、新校舎と旧校舎を繋ぐ渡り廊下の途中に設置された自動販売機の横のベンチで、ようやくオレはその人影を発見した。
「──見つけた、名前ちゃん」
「! あ……」
「探したよ。また随分と遠いところまで買いにきたね」
息を整えながら近づいて、そう声をかけると。彼女の瞳が戸惑ったように揺れて、伏せてしまう。
「あの、私……」
「名前ちゃん、ごめんな」
「!! いえっ、いいんです、私こそ」
「オレから告白するべきだったのに、先に言わせちまって」
一瞬の間。
その後、彼女がゆっくりと顔を上げる。言葉の意味は理解したけど飲み込めてない、そんな無防備な表情を曝す彼女が愛おしくて、自然と口元が綻んだ。
「好きだ。もう、何年も前から、名前ちゃんのことが好きだ」
────走りながら、ずっと考えていた。
果たしてこの恋は、許されるのだろうか。高校1年生の女の子に対し、それを告げるのは世間的に許されないんじゃないか。オレは、いつかオレの心を救って赦しを与えてくれた天使を、オレと同じところにまで堕としてしまうんじゃないか。いつか、オレ自身が彼女を決定的に傷つけてしまう日が来るんじゃないか。オレの存在が、彼女の道を阻むことになる日が来るんじゃないか。
だけど、一歩、また一歩と足を踏み出すたびに、それら全てを凌駕するほどの大きな感情が漲って、手足を縛り付けようとしていた鎖は引き千切られた。
「もし、名前ちゃんがオレと同じ気持ちなら……オレと、付き合ってほしい」
ずるい言い方だ、と思った。
同じ気持ちであったところで、重さが全然違うだろうに。
だけど、そう告げた瞬間から彼女の頬がみるみると色付いてゆき、
「はい……! はい、喜んで! ゆ、ゆめみたいです…っ!」
──やがて大輪の花のような笑顔がそこに咲いた時、オレはもう、どんな罪人でもいいと思った。
誰に指を差されようが、非難されようが、もういい。この笑顔をオレだけのものにするためなら、守るためなら、喜んで泥を被ろうと思った。
「! 新開さ、──っ!」
そして気がつけば───いや、わざわざ立たせておいて、『気が付けば』なんて白々しいか。
オレは彼女のことを思い切り抱きしめていた。
腕の中で身体を硬直させる彼女がいじらしくて、行き場を無くした愛しさが胸を苦しいほど締め付ける。抱きしめる力は、華奢な彼女からしたら少々強いかもしれない。辺りに誰もいないことを確認する程度の理性が残っていたことだけが、救いだった。
思う存分その温もりを感じてからそっと身体を離すと、オレは一度息を吐いて、口を開く。
「──名前ちゃん。オレのことが怖くなったら、いつでも逃げていいから」
そう告げると、顔を真っ赤に染めた彼女が、「どういうことですか?」と不思議そうに目を瞬かせる。
この期に及んで今だに予防線を張るのは、きっと男として情けないことだろう。でも、それだけ、彼女のことが大事だったんだ。
「これから先、オレは多分……たくさん、キミのことを傷つけてしまうと思うから。そうならないように頑張るけど、もしも嫌だと思ったら、怖くなったら、いつでもオレを──」
「大丈夫です」
遮ったその声には、聞き覚えがあった。
落としていた視線を上げると、目が合った。彼女は穏やかに微笑んでいた。そう、あの、オレが一つの命を奪ってしまったあの日と同じような、慈愛に満ちた眼差しで。
「大丈夫ですよ」
(──大丈夫ですよ)
思い出の中の少女と、それより少し大人になった今の彼女が、ピタリと重なる。
「あなたが例えどんな獣でも、化け物でも、鬼であっても。私は恐れません。絶対に受け入れます。そうじゃなきゃお医者さんなんて勤まりませんから!」
(──あなたには、償う意思がある。ここに訪れたってことはそういうことです。そして私達は、そんなあなたを全力でお手伝いすることが仕事です!)
「…………」
「新開さん?」
「……あぁ、いや、ごめん……。オレはきっと、一生おめさんに敵わないんだろうなって思ったんだ」
「へ?」
「ありがとう、名前ちゃん。……ずっと、そのままでいてくれよ」
頭をくしゃりと撫で付けると、彼女は「さっきから意味深なことばっかり言って、ちっともわかりませんー…」と、オレの掌を持ち上げながら不満げに首を傾げる。その様子も愛らしくて、くすりと笑みが漏れる。
……ああ、わからないままでいいよ。
オレの首には首輪がついていて、その鎖を握ってるのがキミだなんてこと、知らないでいい。そのまま、無垢な天使のまま、一生オレを飼い慣らしてくれ。
可愛い可愛い、オレだけのご主人様。
【リクエスト:悠人くんの同級生で実家が動物病院の夢主に片想いする新開さん】
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