!ヤンデレ注意 善悪などもうわたくしにはどうでもいいことのように思われました。 ここにある間違いのない愛こそがわたくしの理であり、そして世界のすべてであるのだと漸く知ることとなったのです。 そうです、いらないのです。あれもそれも、クダリをわたくしから奪おうなぞという者などなにもいりません。 込み上げてくるものはもう青色をした悲しみなどではなく、血を煮詰めたような狂おしい恋情のみでした。目の前が赤く染まります。 涙を拭うと、世界はまるで違う顔をしてわたくしの前におりました。生まれ変わったかのような心地でわたくしはゆっくり立ち上がります。 守らなくてはなりませんでした。わたくしの世界を、わたくしのすべてであるクダリへの愛を、わたくしは守らなくてはならなかったのです。 それは春のはじめの、まだ肌寒い夜のことでした。 その日は珍しいことに早く目を覚ましたクダリがわたくしを起こしました。 おはよう、と微笑むその顔は何事かを企んでいるようで少し悪人めいております。 うずうずとわたくしが起きるのを待っているクダリのために、眠い目をこすってどうしたのか聞いてあげることにしました。 するとクダリは目をきらきらとさせてわたくしに言ったのです。あのね、ぼくノボリなんて大嫌い! さてわたくしは朝から困ってしまいました。もしかしてわたくしはこんな朝早くからこの弟を躾け直さなければならないのでしょうか。 といった心配もなんだか顔色が変わった弟の一声で消えやりました。ああ、そうですか今日は四月一日でございますね。このわたくしを誑かそうだなんて悪い弟です。 お仕置きにピンと無防備な額を指先ではじいてわたくしはベッドから出ました。額を押さえる弟はもちろん置いて行きます。 しかし白い皿に暖かい朝食が乗る頃にはすっかりさっきのことなんて忘れたクダリは、懲りもせずまた新しい悪戯を思いついたようでした。 わたくしには目もくれずゆで卵の殻と奮闘しながら、クダリはひとつ提案をします。弟が言うには、今日は折角嘘を吐いても良い日なのだから、みんなを騙すのを手伝って欲しいのだと。 さっきからずっとクダリが寝巻きのままだったのは、何もズボンをトーストの屑だらけにしないためだけではなかったのですね。 わたくしはもう一度クローゼットの前に立って、白いズボンに足を通しました。 汚れ易そうなその色に顔を顰めたわたくしに、クダリは隣で笑って笑ってといつになくはしゃいでおります。 なんだかこんな子どものようなことをする方が馬鹿みたいと思うけれど、しかしにこりと笑ってみせるわたくしはきっとクダリを甘やかしすぎなのです。 白いコートに身を包み外へ出ると、先に出ていた弟が庭先で何かを見つけたようでした。 暖かい陽射しを受けてわたくしが昨年植えたチューリップがひとつふたつ咲いております。 もう春だね、そんな小さなことで嬉しそうに微笑む弟を見て、わたくしは庭の管理者として密やかに幸せを噛み締めていたのでした。 ほとんどの駅員達を騙し終えるとわたくしはダブルトレインに身を置きました。 挑戦者はわたくしの手持ちが思っていたものと異なるのに大層衝撃を受けておりましたが、わたくしもダブルはそこまでですのでお相子のはずです。 クダリの真似事にも大分板がついてきたわたくしの指示にうろたえる事もなくポケモンたちはよくやってくださいました。 混乱しどうしの挑戦者達は可哀想に、午後になっても一人もわたくしに勝てないのでした。 種明かしはわたくしに勝ってからと決めておりましたのに、これでは誰も真実を知らないままではないですか。 面白くない、そう休憩室にてクダリと零し合ったそのすぐあとでしょうか。そのときわたくしは誰も自分に勝たなくて良かったと本当に思いました。 もし真実を知り得た方がこの男にそれを話していたら、こんなことは聞けなかったでしょう。 わたくしはボールをしまうと、彼にうんと近寄ってきちんと男の言うことを確かめることにしました。 「本当なの?」 嘘か誠か、それは男の顔を見ればすぐにわかりました。 耳や頬など皮膚の薄い所がうっすら赤く染まり、視線がうろうろと宙を彷徨います。 しかし時折交わる視線の奥に、わたくしは見覚えのある薄汚い感情を見つけて確信いたしました。まさにそれは恋なのでした。 身震いさえしてしまったわたくしに気がついたのでしょうか、男は咄嗟に嘘です、等と都合の良いことを並べ立てますが、今更頷くはずもありません。 ぐらり身体が傾ぐような感覚が襲います。わたくしはそんな様子の名前を知っておりました。 これは危機でした。それもわたくしの根底を揺るがすような大きなストレスです。 倒れそうになるわたくしに男は焦って駆け寄りますが、触れられたその手の気持ち悪さにぞっとして、思わず強い力で払いのけます。 傷ついたような顔がわたくしを責めておりました。しかしわたくしの中の良心はそれを気にかけることはありませんでした。胸の中で荒れ狂う感情を抑えることで精一杯だったのです。 互いに何も言うことができずに、ついに駅まで辿り着くと男は大人しく電車を降りてゆきました。 すみませんと最後に小さく謝った男は思えば普通には悪い者ではなかったのかもしれません。バトルの腕だってここまで来られた者なのですから弱いはずはないのでしょう。 しかし苦しむわたくしにはそんなこと関係ありませんでした。わたくしは、酷い吐き気に襲われておりました。 ふらふらと今にも崩れ落ちそうな身体のまま、次のダイヤも無視して休憩室へ逃げ込みます。 幾人かの鉄道員が心配をしてわたくしに声をかけておりましたが、適当に相槌を打つことさえできず込み上げる嘔気に口元を押さえ、休憩室まで急ぎました。 堪えていたものを一揃い便器へ吐き出すと、僅かに胸の中がすっとしました。 口を漱ぎ乱れた息を整え備え付けのソファでわたくしはクダリを待つことにしました。 恐らく鉄道員から何らかの連絡を受けているでしょうから、そのうち可愛い弟が涙さえ浮かべてやってくるに違いありませんでした。 熱を出して倒れた時もそうでしたから、きっと今回だって駆け込んでくるのでしょう。 しかし10分待っても20分待ってもクダリはやって来ませんでした。更に一時間待ったって扉が開かれる気配はありません。 これは一体、どういうことなのでしょう。わたくしはまたふつふつとあの酷い吐き気が蘇ってくるのを感じました。 わたくしのせいでダイヤが乱れているのでしょうか、なにか事故が起きたのでしょうか、いつにない激しいバトルに熱を上げているのでしょうか。 けれどどれにしたって、わたくしより優先すべきものがあるのでしょうか。 わたくしはすっかり悲しくなって、戻ってきた悪心に涙を浮かべてもう一度洗面所へ走りました。もうなにを吐き出しても不快感が払拭されることはありません。 わたくしの期待は細かな泡沫となって青い波に飲まれて消えました。 すでに水浸しになっていた胸の中が大きく波打ち、跳ねた雫がぽろりぽろりとわたくしの両目から溢れてきます。 どうして、どうしてなのですクダリ。こんなにも悲しく苦しんでいるわたくしを、なぜ助けてくださらないのです。 これ以上吐き出すものがないわたくしは、代わりにさめざめと泣きながら恨み言を零しておりました。 立ち上がる気力さえ湧かず、トイレに凭れて悲しみの底へ沈んでいきます。 わたくしは、昔から弱い人間でした。 悪夢ひとつで何日も眠れなくなってしまうわたくしに両親はよく呆れておりました。 夜を徹して泣いているわたくしを、彼らはうんざりとしたような顔さえ向けてあやしていたものです。わたくしはあの頃、とても泣き虫だったのです。 けれど双子の弟だけはそんなわたくしを見捨てないで、暖かい笑顔を浮かべ手を取り一緒に眠ってくださいました。 どんなにか嬉しかったことでしょう。世界中の希望を集めて形にしたら、きっとクダリができるのだとわたくしは思っておりました。 クダリはわたくしの世界のすべてだったのです。ですから彼に裏切られたり、または誰かに奪われたりすることは確かに絶望というものでした。 それはわたくしがすっかり大きくなってしまっても変わるものではありませんでした。 大切なものは、今も昔もおんなじです。クダリを愛すること、愛されること、わたくしの生は、彼への愛情だけでできておりました。 血も肉も零れ落ちる涙もみんなみんな、クダリへの愛でできていました。それはわたくしの唯一の誇りです。 つまりわたくしが言いたいのは、他のものはなにもいらないということなのです。 ましてやわたくしからこの穏やかな世界を取り上げようという者たちを、決して許してはいけないのです。 苦しさに流れ落ちた涙を拭って、わたくしはそこから立ち上がりました。白いコートに付いた埃を払って、ひとりその部屋を後にします。 大切なことを思い出したわたくしに泣いている暇はなく、覚束ない足を叱咤しながらなすべきことのために動かします。 その背中には悪夢に憑かれ夜を彷徨う幼き日のわたくしが、今もしがみ付いているのでした。 →2 |