ノボリが結婚すると知ったとき、ぼくのこころは何も何も穏やかではなかった。
暗い自室の隅で、毛布を引っ被って泣いていた。ぼくのノボリ、ぼくだけのノボリ。
あの人が何処の誰とも知れぬ可愛い女の子のものになってしまうのかと思うと、悲しくて妬ましくて胸が弾け飛んでしまいそうだった。
ぼくはノボリが帰ってくるまで、ずっとその部屋の隅っこに挟まって泣いていた。
後から後から際限なく零れてくる涙を毛布で拭いながら、ぼくはこの声が枯れるまでずっと泣いていようと思った。
部屋を真っ暗にして、毛布に包まり、ノボリが作った食事にも手をつけず朝から晩まで泣いているぼくは、いったいどんなに酷い様に見えるだろう。
いっそこのまま死んでしまいそうなくらい悲壮な姿に見えるといい。そうすればきっとノボリはぼくを放ってはおけないだろう。
世界で一番大切にしなければならないのはあなたの片割れだってことに、もしかしたら気がついてくれるかもしれない。
そうなればいい。そうなればいいなぁ。
思惑通りいつまでも流れ続ける涙を見て、ぼくは少しだけ笑った。


ただいまという声が遠く響いて、ぼくはその時が訪れたのだと知った。
どきんと心臓が高鳴って、ぼくは自分が酷く緊張しているのがわかった。待っているときはあんなに会いたくってたまらなかったのに、今は少しだけ会いたくないとさえ思う。
ほんの少し、恐かったのだ。こんなぼくを見たら、きっとノボリはぼくを捨てたりしないって信じたいけれど、もしもこれで突き放されたりしたら、いったいぼくはどうなってしまうのだろう。
幻滅されて、もうノボリの弟ですらいられなくなってしまったら、ぼくは普通でいられるのだろうか。やっぱりちょっとだけ恐かった。
昔はノボリのことはなんでもわかったのに、年が経つにつれてぼくらは違う生き物になっていくようだった。まるでひとつの細胞が離れていくように。
ノボリに恋人がいたことだって、知ったのは最近だった。付き合って一年も経っていたっていうのに、そんなの気がつきもしなかった。
初めはちょっと驚いただけだった。ぼくらもいい年だから、恋人の一人くらいいたって全然おかしくないのだ。(ぼくは欲しいとは思わなかったけれど)
おめでとうだって、その後ぼくはちゃんと笑って言えていた。でもあのノボリが、ぼく以外のことでにこっと笑ってありがとうと返すと、ぼくのこころには確かに良からぬものが芽生えたのだった。
二日三日と経って、ノボリを見るたびにそれはむくむくと成長を続けた。
ぼくに恋人がいることを隠すことのなくなったノボリは、ぼくへ酷い仕打ちをしてきたのだ。
休日にぼくを置いて家を出るようになったり、夕食を一緒に取らなかったり、携帯ばかり弄っていたり。
すっかり浮かれているノボリのせいで、ぼくのこころはどんどん汚れていった。
世界中の罪悪を吸い込んだような色をして、あの日生まれた醜いものはあっという間にぼくの胸を支配した。
こんな感情に追い立てられれば、いつしか人さえ殺してしまえそうな気がして、僕は自分が恐くなる。
そうして今朝のことである。ノボリは清潔なスーツを着込んで、照れくさそうな顔をして起き抜けのぼくに微笑んだ。
今日のネクタイはいかがでしょう。実はこれから、プロポーズをしようと思うのです。指輪もどうか見てくださいまし。これならわたしくは失礼がないでしょうか。
ぼくはそれになんて返したのか、とても思い出せなかった。この日聞いた扉の閉まる音に、こんなにも世界の終わりを感じたことはなかった。
ぽろりと零れ落ちた涙は、まるで海から引いているかのようにいつまでもいつまでも溢れ続けたのだった。
いまぼくは、深い海溝の淵に立っている。冷たい海の底についに辿り着いてしまったぼくは、とうとう日の光さえ届かぬような暗い穴の中へ足を踏み入れようとしているのだった。
そこはきっと上下もわからぬ場所に違いない。二度と浮き上がれぬ場所の境目に立つぼくは、ここから救い上げてくれる手を遥か上の方にあるわずかな光を見上げて待っている。
どうかあなたが、ぼくを見つけて救い上げてくれますように。どうかもう今すぐにでも駄目になりそうなぼくを、見捨てないでくれますように。


「クダリ、クダリ?帰りましたよ、どこにいるんですか。返事をしてくださいまし。クダリ、クダリ」

ノボリの声が部屋中を行ったり来たりしている。ぼくを探しているのだ。
声を出そうにも、願った通りぼくの喉はすっかり枯れていて大きな声を上げることができない。
それでも掠れるような声さえ上げないぼくはとても卑怯だ。ノボリがきっとぼくを見つけてくれることを期待して、息を潜めて待っていた。

「……ああ、こんなところにいたのですね」

ふいに視界が開けて、眩い電光が突き刺すように降ってきた。
幾度か目を瞬かせて見上げると、毛布を剥ぎ取ったノボリがにっこりと微笑んでぼくを見下ろしていた。
どうしてだろう、ノボリが酷く嬉しそうな顔をして笑っている。ぼくは少し前に願ったように悲壮を絵に描いたような姿をしているに違いないのに、何故ぼくの兄は幸せさえ感じているような様子でぼくを見つめているのだろう。

「う…ううっ、やだよう…いやだ、やだようノボリぃ!」

ぼくはその瞬間、全てを理解してその場でまたわんわんと泣いた。
書斎の本棚の狭い狭い隙間、ノボリの大好きな本に囲まれてぼくは枯れ果てた声を振り絞って泣き喚いた。
ノボリはぼくを捨てようとしているのだった。あの写真の可愛い女の子の元へ行き、ぼくをたったひとり置いてけぼりにしようとしている。
昔々ぼくらはひとつだったのに、どうして離れてしまったのだろう。今更片割れだけで生きていくなんてこと、ぼくには酷く難しいんだ。



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